GW中こんなこと考えた

教育などの観点でよく使われる例え話に、

"魚を釣ってあげるのではなく、魚の釣り方を教えてあげる"

といったものがありますが、"釣り方を教えてあげる"
ってよりも、"釣り方を見せる"
くらいな方がいいんじゃないかとか、そんなことを考え始めたら今年のGW10日間終わってました(笑)

せっかくなのでメモしとこうって感じで以下。

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元々、この話の由来は中国語でいう
『授人以魚 不如授人以漁』
というもの。

中国といえば、そう"儒教"の国。

"儒教" とは、
平たく言えば "目上の人を敬え" というような考え方です。
(こんな浅い理解であれこれ語るのはあれですが、表現の自由ということでご勘弁ください。)

それを踏まえて考えを飛躍させてみると、
"魚の釣り方を教えてあげる"
の背景には
"(釣り方を知っている上の者が知らない下の者に)教えてしんぜよう"
みたいなニュアンスがあるんじゃないかなとか、そんなことを感じ取れます。
いや別に、この行為自体を非難するとかではなく、知らないことを教えてくれるっていうのは当人的に凄くありがたいし、
困っている人にアドバイスすることって凄くいいことだと思います。
そういうことが出来る人って大事な存在だなって。
ただ、その背景には
"無意識の上下関係"
が発生しやすい気がなんとなくします。
特に、儒教的な考え方が広まっているアジアの国では特に。
行き過ぎた考え方をするならば、それは "お上の言うことは絶対"
みたいな思想に発展していくんじゃないかと。

儒教の考え方が染みついている日本ですが、
同時に仏教的な考え方も受け入れられています。
(葬式仏教なんて言われるくらいで、普段意識されることはありませんが)

そこで、仏教の開祖である "釈迦" の考えの中から一つ

"同行二人"

という考え方の本質部分、そこに偉大な概念があるので僕なりの理解を少し展開してみます。

菩提樹の下で悟った釈迦。
その後、インド中を歩きながら人々に教えを広めていくのですが、
ある日釈迦は気づきます。
"自分が説法をする時、一方的に教えを施しているのではない。
同時に自らも相手から教えを受けている" ということに。

上下関係などは存在せず、この世はフラットなものだと。

そしてまた、釈迦が残した最後の説法には

『自帰依自灯明、法帰依法灯明』
というものがあります。
※※※※※※※
ここからはゲシュタルトの構築が微妙で、非常にメモ的な部分。文体も変えます。
※※※※※※※

僕なりにこの教えを解釈するならば
他人に期待するな。
他人に照らされた明りでは、簡単に見えなくなり、迷う。
暗闇を照らしていくには、自ら明りを灯して、それを頼りに歩けと。
また大前提として、人間として当然の倫理を踏まえる。
といった感じかな。
"法" は、"法律や常識" というより、"人間としての倫理" という感覚。
"人間としての倫理" を大事にする。
それはつまり、 "人との関係性" を大事するという帰結に至る。

ま、平たく言えば
"自らの考えによって立ち、人間らしく生きる"
てことか。

ただし、今言ったような考え方の裏には非常に危険な思想を内包している。
"自分がやっていることは正しい"
"人類の為になっている"
そういった考えこそ、人間が他の人間を殺せるようになる論理であり、
戦争を正当化する論理。

だからこそ、『自帰依自灯明』だけではダメで、
『法帰依法灯明』部分が本質的には大事。
『自帰依自灯明』の考えは比較的広まっているけど、いかがなものか。

また、釈迦の教え2大概念のインパクト

・縁起
・アプリオリ性の否定

の内、"アプリオリ性の否定" を踏まえるべき。

"絶対的に正しいことなんてこの世にはない"
自ら灯す、その "自灯明" の不完全さを自覚した上で、
"自帰依" それに寄って歩く。
それはあくまで "自ら" を灯せるものであり、
"決して、その明りで他人をも照らせると思うな"
その人はその人自身で照らすようになるしかない。

ただ、個々が『自帰依自灯明、法帰依法灯明』
として生きていく、その生き方は互いに影響し合う。
この世は非常に相方向性なもの。

"縁起" の教えに通じる。

なにより、"不完全" でしかないと自覚しているから、
"(上から目線で)教えてしんぜよう"
なんてことにはならない。

"同行二人"
の教えと通じてくる。

こういう関連性について違う表現をするならば、

"アプリオリ性の否定"
は、
"同行二人"
を包括する、より抽象度の高い概念ということ。
こうした抽象度の高い概念を意識することで、
そこから落とし込まれた他の概念への理解は進みやすいんじゃないか。
なので、さっきも書いた

・縁起
・アプリオリ性の否定

この2つを意識することは、非常に偉大なコツになってくる。

ただし、この意識に対しても "アプリオリ性の否定" を忘れてはいけない。
この感覚も不完全で、不確かで、絶対なわけがない。

とまあ、書いている自分自身も、だんだんと、頭が混乱してきました。

締まりは特にありませんが、
ま、僕にとってこの場所は

この通り、メモでしかないってことでご勘弁。


あ、一応、最初にした話の締めを思い付いたので書いてみます。
本当にお腹が減っている人には魚釣ってあげなよ。と思いますね(笑)
ただ逆の視点もあって、本当にお腹が減っているなら、死に物狂いで釣り方学ぶはずだから、たぶん、教わった時のインパクトはデカいはず。
うん、別にどっちが正しいってことはない。
まさに、アプリオリ性の否定。
ということで、書き出し終わったから、これで僕のGW10日間、多少は締まったはず(笑)

縁起が繋がった際には、また別のメモでお会いしましょう!

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