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【対談:前編】『果たしてサッカーは"芸術"であり"表現"なのか?』 河内一馬×三倉克也

2019年1月上旬、『新サッカー論 サッカーとアートのカオスな関係』の著者である三倉克也さんと、私河内一馬が対談を行いました。『サッカーは「芸術」であり「表現」である』という2人の共通認識のもと、私はサッカーの専門家として、三倉さんは芸術分野の専門家として、様々な角度からサッカーを議論しています。

ぜひ、お楽しみ下さい。


—対談者プロフィール—


河内一馬(@ka_zumakawauchi

1992年生まれ。26歳。サッカー指導者。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。サッカーを"非"科学的な観点から思考する『芸術としてのサッカー論』筆者。NPO法人 love.fútbol Japan 理事。

三倉克也

造形・表現作家。筑波大学大学院博士課程人間総合科学研究科修了。人間(身体)‐作品(表現)‐環境(場)をリンクする理論と実践の研究。主にアート&デザインの領域より「表現」としての表象文化全般を対象化する超域理論研究及び制作、演奏、教育活動を展開。サウンドアート、即興音楽、現代美術、表象文化論、環境芸術論、総合教育論等、複雑系カオス理論を基調にした学際的研究を専門としている。


対談までの経緯▼


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河内:まず、ネット上どこを調べても三倉さんの情報がないので(笑)、今現在の専門を教えて頂けますか?

三倉:現在は教員をしております。専門をいくつか上げると、まず「美学」、あとは「芸術学」「表象文化論」という形での芸術です。これらはどちらかというと理論の方ですが、制作という形では、いわゆる「現代美術」ですかね。「現代美術」というのはある意味なんでもありの世界なのですが、もちろん美術的なアプローチもすれば、音楽的な領域での表現活動もしています。音楽というか、音響素材としての「音」ですね。わかりやすく言えば、絵の具の代わりに音を使っています。音を画用紙の上に表現するわけにはいかないので、楽器とかを介在した形で表現しています。

河内:なるほど、非常に難しそうな世界です(笑)サッカーはどれくらいご覧になられるんですか?

三倉:この本を書く前は一番観ていましたけど最近は正直見る機会が減ってしまいました。W杯とか、この前のクラブW杯とか、その辺のイベントごとは必ず観ていますけど…

河内:最近あまり観なくなってしまった理由はあるんですか?

三倉:昔はJリーグの試合とかよく観ていたんだけど、最近はあまりおもしろくなくなってしまって…。テレビで放送してくれなくなったというのもあるのかもしれない。

河内:こんなマニアックな本を書くくらい、相当サッカーがお好きなのかなと思っていたんですけれども(笑)

三倉:もちろん今でもサッカーは好きです。なぜ好きなのかを聞かれると、好きだから好きなんだけど(笑)それを分析するとこの本の中身になりますね。


■サッカーは「芸術」であり「表現」なのか

河内:おこがましいんですけど、僕も芸術がすごく好きだということもあるし、様々な理由でサッカーは「芸術」と深い関わりがあると思っていて。『芸術としてのサッカー論』というタイトルでnoteを始めようと思った時に、何か他に同じような名前のコンテンツがあってはいけないと思ってインターネットで検索したんです。そしたら三倉さんの新サッカー論 アートとサッカーのカオスな関係がヒットして、なんだこれはと(笑)僕結構サッカーの本は一通り把握しているつもりだったので、本屋で見たことがない本が出てきてびっくりしたんです。その時僕はもうアルゼンチンに居たんですけど、たまたま友人がアルゼンチンに来るときに持って来てもらうことが出来て。実は僕、アルゼンチンでこれを読んだんです。

三倉:この本がそんな遠くまで行っているとは、全く思いませんでした(笑)

河内:地球の裏側まで(笑)。僕はサッカーのことを「表現」の1つだと思っていて、僕が監督を目指しているのは「自分を表現したい」という欲が強いからでもあるんです。例えば音楽で自分を表現をする人がいたり、絵で表現する人もいるし、また別の形で表現をする人がいる。そのうちの1つとして、僕は「サッカーで表現をしたい」人間なんだなと思っていて。この本もサッカーというものを「表現」として捉えるところから始まっていくと思うんですけど、芸術の世界では「表現の定義」みたいなものってあったりするんですか?

三倉:芸術の世界では「表現」という言葉自体は逆にあまり使わないです。表現をすることが前提になっている行為なので。「芸術とは何か?」と追求すれば何らかの言葉が出てくるんでしょうけど、芸術の世界の人間というのは意外に「芸術」で止まってしまって、それ以上分析的に考えようとしない人が多いかもしれないです。

河内:それは「制作をする側の人」ということですか?

三倉:そうですね。理論的に「美学」や「芸術学」を研究している人は、当然「美とは何か?」「芸術とは何か?」を追求して、哲学的、思索的な方向へ向かうんだけども。ただそういう人たちはそういう人たちで、例えば「カントがこう言っている」とか、そういうところから始まるから自分自身で「美とは何か?」あるいは「芸術とは何か?」「表現とは何か?」をあまり考えなかったりする。アカデミズムの中で、アカデミズムとして認知されて定まった誰かの理論を前提に始めてしまうので、そういう意味では本当に自由なところから表現をしている人は、あまり居ないかもしれないですね。

河内:三倉さんは「表現をする人」が、そのように何かを追求して思考をしないことに対して、どう思われますか?僕は結構「サッカーとは何か?」とか「なぜサッカーをやるのか?」とか「なぜ勝たなければならないのか?」とか、すごく考えてしまうんですけど…

三倉:型とか規範とか、何かカテゴラズされた範囲の中で考えた方がある意味楽なんですよね。それに従って、その枠の中で考えた方が、周囲からの認知・評価を得やすい。だからみんな決まった論考しかしない。だけど、そこから離れた人の方が考えてるんですよね。僕もこの本の中で「サッカーを語るにはサッカー以外のところから」と書いていますけど、どうしてもサッカーだけを考えていても、今までサッカーとして認識された範疇での「サッカー論」になってしまうから、サッカーから出ることが出来ないんですよね。

河内:サッカーという既にある枠組みの中でしかサッカーを考えられない?

三倉:サッカーという枠組みの中をグルグルしている。それを少し難しく書いちゃったんだけど、閉鎖系の…

河内:めちゃくちゃ難しかったです(笑)

三倉:物理用語なんですよ(笑)閉じられた閉鎖空間の領域で動いていると「エントロピー」というものが増大してしまって、やがてそれがダメになってしまう。外側から「開放系思考」をすることで、その突破口が開けるし、「自己組織化臨界」みたいな言葉も書いたと思うんですけど、さらに上の領域にいけるんじゃないかなと。だから「表現」というのも、ある意味人間が行うことは全て「表現」であって、人間は「表現」をしていかないと生きていけない。この「お茶を飲む」という行為自体が「表現」です。じゃあこの行為と、「サッカー」や「芸術」を同列にしていいのかと言われれば、そうじゃない。「サッカーにしかないもの」や「芸術にしかないもの」は、「日常の行為としての表現」とはまるで違う。

河内:それを考える人と、考えない人がいますよね?

三倉:気付かない人もいるしね。そういう人はある意味すごく楽だと思う。ただ、考える側の人、河内さんもそうだと思うんだけど、やはり既存の理論や考え方に対して「疑問」が出てきますよね?

河内:多くの疑問を持っています。

三倉:その疑問というのが「トリガー」なので、まず疑問がないと「突破口」も何もないんですよね。全てのことに言えることだけど。その疑問からこの本を書くことに繋がったんだけど、「サッカーってなんだろう?」から始まり、「みんなスポーツって言ってるけど、待てよスポーツじゃないでしょう?」となって、「じゃあスポーツって何?遊び?遊びって何?」となってくると、だんだん外側に開いてって、外側からまたサッカーに攻めていくことになる。考えというのは、狭いところに行けば行くほど視野が広がると思っているから。それが自然かなと思っていますね。


■サッカーは最も人間らしいスポーツ?

河内:サッカー以外のスポーツって観たりしますか?というのも、他のスポーツにはない「サッカーの特異性」って必ずあると思うんですけど、三倉さんはその点どういう風にお考えなのかなと思いまして。

三倉:少し臭い言い方だけど「ライフスタイルの反映」とか「人生の反映」という言葉が思い浮かびます。文化や、その人の持っている「特性の全て」が反映されやすいというか、逆にそれを元にサッカーという競技が成立していると感じます。

河内:そうですよね。サッカーって、11人という大人数がチームとなって、僕はそれをチームというより一つの「社会」がピッチの中で形成されると考えているんですが、例えば人生と同じように「失敗ありき」のゲームだったり、極めて自由度の高い競技というか、「ゴールを取るか取られるか」というような本当にシンプルなゲームが故に、「何をしてもいいよ」という状況下で判断を求められるスポーツって、他にないと思うんですけど。

三倉:個人の思考っていうのが言ってしまえば自由でしょ。サッカーというゲームの制約の中で、自分で考えて、自分がやりたいように出来る。他のスポーツは個人の自由度が限定されてるものが多いとは思いますよね。だからこそ選手・ボールの動き、パスやらドリブルやらがピッチの中で混然となって、動きの中に何か「本質的なもの」が見えるような気がします。それで「量子論」も引用したんだけど。量子の振る舞いと選手の動きを重ね合わせて書いてみたんです。だからサッカーは、すごく「根源的」で「本質的」で、何か自然な「最も人間らしいスポーツ」かなと思います。「シンプルなコンプレックスシステム」という風に書いていますけど、シンプルだからこそ複雑系の中での美学が反映されているんじゃないのかな。

河内:だからこそ、民族によって、文化によって違いが出るのは当たり前ですよね。例えば本の中でも車の特徴を国別で書いていたと思うんですけど、「その国のサッカー」と「その国の車」の特徴が「あー確かに」というのが多かったです。「人間らしさ」が出やすいスポーツだからこそなんですかね。海外のサッカーは観ますか?

三倉:W杯はサッカーの万国博覧会ですよね。やっぱり国の代表として出ているわけだから、もう明らかに特徴が出ていました。この本は、構想段階入れると出版(2010年)から、さらに20年くらい前から考えていたんですけど、当時は今よりもっと色濃かったです。その頃はまだ国民性がもっと出ていた。

河内:そんなに前からだとしたら、状況は大きく変わっていますよね。今はもう、どこの国の人かなんてわからないというか「その国の国籍を持っている人」の戦いになっています。

三倉:民族でやってしまうと、また違う問題が出てきてしまうかもしれない(笑)手続き次第で国籍が取れてしまうわけだから、どういう人種でもその国の代表として試合に出れるわけで、「らしさ」みたいなものは薄れてきてしまいますよね。でもそれは自然で必然的なことなんです。昔はいろんな世界が各一されていたけど、時代が進んで、ラジオが出来て、テレビが出来て、いろんなメディアが出来て…となっていくわけですから、それだけでも文化的な「らしさ」は薄れていきます。その流れの中でのサッカーですから必然ですよね。

河内:そういう意味でいうと、欧米とかに比べて陸続きじゃない分、日本という国はまたちょっと特殊なんですかね?

三倉:どうなんでしょう。ただ島国的な考えでいくと、日本庭園とイギリス庭園て似てたりするんですよね。フランス庭園みたいに、シンメトリーに人間が作為的にいじらない。割と自然なままにしておくんですよね。サッカーのスタイルは日本とイギリスだと全然違うけれど(笑)

河内:またそれは全く違う角度から考える必要があります(笑)

三倉:日本というより、韓国、中国とか「東アジア」の思想的背景が重要なのかなと思います。東洋の思想っていうのは「儒学」の影響が大きくて、本の中でも「儒学」と「道教」を対比させて書いているんだけど、そういう思想的なものが、日本人のメンタリティを形成するにあたって影響を与えているんじゃないかと考えてはいます。東洋的な思想というのは、西洋の二元論的な考え方に比べると、多元論的というか、中間が曖昧な領域を思考するところが得意なんじゃないかな。

河内:「東洋医学」と「西洋医学」をイメージすると分かりやすいですかね?

三倉:そうですね。西洋医学は機械論的で、切って直して繋げて…。東洋医学はどっちかって言うと病気にならないように予防するでしょう?はっきりはしないんだけどね。何が効いてるのか効いてないんだかよくわからない(笑)

河内:僕、実は鍼灸師の免許を持っているのですごく分かります(笑)

三倉:そういう意味ではある程度ニュートラルな状態というか、色々な所にアプローチが出来ますよね。(本の中で)マニュアル車のシフトに例えたけれども、ニュートラルな状態からどこにでもいける中間領域、つまり「間の領域」を取れるのが東洋人の良さなのかもしれないですよね。現代の日本人はどうかわからないけど(笑)昔の日本人は持っていましたよね。そういう遺伝子をうまく活かしていけないかな…といつも日本サッカーを見ていて思います。

河内:スタイルを持たない。ポジションを決めない。みたいな?(笑)

三倉:極端な話ね(笑)W杯のベルギー戦とか、クラブW杯の鹿島とか見てて、もうそれしかないかなと(笑)日本的な、独特の、日本の遺伝子レベルで得意なことを武器にしてやっていくしかないんじゃないかな、と思ってしまうんですよね…

河内:サッカーって、今お話しされた内容のように、国の文化とか特徴と紐づけて話をされることが他のスポーツよりも圧倒的に多いんじゃないかと思うんですけど、中には「いやサッカーはサッカーなんだから、そんなもん関係ないだろう!日本人を特別視するのはやめろ!」みたいな人が居たりするんです(笑)僕は全くそれとは違う意見なんですけど、芸術という学問の中でも、国別で比較して話がされたりすることはあるんですか?

三倉:芸術とはまた違うけど「比較文化論」という形で研究をしている人は多く居ます。そこから「比較文化論」としての「表象文化」として「芸術」と繋がっていきます。

河内:そこからサッカーに繋がることはないんですか?(笑)

三倉:ないですよね(笑)確かに「日本人も外国人も同じサッカーやってるんだから同じだ」という人の意見もわかるんだけど、ただ同じ「メンタリティ」を持っているのか?と言われるとそうではないですよね。「メンタル」ではなく「メンタリティ」の方。精神的な強度のことではなく「サッカー的なメンタリティ」を持っているかどうか?です。それがあれば、日本人もアルゼンチン人も変わらないと思う。「メンタリティ」とか「精神構造」とか、そういう言葉を使わなくても遺伝子レベルで染み込んでいるかどうか。

河内:それはすごく同感です。「サッカーメンタリティ」を考えると、日本人は明らかにそれを自然に持ち合わせることが出来ない。


■サッカーと「感情」

三倉:そういう選手は圧倒的に少ないよね?

河内:圧倒的に少ないです。じゃあその「サッカーメンタリティ」って何?と言われると、僕が1つ外国人と日本人の圧倒的な違いとして考えているのが、「感情を表に出せるか?出せないか?」です。僕が考えるサッカーの中には「感情」というキーワードがすごく大事な役割をしているんですけど、日本人は日常生活の中で「感情を表に出さない」、つまり「顔に出さない」「動きに出さない」ですよね。人間なので100%「感情」はその都度持っているはずなんだけど、それを周りの人に悟られることを嫌がる。外国人は「感情を表に出す」ことを、日常生活の中から自然にやっている人が多いので、それがピッチ上で大きな違いとして表れます。

三倉:それは一つの「サッカーメンタリティ」だよね。

河内:はい。つまり「何らかの目的を達成するために感情を利用する」ということが、日本人は出来ないんです。むしろそれがマイナスなこととして捉えられている。選手もファンも一緒です。例えば日本で人気なスポーツとして「野球」がありますけど、ピッチャーは自分が何を考えているか、感じているか表情に出さない方が良いかもしれないし、バッターも相手に何を考えているのかバレないように表情に出したがらない。それは「野球的なメンタリティ」なのに、スポーツというものを一括りにして「スポーツ=感情は表情に出さない方が良い」という認識になってしまっています。サッカーに関して、僕は全くそうは思わない。「感情」が表に出ないと、ピッチ上で「コミュニケーション」が絶対に成立しない。

三倉:「サッカーメンタリティ」を自然と持ち得ていない…と考えられるうちの1つだよね。

河内:だから僕にとって、サッカーを考えるときに「芸術」がすごく大事になってくる。例えば演劇でも「感情を利用して」演技をしなければ見ている人にはすぐわかる。じゃあ「怒る」という演技をしている人が本当に怒っているのかそうではないのかは本人にしかわからないけど、見ている人からすると本当に怒っているように見える。「何らかの目的を達成するために感情を利用する」という意味で、僕らは演劇の世界から学ばなければいけないと思っているんです。アートは人間の感情を動かしますから。

三倉:サッカーというものは「自分の感情を含めた行為」を表出、表現としてプレーに現れるわけなので、「感情を出す」ことでプレーの質が変わりますよね。だから感情が伴っているプレーにはダイナミックさがある。決して「演技」ではなくて、本当の意味で「感情で動く」ことをすると、自然とダイナミックなパフォーマンスになる。感情を抑えてしまうと、精神的に冷静に考えたり「ゆっくり」状況判断をする分には良いのかもしれないけど、でもそんなシーンはサッカーではほとんどない。人間がやるものだから様々な感情が生起するわけでしょう?中には暴力的な感情が現れるかもしれない。嫌でもそれがプレーに反映されますよね。それを観た観客には必ず伝わる。ネイマールが本当に痛がっているのか、そうではないのかはみんなわかる(笑)

河内:間違いない(笑)画面を通してでもわかる(笑)

三倉:そういう意味では、サッカーはすごくピュアで、正直で、純粋なスポーツですよね。「感情を出す」ということは「プレーにダイナミズムが出る」ということ。日本人はそれが苦手というか、矯正されているんですよね。

河内:教育の問題に繋がってくる?

三倉:教育もそうだし、社会環境もありますよね。今の教育現場っていうのはね、本当にね、個性を潰す教育ですからね。「感情表現をしてはいけない」と教えられる。これも一種の感情の表れですけど、「髪型」にしても「服装」にしてもそうでしょう?ちょっと髪が長いとダメだ、色が付いてるとダメだ、地毛かどうかの検査までする。信じがたいけれども…

河内:僕もされました(笑)

三倉:人と違うことをやったら怒られる。「個性の尊重」だの「主体性のある教育」と口では言っているけど、個性を出そうもんなら怒られる。そういう中で子供はだんだん萎えていく。日本の教育現場は「赤」はダメなんですよ(笑)派手なものはダメ(笑)目立つなと。「じゃあなんで赤はダメなんですか?」と生徒は聞かないし、教員も説明できない。華美だからとか、派手だからとか…

河内:ルールだから、ですよね。

三倉:そういう教育を受けていると、だんだん「自分のことを表現する」ということが出来なくなってくる。もちろん感情も含めて。それでどんどん既製品というか、画一的な人を量産して、それを社会に出していく。それが学校教育になってしまっていますよね。逆らおうものなら、ひどければ退学となってしまう。それでも運が良くて強い生徒というのは這い上がってくるんだけれども、ほとんどの子がダメになってしまう。そういう意味でいうと、「サッカーメンタリティ」の資質を持っているような子ほど、学校に適応出来ないのかもしれない。

河内:僕は「服装」とか「髪型」とかで「自分の個性を表現する」という行為は、すごく重要なことだと思っていて、大人になってから自分の個性を発揮しようとしてもなかなか厳しいものがありますよね。子供の頃から自分で色々試してみて、自分に似合う髪型、服装を探っていくということは、つまり「自分を知ること」に繋がっているんじゃないかなと。

三倉:間違いないよね。まだ子供だから、そりゃあ未分化な状態で、色々間違いを犯すわけだよね。なんだよこんな変な格好して、というのももちろんある(笑)モヒカンしてきたらなんだよそれってやっぱりなる(笑)だけどそういう極端なことをして、間違いをすることは「過程」なんだよね。実験をしている。「ここまで個性出したらまずいな」とか「こういう個性の出し方は失敗だな」とか。そういう中で自分のベストな個性の出し方を学ぶわけでしょう?

河内:そういう「実験」をして来なかった大人は、日本人に多く居ますよね。僕もやっぱりそういうことに気付くのが遅かった。

三倉:感情に出し方に関しても同じだよね。バカヤローとか悪態ついてみて「あ、この感情の出し方まずいな」とか、そういうことを繰り返していくことで、だんだん学んでいく。それでいいんですよね。

河内:やっぱり外国人のサッカー選手って、単純に日本人よりもカッコいいんですよ明らかに。それはなんでなんだろうっていつも考えていて、一つ答えが出たのは「個性」なんですよね。見た目もそうだし、発言だったり、プレーもそう。日本のスポーツ選手はみんな同じことを言うし、見た目にも個性がない。「個性がない」と言うことは、つまり「ダサい」ことに繋がっているじゃないかと思うんです。それを紐解いていくと、今話したように「教育」の問題に繋がってくる。小さな時から自分の個性を追求しているか、してこなかったか。それは当然プレーにも現れる。サッカーは「どう自分の個性を発揮するか」のゲームだと僕は考えているので、すごく重要なポイントです。

三倉:個性をサッカーというゲームの中で表現が出来ないと、これはサッカーにならない。僕もサッカーの監督をやったことがないからわからないけど、例えばシュート外したら「なんで外したんだ!」とか言ってしまうのかな?(笑)

河内:自戒も込めてですけど、やっぱり失敗を許すことが出来ない指導者がまたまだ多いのかなと思います。

三倉:先輩にちゃんとパスをしなきゃいけないとか?(笑)

河内:そういうのは流石にあんまりないんじゃないかな(笑)

三倉:そういう教育を受けてきたような子供でも、個人の能力が高くて、技術的に上手だとサッカー選手になれるのかもしれない。でも、ある程度のところまではいけるんだけど、大事な部分が欠落しているからある程度のところまでしかいくことが出来ない。

河内:バケモノみたいな奴は現れないですよね。


■なぜ日本人はシュートが入らないのか?

三倉:ところで、どうして日本人はシュートが下手に見えるんだろう?

河内:本の中で『「機械的な練習」をたくさん繰り返していても、シュートが入るようにはならない』というようなことを書いていましたよね?これはもう僕が経験としても実感していることです。いくら練習で繰り返しても試合で入るようにはならない…

三倉:河内さんはなんで日本人はシュートが下手なんだと思う?

河内:ん〜答えはないと思うんですけど、日本の現場で見る(自分も実際にTRで用いていたような)シュート練習と、欧米や南米の人がやってるシュート練習を見比べると、向こうの人たちはゲーム感覚でやっているというか、合間合間に笑顔が溢れていますよね。スーパーゴールがあったらみんなテンション上がっちゃうみたいな(笑)日本人は、生真面目に同じことを繰り返します。

(編集部):確かに、また抜き一つとっても、なんであいつらあんなに喜べんの?ってくらい喜びますよね(笑)

河内:本当そうなんですよ。例えばハリル・ホジッチが日本代表監督の時とか、選手に「もっと喜べ!」みたいな指示が出たっていうニュースが出ましたよね(笑)

河内:でもこれ全然笑い事じゃなくて、感情表現が大事だって外国人は自然と理解しているんだけど、たとえ日本人が「喜べ!」と言われてその場は喜んだとしても、全く本質的な解決には繋がっていない。

三倉:もちろん外から外国人監督が持っている良さを日本に取り入れる、というのはわかるんだけど…。それをやるには外国人が日本人を理解してからじゃないと難しいよね。「日本人とは何か」をまず研究しないと、選手も、監督も可哀想。「なんで出来ないんだろう?」となってしまう。

河内:それこそハリル・ホジッチ監督なんかは「?」の顔をしていることが多かった気がしたんです。「なんで戦えないの?」「なんでもっと必死になれないの?」とか、外国人からしてみたら心底理解が出来ないんだと思う。

三倉:歴史とか、文化とか、時代背景を理解していないと難しいよね。

河内:どうしてもサッカーが発展しているのが外国なんで、向こうから監督を呼ぼうとしてしまう。でも、そんな簡単な問題ではないと思うんですよね…

三倉:……なんの話してたんだっけ?シュートか(笑)一つ言えることは「練習でのシュート」と「試合でのシュート」は全く別物ですよね。練習というのはあくまでも練習であって、試合で入るようにはならない。もちろん技術的な、初歩的なものは必要ですけれども。

河内:基本は練習して当たり前ですよね。

三倉:でもそれだって、自分で発明しちゃうくらいのスタンスが大事だよね。天才的な人はそういう感覚があるのかもしれない。教科書通りにやらなくても、極論手を使わなければいいわけでしょう?(笑)逆に技術とか方法論から入るのではなくて、実践の中で「遊び」という楽しさの中から学ぶものなんじゃないかと本の中にも書いたんだけれども。「遊び」というのは、すごくピュアで、楽しくて、ルールがある程度あっても自分でルールを見つける事ができる。それが楽しい。そういう感覚を得るには、練習ではなくて実践ですよね。じゃあゴールを前にして、チャンスが来て、どうするかってその一瞬の判断でしょう。それを練習で鍛えることは出来るのかなと思ってしまう。僕は「即興性の美学」だと思っているんだけど、それって練習でも知識でも経験でもない。それこそが「サッカーメンタリティ」に直接的に起因しているもので、つまり「即興的な振る舞い・行為」が出来るか出来ないか、が全てだと思う。サッカーなんて、どんなに準備をしても、絶対に即興でしょう?同じ場面は二度と来ない。

河内:似たような場面があって、それに法則をつけて、言語化して、定型化して…ということを世界ではやっています。でも、全く同じ場面が来ることはないですよね。

三倉:セットプレーは特殊だけれども、それだって予定調和でいくことの方が少ないですよね?その上不確定要素がいっぱいあって、何が起こるか本当にわからない。それこそ複雑系カオスの領域。「風が吹けば桶屋が儲かる」的な状況がいくらでもある。その「即興」に対して、身体的に、肉体的に反応をすることが出来ないと…

河内:ある程度のレベルまではいけるけど、その先に到達出来ない…

三倉:日本サッカーって、本当ある程度のレベルまではいきますよね。いつもそう。その上なんですよね。もちろん1試合だけを見れば戦略的・戦術的なミスがあるのだろうけど。でも「即興的な判断が出来るか出来ないか?その資質があるかないか?」が、特にシュートの場面に関してはすごく大きいのかなと思う。

河内:その「即興性」って、もし日本人にはなくて外国人にはあるとしたら、原因ってなんだと思います?教育?環境?

三倉:先天的な問題ではなく、後天的な要因だと思う。教育に限らず、日本の社会では「即興」というのは基本的に嫌われます。「今からこういうことをやりたいと思います」となった時に、「そしたら早く計画書を出して」となる。「計画書はないです。即興です。」と言うと「何言ってんだ馬鹿野郎」となる。そんないい加減なことを言われては困ると。確かに会社や組織ではわかるんです。確かにそれはわかるんだけど…

河内:場合によってはそれを受け入れるスタンスは常に持っておくべきですよね。

三倉:例えば僕も音楽をバンドでやる時に、即興でやる場合には時間が長くなったり短くなったりする。そうすると運営側は嫌がるわけです。ちゃんと楽曲があって、それが何分なのか決めて下さい、と。教育でもそうなんだけど、先生は「絶対に計画性を持ってやらなければダメです」と言われてしまう。僕なんかは即興でやりたい人だから困ってしまうんだけど(笑)いつまでに何をやって…

河内:どういった効果があって…とかですよね?

三倉:うん。でもそんなものがどうでもいい場合だってあって、その都度その都度、臨機応変に決めた方が動きやすいからすぐに対応出来る。でも日本はそうはしない。前もって決めたら「その通り」にやろうとする。だから何か途中で問題が起きても対応出来ずに後手を踏んでしまう。

河内:「決めた通りにしか出来ない」という癖が付いてしまうことが大問題です。


後編へ続く…


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※この対談は『Desafio 株式会社』のご協力の元実現いたしました。代表の和田鮎人さんが、この対談を聞いて感じたこと、またこの対談企画に協力した理由等を、非常に熱く、ものすごく丁寧に書いて下さっています。ぜひ、合わせてご覧下さい。

▶︎https://note.mu/vamoayuto/n/n8b4d324b3d59 

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