芸術としてのサッカー論_緑_

はじめに

”芸術としてのサッカー論”とは、一体なんのことでしょうか?

まず始めに、今後マガジンを購読していただくにあたって、頭に入れておいていただきたい3つの前提があります。


1.科学ではなく「芸術」

私はサッカーを「芸術(アート)」として捉え、「科学(サイエンス)」はあくまでそれを補足するものであると考えています。

この「サッカーは芸術か?それとも科学か?」という考え方は『芸術としてのサッカー論』を学ぶにあたって"軸"になる部分です。


芸術(アート):言語化・数値化出来ないもの

言語化・数値化出来ないため、再現性がなく、後から説明できない

科学(サイエンス):言語化・数値化出来るもの

言語化・数値化出来るため、再現性があり、後から説明ができる


以上が、それぞれの簡単な定義となります。サッカーにおいて何が芸術なのか、何が科学なのか、なぜサッカーは芸術なのか、詳しくはこれからの記事の中で書いていきたいと思います。


2.コーチではなく「監督」

私という人間は、サッカーの「コーチ」を仕事にしたいワケではなく「監督」として仕事をしていきたい人間です。「コーチ」と「監督」という仕事は似て非なるものです。よって「コーチとして仕事をしたい指導者」と「監督として仕事をしたい指導者」は、学ぶべきことが変わってくる部分が多々あります。

私がこれからここで書いていくことは「監督として仕事をしたい人間が書いているモノ」という認識を持っていただければと思います。"監督としてのサッカー論"と置き換えることも出来るかも知れません。

WEBで文章を書いていますが、私は評論家でもジャーナリストでもなければ、サッカーファンでもありません。よって、サッカーの理論を知っていることよりも、表現ができるかどうかが重要です。これは、私の「表現」でもあります。


3.追い付くではなく「追い抜く」

私が書くことは、全てに置いて「日本人」という最も重要な前提の上で成り立っています。欧米や南米に「追い付く」のではなく「追い抜く」ためには、私たちは「日本人である」という前提の元話をしなければ、机上の空論になってしまいます。日本人のことを長い間分析してきましたので"日本人としてのサッカー論"とも言えるかもしれません。

その上で、欧米や南米に「追いつきたい」のか、それともの「追い抜きたい」のか…それによって話さなければならない議題が変わってきます。私は「追い抜くには」という前提のもとサッカーを考えているので、欧米や南米の方法論をそのまま受け入れるようなことはしません。



以上3つの前提を頭に入れて、『芸術としてのサッカー論』をお読みいただければと思います。ぜひ、楽しんでください。


筆者:河内一馬 / Kazuma Kawauchi

1992年生まれ(25歳)サッカー監督。アルゼンチン在住。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。

ブログ:https://kazumakawauchi.themedia.jp/


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