WELQ糾弾と人の業

ニューヨークは寒くなってきました。今週は氷点下になりそうです。僕はFinal Exam真っ最中でして、45歳にして試験勉強にひぃひぃ言っております。

そんななか、WELQ問題関連の記者会見に伴う記事について、どうしても気持ち悪くてちょっと書いてみます。そして、紺屋勝成さんのご逝去。

WELQを運営するDeNA会長の南場智子さんが、社長の守屋さんと共に、2016年12月7日に記者会見を開かれたそうです。ネットでニュース検索する限り、かなり多くのメディアがこれを速報記事にしています。まあ、そうですよね。WELQ問題は、ネットを席巻するキュレーションメディアの根源的な闇を浮き彫りにした事件だと思いますし。

その一方で、12月5日に南場さんのご夫君である紺屋さんがご逝去されたとの報がありました。心よりお悔やみ申し上げます。もう随分昔、僕が現職の前のベンチャー企業にいたころ、ネオテニー時代の紺屋さんと何度かお会いしたことがあります。非常に物腰が柔らかく気さくな方で、「ブイブイなネットの世界の投資側に、こんな人格者がいらっしゃるんだ」と驚きと安堵を覚えたことを思い出します。

Facebookの知人のポストで紺屋さんのご逝去を知り、ソースを探していた所、この記者会見の記事に遭遇し、そして嫌な気分になったので今書いてます。

アメリカ東海岸で16:00頃、日本時間で多分12月8日の午前6時頃検索した段階では、いくつかのメディアは南場さんの記者会見をこんな風に書いていました。

DeNA南場智子会長「ネット情報役に立たなかった」 亡くなった夫の闘病で --- SankeiBiz
2日前に亡くなった夫の闘病で… 南場智子会長「ネット情報を調べたが、役に立たなかった」 --- 産経ニュース
ウェルク公開中止 DeNA社長が謝罪 看病経験の会長「ネットの情報役に立たず」--- 毎日新聞

これらの記事は、今これを書いている東海岸時間21:00(日本時間11:00)現在で存在が確認できますが、それ以外はなんか消えたっぽい(上記はまだありますね)。証拠がもうないので書けませんが、いくつかの全国紙、ブロック紙が、「亡くなった夫」という訃報+「ネットの情報役に立たない」という南場さんのコメントを見出しに併記していました。

僕が紺屋さんと面識があるから、普通の人よりこの書きっぷりに腹が立つのは個人的な感情バイアスかも知れません。でも、扇情的な見出しであることは間違いなく、記者にとっては絶妙なタイミングでこれらが重なったとは言え、良識を疑いました。たとえそれがゴシップ的なコンテンツパワーを持つとしても、少なくともジャーナリズムを標榜する新聞社各位は、こういう書き方をすべきではなかった、と思います。

また、おそらくは上記の不快な表現を変更した記事について、僕は一定の評価をしています。僕には魚拓を残してあげつらう趣味はないし、おそらくは「これはいかん」と思って変更したであろう事実に意味があると思いますので。誰かからのクレームによって変えたにせよ。

密より甘いと言われる人の不幸と、不正や悪事を糾弾するジャーナリズム。この境界線は非常に難しいかもしれません。得てして、告発記事とは人の不幸を作り上げた輩の企みを世に知らしめるものですから、無関係とはいい難い。しかし、人の過ちに人の不幸を重ねるような恣意的な扇情は、非常にグロテスクとしか思えません。確かに、医療情報を扱うWELQの問題と、その経営者の最愛の夫が癌で亡くなるという、恐ろしいほど皮肉なタイミング。これを並べれば、強力な見出しになるであろうことは中学生でもわかるでしょう。でも、それをしないのが良識ある大人であり、ジャーナリズムを生業とするプロである、そういう矜持が持てないメディアの姿勢は、本当に気持ちが悪いなあと。

この報道加熱で感じたのは、人の業とデジタルの業。旧来のメディアに代表されるコンテンツメイカーの地位崩落があって、その原因を作ったキュレーションメディアのビジネス合理主義が産んだ、その信憑性への問題。地位を失いつつ不遇を囲うプロなライターたちの怨嗟とも言える心情が一斉に吹き出しています。一方で、人の不幸をあげつらう、という、おどろおどろしい伝統的メディアビジネスの根源的な常套手段。魅力的な、カネのなる禁忌。結局、聴衆の闇がメディアビジネスを作るんだとしたらどっちも対して変わらない。そう思わせてしまうこの報道。公序良俗や文責にプライドを持ってこその今回の糾弾を、怨嗟を込めて禁忌を使ってしまう、記者の人の業であり、これが受けてしまう聴衆の人の業。

一方で、そういう旧来メディアを既得権益側のバイアスとして糾弾し、一般のノンバイアスな声を集めることでその正当性を集めてきたキュレーションメディアが、実は検索エンジンとコンテンツの調達コストしか見ていなかったという事実。当初の信憑性はそこそこでも、圧倒的なレビュー量があれば正しい情報に改善されていくという集合知の発想が根底にある。その圧倒的レビュー量を集めるためには、検索ワードのトレンドと整合性を取らねばならず、実はSEOがビジネスとしての最大優先事項になる。炎上でもなんでもいいから、アクセスが集まれば広告商売ができ、ビジネスになるから。ただ、情報には謝って済むレベルと済まないレベルがあって、これはサーチトレンド見ててもわからない。メディアなら本来、情報を受け止める側のことを考えなきゃいけないけど、これに気づかない。これがデジタルの業。

そして、さらに皮肉なことに、そのサーチフレーズは、人の意図を吐露する言葉であるわけで、ある意味、人の業そのもの。結局、キュレーションメディアも人の業を忠実に反映しているわけです。ただ、検索エンジンという人ならぬものを第一義に見てしまったので、どこからがタブーであるかを気づかずにスルーしていた(正確には、ぼんやり気づいていただろうけど、重大だとは思っていなかった)のでしょう。

意図的に人の業を操る伝統メディアと、間接的に人の業に最適化していたキュレーション・メディア。

すなわちメディアとは人の業に踏み込むことで糧を得る商売なのかもしれない。だからこそ、そのコンテンツには世の中を良くしよう、という思いが込められていて欲しい。たとえ意見が割れるようなコンテンツであっても、少なくともプロのコンテンツメイカーは読む人見る人を正しく導くという意図を込めて欲しい。

「自分が儲かる」「溜飲が下がる」というその一点だけを意識して書かれるコンテンツは無くならないと思います。ソーシャルメディアがある以上。ただ、仮にもプロのコンテンツメイカーを自負するならば、受け手の幸せを正義として、それを説明できるものを作って欲しい。そう思います。

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