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「海」は「みずたまり?」〜我が子の話しことば習得過程を観察していて思うこと

超高齢で出産した子供。
現在、3歳。
女児。

泣くしかできなかった赤ちゃんが、
だんだんと上手におしゃべりをするようになっていく。

その過程を観察することは、
「言葉」「声」「伝える」が専門の私にはかなり興味深く、面白い。

1.「言葉」の習得過程について

1.1 インプットした単語はとにかくアウトプットしたい

語彙力は、すごいスピードで増えていく。
そこから使い方、文法、意味を学んでいく過程は、見事だ。

「耳から」聞いただけの単語の意味はわかっていないことも多い。
例えば、大人同士の会話から「看板」という単語を聞き取ったとしよう。

すると、
「あのね〜、保育園でね〜、カンバンきたよ〜」
と使ってくる。

その後も、
「カンバンがね〜、おすなばでシューってちっちゃかったよ」
など、意味不明に登場する。

インプットしたものはアウトプットしたくてたまらないらしい。

意味が違っても無理やり盛り込んでつかう。

なにか新しい単語を聞き取ると、
その新しいツールを手に入れて使いたくてたまらないという様子だ。

使い方が間違っているかどうかなんておかまいなしに、
とにかく手に入れたばかりのツールを使いたいという欲求を
表現として投げてくる。

「でんしゃ」という単語もは比較的早くに覚えた。
路面電車のある街で暮らしているので、
電車は日常的によく見るせいか、意味を間違えて使うことはほぼなかった。

電車を見かけるたびに「でんしゃ〜」と言っていた。
それを聞いた我々大人は
「女の子なのに電車が好きなんだね〜」と
わざわざ電車が見える道に遠回りして散歩したり、
電車が見える公園で遊ばせたりしたが、
もしかしたら、
自分で名前がいえる「でんしゃ」を見つけて
「でんしゃ」と言えるのが嬉しかっただけかも知れない。

1.2 言葉の意味を理解するために、自分なりの定義をする

単語がインプットされて、その意味がわかるようになるまでに
誰から教えられるでもなく、
その子なりの「定義」をしていく過程があるようだ。

印象的だったのは「うみ」という単語を覚えたころだった。
「うみ」は「海」だが、彼女の中での「うみ」の定義は
「水がたまっているところ」だった。

「海」はもちろん、「川」も「池」も、
ちいさな「みずたまり」もとにかく水がたまっているところを見つけては
「うみ〜」と指差していた。

もうひとつ、
これは今でも続いているが、「きのう(昨日)」という単語だ。
「きのう(昨日)」は、彼女にとって「前日」という意味ではない。
「きのう(昨日)」は、「過去」だ。
昨日も一昨日も、ずーっと前も「きのう」だ。

それも、明確に定義されていて
”一度寝ると、それ以前のことはすべて「きのう(昨日)」になる。”
だから、お昼寝をすると、午前中は「きのう」だ。

1.3 対比の言葉を使いたい

おおきい←→ちいさい
あたらしい←→ふるい
ちかい←→とおい

などの対比の言葉を一緒に使いたがることがある。
おおきい、ちいさいの意味がわかりはじめた頃、
保育園の先生のことを
「おおきい〇〇○さん」「ちいさい〇〇○さん」と呼び始めた。
(先生ではなくさん付けで呼ぶ園だった)

はじめは○○○さんがふたりいるのかと思ったが違った。
保育園に行って、
「おおきい〇〇○さんは?」と聞くと、〇〇○さんを指差し、
「ちいさい○○○さんは?」と聞くと、■■■さんを指差した。

〇〇○と■■■の発音は母音が同じなので、聞き間違えやすい。

そのうち、
「おおきい〇〇○さん」
「ちいさい■■■さん」
と、ちゃんと名前を間違えずに言うようになったが、
相変わらず「おおきい」「ちいさい」はついていた。

どうやら「おおきい」「ちいさい」がわかるようになって、
体の大きさ?背の高さ?で呼び分けしているらしかった。

あたらしい←→ふるい 
がわかってきたころは大変だった。
「ふるいママはイヤだ。あたらしいママがいい。」
と、怒るたびに言われていた。

1.4 なんどもやりとりだけをやってみたい

覚えた言葉を使うのが楽しくて仕方ないのだろうと思うことがよくある。

例えば、保育園から家に帰る途中のこと。
「もうちかい?」と聞かれるので「まだ遠いよ」と答える。

何回かそれをやりとりすると、今度は
「もうちかい?って聞いて」と私が質問するという役割を担わされる。

車を運転している途中には、
「あれなーに?」と聞かれ
「信号機」などと答えると、
今度は、「あれなーに?って聞いて」
と言われ、「あれなーに?」「しんごーき」
の会話を何度かするはめになる。

これらのリクエストをないがしろにすると、
(後述するが)癇癪をおこして余計に大変なことになるので、
なるべく付き合うように心がけている。

2.声(発音・発声)の習得過程について

2.1 声が出るということ、声が響くということ

どうやったらどういう声が出るのかは、
かなり早い段階から習得しようとしているようだった。
あうあう言っているだけでも、
自分から音が出るのを楽しんでいるようだったし、
超高音の奇声を発するようになると、
確実に頭部への共鳴を楽しんでいるようにみえた。

そんな風に考えていたので、
赤ちゃんの時期に発する奇声は「おお!また発声練習している!」
と寛容に受け止めていた。
(が、泣き声はそうはいかなかった。このことについても後日書きたい。)

2.2 発音できるということ、音をコントロールできるということ

唇や舌のコントロールが自由にできるようになった1歳半ごろからは、
両唇を振動させる「ぶー」という音を出したがったり、
舌を上顎に吸いつけて離す音「カッコンカッコン」をしきりにやっていた。

自分の発声器官がコントロールできること、
自分の口からいろいろな音が出ることを発見してハマっているようだった。

2.3 発音の仕方を習得する

娘と一緒に湯船に入り、
向かい合って「い〜ち、に〜い、さ〜ん」と数を数えるときのこと。
まだ数の概念がないころから、リズムに乗りながら、楽しそうにしていた。
そのとき、必ず、私の口元をじーっと見ていた。

自分で一緒に口ずさめるようになったころ、
わざと大げさに、口を横長に「い〜ち」と開いたり、
「きゅう〜」ではタコのように唇を尖らせたりすると
ちゃんと大げさな口のあけかたを真似してくる。

発音については、耳から覚えるだけではなく、
「口や舌の形、使い方」を見て覚えているようだ。

かつてイタリアに遊びに行った際、
イタリア人の友人の子供に日本語で話しかけてくれと言われた。
その日はその子のちょうど1歳の誕生日。
簡単なイタリア語で話しかけた時は笑顔だったにも関わらず、
日本語で話し始めた途端、表情が固まってしまった。
「何をいってるんだこの人は?」といわんばかりに固まって、
じっと私の口元を見ていた。

そのことからも、耳と目で発音や発声を覚えようとしているのだろうと想像する。

2.4 発音の間違いについて

幼児ならではの「あるある」言い間違いは可愛くて面白い。

今、思いつくだけでも、
おひる(あひる)
たまぼこ(かまぼこ)
ハットバン(カットバン)
くじどけい(からくりどけい)
すでびだい(すべりだい) 

などがある。
これらの「あるある言い間違い」は、

①口元からは判別できなくて耳から習得した結果
②発音器官の未熟さからくるもの

の2通りの原因が考えられる。

が、これらは文字と言葉がリンクするようになるころには
自然と気づいて治るもの。
今は、とにかくかわいいと味わっている。

(中には大人になっても雰囲気(ふんいき)を(ふいんき)と言うなど間違っているまま人もいるが)

3.「伝えること」について

今3歳の我が子のしゃべりは達者だ。
会話が成り立つので、しっかりとした意思疎通ができているように見える。
子供自身もそう思っているだろう。
自分の考えていること、言っていることは伝わっていると。

しかし、実際はそんなに簡単ではない。

伝わっていると思っている3歳児は、急に意味不明な癇癪を起こす。

「○○して!ってさっき言ったでしょ!」(by3歳児)
いえ、今初めて聞きました。

「チガウ!チガウ!チガウ!」
「そっちじゃないのよ。こっちなのよ。」
「きのうのやつが見たいの!」
(上記で触れたように「きのう」は前日だけではなく過去のことなので予測が難しい)

「して!」なにを?
「だから、してって!」何かわかりません・・・。

「うんてんするのやつがいい」車?自転車?おもちゃの?本物?

モンテッソーリの「敏感期」の考え方でいうと、
今は「秩序の敏感期」らしい。

とにかく自分が思ったような方法や動きをしないと(自分も他人も)
癇癪を起こす。
そしてしばらく収まらない。
彼女が思っている(イメージしている)方法や動きを私が想像できるときは
癇癪は早々に収まるが、
さっぱりわからないことも多い。(というかほとんどだ)

そんな時には彼女のクールダウンを待つしかない。
どんなに説明を求めても、彼女の現在の説明力では伝わらないのだ。

大人も同じなのかもしれない。

わかりあえないのは、
自分の考えていることがうまく伝えられていないか、
相手が考えていることが本当はわかっていないのか。

そもそも
「本当に伝えたいこと」
「わかってほしいこと」
すら、自分自身でわかっていないことも多いのだ。

4.言葉というツールを手に入れた人間だから

私は先にもあげた
モンテッソーリの「敏感期」の考え方が気に入っているのだが、
「言語の敏感期」は胎児期からはじまっているとも言われている。

我が子の発音発声の習得と言葉の習得過程を観察していると、
胎児期のことはわからないが、
生まれてからすぐに言語の敏感期であるだろうことはよくわかる。

言葉の習得過程の中で、
小さい頃から自分で「音」を発見し、「意味」を見出し、
「定義」していくこと。

「感覚として言葉を身につけていく」

だからこそ、おなじ国や地域で生まれ育ったとしても、
ひとそれぞれ微妙にその「言葉」の受け止め方に
ズレがあるのだろうと感じている。

「言葉」というツールを手に入れた人間は、それを使いたくて仕方がない。
それを使うことが楽しいし、便利だ。

しかし、その言葉の意味に、
ひとそれぞれ微妙なズレがあることが意識できず、
同じ言葉を、一切のズレがなく全く同じ意味で使っていると信じていたら、
そこにひずみが生じ、悲しいことになってしまうだろう。

言葉という便利なツールを手に入れた人間だからこそ、
それが絶対なものではなく、
辞書では示すことができないほどのわずかなズレがあるだろうことを
意識できれば、
自分が伝えたいことが伝わっているのかどうか
相手の伝えたいことを理解できているのかどうか
それらのことをもう少し考えられるようになるのかもしれない。

(写真は、興居島からの瀬戸内海)

アナウンスハウス松山 福井一恵

書いてみたこと、発信してみたこと、 それが少しでもどこかで誰かの「なにか」になるならばありがたい限りです。