サイエンスで勝とうとすればサイエンスだけで敗れる Prologue.4

サッカーというスポーツは、そもそも全てを「サイエンス」で説明できるのでしょうか?この『芸術としてのサッカー論』ではそこを追求していきます。

私はこのままだと、日本がサッカーをますます「陳腐なもの」にしてしまい兼ねないと危機感を持っています。それを防ぐには、2つのことを理解する必要があります。


1.サッカーとは「芸術(アート)」である

2.「科学(サイエンス)」はそれを補足するものである


アートとは、言語・数値では説明できないものです。サッカーにおける「本質」は、この「アート性」にあります。監督がどのような戦術で試合を進めるのかを「決断」することはつまり「アート」で、それをコーチが「サイエンス」を使って具体化していくことが良い例です。それは「監督のアート性」に依存します。

また、私たちがこれまでサッカーに「ワクワク」や「ゾクッと」させられたような「奇跡的な瞬間」や、欧米・南米のスタジアムの雰囲気、ロッカールームで行われる儀式、命をかけて戦う外国人選手の表情・仕草、監督の「直感」によって即決定された采配の美しさ、これらは全てアートであり、いつだって私たちが「心を動かされた」のは「芸術としてのサッカー」のはずです。


■サイエンスよりもアートが先にこなければならない

私たち日本人がサッカーを考える時は、「芸術(アート)としてのサッカー」と「科学(サイエンス)としてサッカー」を分けて考える必要があり、バランスを取らなければならないのです。そして絶対に「サイエンスよりもアートが先にこなければならない」ということは理解しておかなければなりません。

何度も言いますが、アートがあり、それを補うものとしてサイエンスがあります。前述したように、サイエンスとは「再現性」があるものですので、必死になって欧米のサイエンスを追っかけ続けても、日本が世界を追い越すことはありません。サイエンスが先にきてしまうこととはつまり「他と同じになる」ということです。

「まずは欧米から学ぶことが先なのではないか?」と考える方が多いと思うのですが、私の考えはYESでありNOです。それを考えるには「そもそもなぜ欧米サッカーはサイエンス化して行ったのか?」をまず考えなければならず「アート→サイエンス」という順番でサッカーを考える必要があります。サイエンスを追い求めることから始めることで「ビジョン」を必要とせず、「短期的な成果」しか得られなくなってしまいます。私たちは最新のサイエンスを学ぶよりも先に、野球がデータ化された歴史から、ミラン・ラボがサッカーにサイエンスを持ち込んだ経緯を学ぶ必要があるのです。サッカーは、サイエンスから生まれたスポーツではないわけですから。



■なぜ「サッカーを言語化すればするほど日本は世界に離される」と断言できるのか?

なぜ、日本サッカーがこれからサイエンスを過剰に追い求めることや、サッカーは全て言葉で説明できるものとして認識されてしまうことに、私が危機感を持っているのか…。それは以下の理由です。


①「サイエンス」の行き着く場所は同じ到達点
サイエンスとは「同じ到達点に向かって進んでいくこと」を意味します。「後から説明出来る」サイエンスには再現性があります。世界のサッカーは今、「必死になって同じ到達点に向かっている」ということに気付いていない人は多いです。つまりそこは、レッドオーシャンです。日本がもし「欧米や南米の後を追うこと」を目的としてサッカーをしているのであれば今のままで問題ないのかもしれませんが、もし「世界に勝つこと」を目的としているのであれば、サイエンスを追いかけるのではなく、アートを追い求める(作り出す)必要があります。それは、言葉では説明できないサッカーの「本質」を学び直すことです。


②サイエンスで勝つには「先に到達する」必要がある
なぜそう言い切れるのかと言うと、サイエンス(つまり同じ到着点)へ向かっている状況で勝つには「先に到達しなければならない」という絶対条件があります。欧米よりも日本が先に「ある地点」までサイエンス化をしなければ、当然勝つことは出来なくなります。

では、そのためには単純に何が必要か?誤解を恐れずに言えば「お金」です。お金がなければサイエンスを追求することは出来ません。欧米は日本とは比べものにならないコストをかけて、サッカーのサイエンス化を進めています。欧米よりも先に到達するには、お金をかけて戦わなければなりませんが、日本サッカーはそこにお金をかけません(と言うよりサッカーで欧米よりお金を生み出すことは出来ません)。どう考えても、離される一方なのです。

欧米にサイエンスで勝とうとすれば、サイエンスだけで簡単に敗れることになります。


③「サッカーはアートである」ということを世界は理解している
私はサッカーのプレーを言語化することを全否定しているわけではありません。前述しましたが、サッカーという自由度の高い共同作業においては、ある側面において言語化は必要なことであり、サッカーにおいてサイエンス(言語化)は不可欠です。しかしこれからの日本は、このまま行くとサイエンスに支配され、サッカーのアート性を失っていきます。例えば敗北のすべてをサイエンス(データがどうとか、戦術がどうとか…)で語るようになり、アート(戦っていないとか、心が動かないとか、気持ちがないとか…)を理由にすることが「タブー」として扱われます。ここまで読んでくださった人の中には「これだけサイエンス化が進んでいる現代サッカーでも、それぞれの国やクラブにはそれぞれの色があって、同じではない」と思っている方がいるかもしれません。その通りです。

それがつまり「アートが先にきている状態」です。

「こういうサッカーをしたい(しなければならない)/ こういうサッカーをしないと気が済まないから"この"サイエンスが必要」というのが本来の順序であり、サイエンスが先に来ることはありません。アートの共通認識がない状態で欧米のサイエンスを表面上追いかけても、彼らに勝つことは不可能です。欧米や南米は、アートがサッカーの「本質」であることを血肉として理解しています。彼らにとっては説明するまでもないが故に「理解」はしているが「自覚」はしていないのです。「世界が言っていないのだからそれは間違っているのではないか」と考えるところの落とし穴はここにあります。

つまり、これらのことを彼らに問うてもあまり意味がありません。仮に彼らが私たちにサッカーを「教えよう」とするときは、必ずサイエンスでサッカーを語ることでしょう。


では、なぜそもそもサッカーにおいてこんなにも「科学(サイエンス)」が正義として扱われるのでしょうか?それには理由があります。


・・・続く



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河内一馬

芸術としてのサッカー論

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