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なぜサッカーにおいて「科学(サイエンス)」が正義になるのか Prologue.5

では、なぜこんなにもサッカーを「サイエンス」で語ることが正義とされてきているのでしょうか?その答えは一つです。

例えば監督が何かを決断するとします。その時のアートと、サイエンスはこうなります。


アート:「直感的にそう感じたから。なんとなく、あの選手を出せば間違いないと思った」

サイエンス:「過去のデータに基づくと、この選手は後半80分から出場させた時がもっとも得点につながるプレー(その定義はナンチャラカンチャラ)をしているため、ここで出場させるのは得策ではない。その根拠は…」


のような形になります。つまり、サイエンスとアートを戦わせた(同じ位置に並べた)場合、サイエンスはアートを容易に批判できるのに対し、アートはサイエンスを批判することができません。これが、現代のサッカーを支配しているサイエンスの正体であり、日本がここから「サッカーはサイエンスだからすべてを説明できなければならない」という認識が深まっていってしまう原因です。もちろん、アートにおける直感とは、それまでの積み重ねによって発生しているもので「適当」とは対極に位置します。サイエンスの正解は「待て」だとしても、監督は前日その選手の表情の変化や、振る舞いの変化に気付いているかもしれません。もしすべてがサイエンスでうまくいくのであれば、監督はAIがやるべきです。


■Twitterとサイエンスの相性の良さ

サイエンスはアートを論破することが求められますので、例えばWEB上で(言葉にした時)、アートがサイエンスの上に行くことはありません。それが [Prologue.3] で説明した「WEB先行型サッカー」または「WEB完結型サッカー」の圧倒的な欠点です。日本で今最も「科学としてのサッカー」が議論されているのはTwitterですが、論破をすることで"サッカーを知っている"ことを主張する人は後を絶ちません(もちろんそれ自体が仕事なら別です)。中には海外のサイエンスを用いてTwitter上で日本サッカーの批判をする人がいますが、それは批判ではなく発散です。何にも繋がりません。


■アートと「精神論」は別物である

論破をする際の日本人の決まり文句は「精神論で勝てたら苦労しない」という類のものです。しかし、サッカーにおけるアートとは、言葉では説明できないようなものです。日本はそれを「精神論」という認識をしてしまっているために、そこから逃げ続けていきます。日本人にとってなぜ「精神論」=「悪」という認識が深いのかはここで書きませんが、戦後を生きてきた私たちにとっては仕方のないこと、ということだけ知っておいていただければと思います。

芸術は「精神論」とは違います。サッカーにおけるアートとは、監督がゲーム前に行う心の底から出てくるスピーチであり、選手が一瞬の直感でゴールを決めるプレーであり、サポーターが荒れ狂う姿であり、選手の表情であり、レフェリーの動揺であり、サッカーの勝ち負けを決めるものです。サッカーは芸術で溢れています。

その芸術性を失ってしまうと、サッカーで勝利することは出来ません。芸術とは世界共通の価値観であり、誰が見ても美しいと思うもの、心を動かすものです。もし私たち日本人がこのままサッカーを「サイエンス」と捉えてしまうと、ビジョンがなくなり、決断スピードが落ち、日本人としてオリジナルのサッカー、個性を作り出すことが出来なくなってしまいます。

例えば、ジョブズがアップルに復帰した直後に販売したiMacでは、発売直後に5色のカラーを追加していますが、この意思決定の際に、ジョブズは製造コストや在庫のシュミレーションを行うことなく、デザイナーからの提案を受けた「その場」で即断しています。
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』山口周



■アートのない日本サッカー

今の日本代表の試合や、Jリーグの試合で「心が動かされないもの」が圧倒的に多いのは、これが原因です。見せかけのサイエンスで人の心は動きません。

そして致命的なのは、日本人はサッカーにおける「アート」を「精神論」という言葉で表現し、また「サッカーは精神論で語ってはならない」という空気が蔓延していることです。これは私が「外国人監督で戦うことはできない」と主張する理由の一つで、ここで多くは書きませんが「芸術」というのは文化の影響を受けます。文化とは、宗教や言葉や歴史です。西洋美術を語るときにキリスト教と切り離すことができないのと同じように、各国にはそれぞれの文化があり、芸術性があります。日本は、宗教も言葉も日本人独自のものですから、私たちのことを外国人に聞いてもあまり効果がありません。「サッカーは文化に影響される」というのは他でもなく、サッカーの本質は「芸術」だからです。ハリルホジッチ監督がいくらサッカーのサイエンスを日本人に教え込もうとも、世界で勝てるようにはなりません。


■真顔でHIP-HOPを踊る日本人

日本人が体育の授業で真顔でHIP-HOPの振り付けを覚えているところを見たことがある人は多いのではないでしょうか?その現象は今サッカーにも起きています。

ヒップホップは1970年代初頭に、ニューヨークのサウス・ブロンクス地区で生まれた。その地域には、貧困でドラッグにおぼれる人や、ストリート・ギャングが多い地区であり、古いボロボロの建物が並ぶ町だ。1970年代当時、世間ではディスコが大ブームだった。だが、貧困なアフリカ系アメリカ人の若者達は、ディスコに遊びに行くお金がない。そこで、彼らは公園に集まりパーティーをするようになる。家から運んできたターン・テーブル(レコード・プレーヤー)を、外灯のコンセントに差込み、DJがレコードを回すなかでダンサーが踊り、グラフティー・アーティストは建物や列車に絵を描き、MCはラップを披露した。パーティーは、ブロック・パーティーと呼ばれ、貧困な若者達は、お金のかからない公園で遊んだ。ヒップホップのオールドスクールの始まりである。

参照:http://hiphop-history.upper.jp/


HIP-HOPという音楽は、サイエンスから生まれたものではなく、現状に納得のいかない若者が自分たちを表現したアートから生まれたものです。なぜHIP-HOPは生まれたのか?というところから学ばずに、「振り付け」を覚えることから始めてしまうと、それ自体の芸術性が身につかず「真顔」で踊ることになります。日本人はあらゆることで同じことが言えるのではないでしょうか?

振り付けだけを覚えたダンサーが、「本物」のHIP-HOPと対峙した時どうなるか?圧倒されて、振り付けを忘れるのです。動けなくなります。

日本サッカーは、どうでしょうか? 

サッカーは、ピッチで起きていることが全てです。サイエンスには根拠があるので、その根拠がピッチ上で覆されると簡単にチーム(プレイヤー)は崩れ去ってしまいます。根拠があることは自信を失うきっかけになります。なぜなら、日本人は世界にサッカーで勝てる根拠が一つもないからです。またそれを選手が自覚しているからです。日本人が欧米人や南米人と対峙した際に「萎縮」する原因の一つがこれです。


・・・続く



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河内一馬

1992年生まれ(27歳)/ アルゼンチン在住 / サッカー指導者 (南米サッカー協会 B ライセンス)/ 監督養成学校在籍中 / サッカーカルチャーブランド「92 F.C.」Founder / NPO法人 love.fútbol Japan 理事

芸術としてのサッカー論

サッカーを"非"科学的視点から思考する
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