キング牧師

なぜ、「差別」は無くならないのか

・また産休かよ、子沢山でいいねぇ
・絶対あいつ「ツンボ」やん
・「使えねえ奴」だよなあホンマ
・「民度」が低いんだよお前は
・あいつどうせ「チョン」やろ
・あの社長絶対自分の事しか考えてないやん

このような言葉は日本全土で恐らく観測できるのではないだろうか。いわゆる「差別」というやつだ。「いじめ」や「愚痴」と捉える事もできる。

歴史的に見ても、ユダヤ人に始まり、黒人、アボリジニー、日本でもアイヌ等、民族的な差別は世界中で散見される。近年では、中流階級の白人でさへ、リベラルな上流階級の白人に差別されるという事態まで起きているそうだ。

私自身、在日韓国人だ。就職、恋愛、友人のヘイトスピーチ(その彼は私が在日である事を知らなかったのだが…)等、日本で生きる上でのある種の「洗礼」を受け、傷付いた事があるのも事実だ。

窪塚洋介、柴咲コウ主演の映画GOに見るあの世界観そのもの。

「広い世界をみるのだ!」

と主人公が叫んだシーンが印象的だった。

また、スペインに滞在した際(この時パスポートを盗まれ大変だったのだが、今となってはいい笑い話だ笑)、地下鉄の中で受けた、白人からの強烈な視線を覚えている。

「こんなところで何してやがんだ?イエローモンキーめが。」

とでも言わんばかりの排他的な異物を見るような視線だった。ただ、そう感じたのも、あくまで私自身でしかない。もしかすると相手は何も思っていなかったかもしれない。

だが恐らく、人間として生きる以上、この「差別」から逃れる事はできない。むしろ、その「差別」を前提して生きた方が随分と生きやすい。


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哲学者の竹田青嗣氏をご存知だろうか?彼も在日韓国人であり、二世として私の父と同じく団塊の世代を生きた人物だ。現在は早稲田大学で教鞭をとっており、彼の著書は、現代におけるリベラルアーツの重要性を説く山口周氏も絶賛している。

その竹田青嗣氏は、彼の著書である「哲学ってなんだ」の中で差別の本質的契機について言及しており、3つあると述べている。私自身を例にとると以下のようになる。

①アイデンティティ補強
いわゆる「マウンティング」の事を指している。相手を「劣等な存在」としてみなし、相対的に自身の価値を、アイデンティティ感覚を補強すること。

②共同体関係

それぞれが「在日韓国人」という共同体、「日本人」と言う共同体にたまたま属しており、その属性が自然なものとして信じられていること。

③一般通念の利用

二つの共同体の優劣の関係が一般通念として共有され、暗黙のうちに信じられていること。

経験則的にも、上記は極めて該当する。そして「無意識的」に反骨精神が心の波を荒立てる。人間は抑圧されれば(されていると感じれば)反発する。思春期の子どもが親に反発する構造と全く同じだろう。

問題なのは、上記構造は差別をする側にとって自覚する事が極めて困難であり、誰もが差別をする側に移ってしまう可能性が往々にしてある事だ。

身体障がい者、精神障がい者、生活保護受給者等を想像すれば上記構造は明確に理解できる。だが、健常者の間の方が多いくらいだ。マウントを取りたがる人間は多くの場合強い劣等感を抱いており、そして同時に、別の「権威」によって抑圧されている。その連鎖が続いているのである。

また、共同体の範疇を広げるとどうなるか。中国や韓国からの観光客に対して、「なんてマナーが悪い奴等なんだ」と思ったことはないだろうか?

正直、私はある。

そしてさらにその範疇を広げると、黄色人種として西洋人から差別される東洋人の姿も容易に想像できる。「差別」はとても身近な存在だ。

竹田氏の考察はあまりに鋭い。
初めて彼の文章を読んだ時、私は戦慄が走った。


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差別の構造は上記整理した通りだが、更なる問題は、自身が「差別される側」となった際にどのように対処すべきかだろう。ここからは私なりの見解だが、対処法として2つを提示してみたい。

(1)複数のコミュニティへの所属意識
先程挙げた在日韓国人の例を取ると、差別される側がアメリカ国籍を持っている場合はどうだろうか。アメリカは出生地主義だ。一方の韓国は領事館や大使館を通じ本国へ戸籍を届けると国籍は取得できる。いわゆる「ダブル」である。その場合「チョン」という悪魔の言葉の効力は半減以下になる。「いや、俺アメリカ人でもあるし。だから何?」あっけらかんと言い返す事ができる。一つの共同体にのみ所属しているということが返って仇となるのではないだろうか。よって、国籍だけにかぎらないが、より俯瞰的に自分を捉え、自身の「拠り所」を複数認識しておくことが望ましいと考える。

(2)共同体の優劣そのものへの懐疑
優劣とは相対的になされるものであり、その多くは二項対立だ。その前提を疑ってかかる手法がある。先程の例によれば「そもそも文化も言葉も違う日本と韓国だけで比較すること自体ナンセンスじゃね?」という具合だ。哲学者のサルトルは西欧文明と未開の辺境を比較し、進化している前者の方が優れていると主張した。一方、文化人類学者のレヴィ・ストロースは、そもそもその二項対立で比較する事自体がおかしいのではないかと主張しサルトルを批判した。ジャック・デリダという哲学者が唱えた「脱構築」という手法だ。相対的にしか物事の「差」を見出す事が出来ない一方で、無意識的に限られた枠組に縛られている事は往々にしてある。イノベーションが「前提」を疑うことからスタートする事とも類似している。


つい最近、日本の終身雇用崩壊が各メディアで報道されたが、各企業の副業解禁に伴い、パラレルワークは今後主流となることが予想される。(1)は正にそのイメージだ。「1つ」に固執するからこそ、その「1つ」が脅かされるとアイデンティティの危機が生じる。

手段としての「お金」がある事を我々は望む。年始に世間を賑わせたZOZO前澤氏のキャンペーン以降、Twitterを中心に同じような企画を行うものが後を絶たない。不安を煽り、「稼ぎ方」を説くアカウントも多い。ここでも、無意識的に【富裕者】>【貧困者】という暗黙の了解が成り立っている。まるで「お金」という指標だけで幸せを測れるかの如く。その前提を疑ってかかるのが(2)のイメージだ。

その他にも、挙げればきりがない。
泣きわめく小さな子どもと電車に乗る母親もそうだ。彼女達は「周囲に迷惑をかけないか」と怯えながら公共交通機関を利用している。文脈からすると彼女達は間違いなくマイノリティだ。

今でこそ社会的地位を得ているが、いわゆる「オタク」の人達もそうだろう。趣味・趣向によって今でも偏見の目で見られている状況がある。

詳細の描写は避けるが、パワハラ、モラハラの類もそうだろう。被害を受ける方にしてみたらたまったもんじゃない。人の人生を左右しかねないという自覚の足りない人間に憤りを覚える。私も親しい友人2がパワハラを苦に自ら命を絶った…こんなに悲しいことはない…


私自身を例にとっても同様だ。最も強烈に覚えているのは新卒時の就職活動。不自然な面接官の対応にしびれを切らし、私の方から直接質問した。

「それは国籍が理由だからですか?」

面接官は冷静な表情で、「そうです。」と答えた。もちろん面接は不合格だった。その他の要因があったのかもしれない。その要因への直接的な言及を避けるために敢えてそう述べたのかもしれない。某大手企業だったが、この時の屈辱と辛酸は忘れない。自分だけならまだしも、育ててくれた両親を含め、家族をも否定されている心境になった。

ただ、だからと言って、日本社会全体を一般化して敵対する訳では決してない。一人の人間として自身の存在を尊重してくれる多くの人達に俺は恵まれている。心から感謝している。

そして、自分自身の出自が「付加価値」になるくらい、人生を謳歌してやろうと思っている。

俺の中の「GIANT KILLING」を起こすんだ。


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「差別」は決してなくならない。

なぜならそれは、上述した内容に加え「主観的」なものでもあるからだ。いじめた側の「そんなつもりはなかった…」という言葉が物語っている。

また、文脈や状況、共同体の切り取り方によって、差別をする当事者になる可能性も十分にある。その事を我々は決して忘れてはならない。

万が一「差別」に遭遇した際は、

「だから何ですか?それが何か?」

と、笑顔で受け流せばいい。その多くはアイデンティティの相対的強化と、認知的不協和によるものだからだ。こちらがスマートに受け流すことが出来れば、相手が追随してくることもない。

画像1

井上雄彦氏の漫画「スラムダンク」では、全国大会での豊玉戦において、相手の挑発にのる宮城リョータが平静を取り戻していく場面がある。この場面はこれまでの内容をを全て踏襲している。極めて象徴的なシーンだ。


誰もが、加害者にも被害者にもなる可能性がある事を認識できれば、もっともっと思い遣りのある社会になるのではないか。むしろ、一人ひとりが自戒を込め、そのような社会を創り上げていかなければならないのではないか。

俺は、心からそう思います。

誰もが、「マイノリティ」となり得るのだ。


おわり


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