【ツイート転載】山本昌で学ぶ若者論の歴史(H27.9.26)

山本氏の戦歴はWikipediaと下記のツイートを参考にしました。
https://twitter.com/magarisan/status/647542308947099652

1983年 山本昌広、中日ドラゴンズにドラフト5位で指名される。
この年、中森明夫が『漫画ブリッコ』誌に連載コラム「「おたく」の研究」を寄稿。「おたく(族)/オタク」論の走りとなる。また同年、浅田彰の『構造と力』(勁草書房)が発売。

1984年 山本昌広、中日ドラゴンズに入団。
この年、浅田彰の『逃走論』(筑摩書房)が発売。「スキゾ/パラノ」の対立基軸を打ち出し、「スキゾ」を礼讃するコラムが収録される。

1986年 山本昌広、一軍初登板。
同年、「新語・流行語大賞」に「新人類」が金賞として選出。受賞者は西武ライオンズの清原和博、渡辺久信、工藤公康の3選手。

1988年 山本昌広、ロサンゼルス・ドジャースに野球留学。また、同年の広島戦でプロ初勝利。
同年、野田正彰の『コンピュータ新人類の研究』が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。また流行語大賞に「カイワレ族」と、青少年と情報のあり方が問われる。

1993年 山本昌広、最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得し、オフに年俸1億円を達成する。
同年、宮台真司を中心とした「ブルセラ論争」が論壇誌を沸かせる。

1994年 山本昌広、沢村賞と2度目の最多勝に輝く。
同年、宮台真司『制服少女たちの選択』(講談社)が発売。

1996年 山本昌広、登録名を「山本昌」に変更。
このあたりから「援助交際」が話題になる。

1997年 山本昌、初の開幕投手と最多奪三振、通算100勝、3度目の最多勝に輝く。
同年、神戸市連続児童殺傷事件(「酒鬼薔薇聖斗」事件)発生。このあたりから、青少年言説が劣化言説でまみれるようになる。

2000年 山本昌、2回目の開幕投手に選ばれる。
同年、豊川市主婦殺傷事件、西鉄バスジャック事件など「17歳の犯罪」が相次いで問題視される。

2004年 山本昌、年俸2億円に到達。
同年、玄田有史らによる『ニート』(幻冬舎)発売。若い世代の就労の問題が経済的な問題として捉えられつつあった流れが再び世代論に戻される走りとなる。

2006年 山本昌、通算2000奪三振とノーヒットノーランを達成。
この頃より、若い世代における貧困化が、「ニート」論への社会学者などにより反論として取り沙汰されるようになる。翌年、朝日新聞が連載「ロストジェネレーション」を掲載。

2008年 山本昌、通算200勝を達成。
この頃、『日本溶解論』(プレジデント社)をはじめとして三浦展による、マーケティング的価値観やバブル期の懐古主義による若者叩きの諸著作が話題となる。

2010年 山本昌、史上最年長完封勝利を達成。
この頃から三浦展が(俗流)若者擁護論に傾くようになる。

2014年 山本昌、史上最年長勝利を達成。
この頃から(正確には前年から)古市憲寿が1980年代半ば生まれの若者の〈代表者〉としてメディアで振る舞うようになる。

2015年 山本昌、現役引退を表明。
この頃、育鵬社の中学校公民教科書が「江戸しぐさ」「サムシング・グレート」などの怪しげな理論を掲載したことが話題となる。

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