なぜ彼らは異常なまでに「見た目」に気を配るのか——。“弱い”と“ダサい”は比例する

人は本を表紙で判断する。最高の製品、最高の品質、非常に有益なソフトウェアなどを備えていたとしても、見せ方がいい加減であれば、いい加減なものにしか見えない。創造的で洗練された見せ方をすれば、望ましい特性を持たせることが出来る——。 

▼Vol.3



冒頭の文章は「本の売り方」について書かれた書籍から引用したものではなく、ニュージーランド代表ラグビー集団「オールブラックス」について書かれた著『問いかけ続ける』から引用した文章である。この本には『世界最強のオールブラックスが受け継いできた15の行動規範』というサブタイトルが付けられている。私は、彼らほどスポーツの世界で「勝ち続けている」集団を他に知らない。


■ビジネス的視点は全て「副産物」

私はこの「サッカーにおけるブランディング」を考察するシリーズの冒頭で、以下のように書いた。

“文章で扱うには極めて相性が悪いテーマであるということを前提に読み進めていただきたい”

このVol.4の中で書く「視覚」的なクールが与える影響については、特に文章で表現しづらい領域である。

ただ、これから書く「サッカークラブがクールでなければならない理由」は、決して「外側」に向けたものではなく、「内側」に与える影響が遥かに重要であり、例えば市場規範的な視点、つまり「かっこいいからグッズが売れる」「かっこいいからお金が生める」「かっこいいから人を呼べる」という類のものは、あくまでもその「副産物」であると、私は考えている。


理由③:ビジュアルは内面を司る

「リッチー・マコウの最初のジャージのことを今でも覚えていますよ」ギルバード・エノカが言う。「一分近くもずっとジャージに顔をうずめていました」

アスリートには、自信自尊心誇り・自己肯定・自負...といったような、「自己(組織)の実力・能力を認める力」が必要不可欠である。これまであらゆるスポーツ競技の世界で結果を出してきた選手たちの表情、振る舞い、言動を見れば、そこに説明の余地はない。

「私(私たち)は結果にふさわしい」

大前提として、このようなマインドを持つことが出来なければ、トップレベルのアスリートがしのぎを削る世界で、“長きに渡って”相手に勝つ(敵を上回る)ことは絶対に出来ない。


■人間は視覚的な生き物

先に紹介したオールブラックスは、自らが成し遂げてきた数々の栄光に一寸の疑いすら持っていないことだろう。それと同時に、彼らのビジュアルは非常にシンプルで洗練されている。「オールブラックス」という名に相応しく、黒で統一された「衣装」は非常にクールな印象だ。このことが彼らに与える影響は一体何であろうか。

私たち人間は極めて視覚的な生き物である。情報のほとんどを視覚から取り入れ、「人は2秒で人を判断する」とも言われている。ある研究では、人が五感(視・聴・嗅・味・触)で受け取る情報は1秒間に1100万ビットで、そのうち約1000万ビットは「視覚」から受け取っていることがわかっている。実に9割である。

“サッカーという「同じ時空間」でゲームを進めていく競技に関して「視覚」(見た目)に気を配らないとはなにごとか?本当に勝ちたいのか?”

と私は考えていた為、改めて言葉にする必要性を感じていなかったのだが、どうやら同じ考えの人はそれほど多くないよう(もしくは無意識的認識をしているよう)で、この記事を持ってもう少し深く掘り下げて説明をしていきたい。

なぜオールブラックスは、あれほどまで「黒」にこだわり、身に付けるもの全てを洗練し、そして一貫性を持たせているのだろうか。なぜ監督のスティーブ・ハンセンは、常に黒のネクタイを身に付けるのだろうか。

そしてなぜ、1分間も顔を埋めたくなるほどに、ユニフォームに誇りを持つことが出来るのだろうか。

“ユニフォームに誇りを持つ”

これは比喩ではない。勝ち負けの世界では、文字通り「ユニフォームに誇り」を持たなければならない。それは所属する組織のユニフォームを見たときに何かしら特別な感情を抱くことであり、ユニフォームによって強いアイデンティティが形成されている状態のことである。

自分が“視覚的”に「格好いい(クール)」と思えないユニフォームに対して、(少なくとも私は)100%の誇りを持つことは出来ない。たとえ別の“何らか要因”で誇りを持つことが出来たとしても、それが100%に達することはないだろう。その数パーセントが、時に勝敗を分けるのだ。


■孔雀と人間の違い

孔雀は、生存にとって不利に働く可能性があるにも関わらず、メスを惹きつけ、選択されるよう羽を大きく進化させてきた。動物が時に外見を変え、美しい姿や勇ましい姿を見せるのは「他者へのアピール」を目的とすることが基本だ。自然界は「メスによるオスの選択」であり、人間界だけが「男性による女性の選択」であるのはなぜなのか…とダーウィンは不思議に思っていたそうだ。そして、ある哲学者はこう言った。

「唯一人間だけが自らに向けて美を追求する」

たとえばあなたは、自分が好きな服装をしている時とそうではない時で、気分が異なる経験をしたことはないだろうか?パーティーに「綺麗な格好」をしていくのは他人のためだろうか、それとも自分のためだろうか?アルバイトで研修期間から正式採用になり、ユニフォームや制服を着て初めて働いた時の感情を覚えているだろうか?これらの問いかけは、サッカーの世界において非常に重要な意味を持つと、私は確信している。


■ブランディング三角形の頂点には「視覚」がくる

なぜ私は、これまで長い時間をかけて「サッカークラブは『クール』でなければならない」と主張してきたのか。そしてその「クール」を作る『ブランディング三角形』の頂点には、なぜ「視覚」が位置しているのだろうか。

それを理解してもらうためには、まず私が「どのようにサッカーを考えているのか」の一端を説明する必要がある。


■「プレー」と「ビへイヴ」の概念

私がどうサッカーを解釈し、どう表現しようとしているのかは、これから長い時間をかけて『芸術としてのサッカー論』で書いていくメインテーマであるが、ここでは、その中でも、この「視覚」が影響を与える範囲について書いていきたい。

まず私は、サッカーをはじめとする「ある分類」(これについても後述)に分けられるスポーツ競技(ラグビーもここに属する)は、ピッチ上で「プレー(Play)」をしているのではなく『ビヘイヴ(Behave)』、つまり「振る舞い(Behavior)」をしている(振る舞っている)という考え方をしている。定義は以下の通りだ。

どういうことか。たとえば階段で転んだとしよう。あなたの周りには誰もいない。膝を強く打ったあなたは、痛みに悶えてその場をしばらく動けない(動かない)かもしれない。では、周りに行き交う人々がいたらどうだろうか?あなたは転んだことをまず恥じ、多少の痛みに耐えてでもその場を素早く立ち去るかもしれない。はたまた、これがもし仲の良い友達が一緒だったら、笑いながらその場にうずくまっているかもしれない。つまりこれが「振る舞い」である。

人間の「振る舞い」というものは、上の図にあるように、誰に対しての「振る舞い」なのかによって、前後にある「文脈」によって、伴っている「感情」によって変化をする。そして「身につけているもの」によって変わるのだ。つまり、あらゆる要因によって、表出される「身体的運動」は変化するはずである。


■サッカーとは「ビヘイヴ」そのものである

私の定義によれば、サッカーで行われている全ての行為は「ビヘイヴ」である。試合中一人で行うシチュエーションは訪れないし(周囲に人がいるか、いないか)、どの選手と行うのか(誰といるか)によって大きな違いがあるのは明らかである。敵対するチーム(誰に対してか)によっても、前後に何が起きたのか(文脈)、そして何を感じているのか(感情)によっても行為に変化が起きる。それらを考慮しない(ここでいう)「プレー」をしていても、ゲームにおいて効果的な(表現)行為を行うことは出来ないだろう。

もう少し例を出して説明していこう。あなたは日本人のサッカー選手に対して、これまで違和感を感じたことはないだろうか?例えば、海外のトップクラブで活躍する日本人選手が日本代表でプレーをすると、途端にそれほどまでの能力を発揮しなくなる…というのも珍しくないし(誰といるか)、先日のアジア杯でも垣間見えたように、対戦するチームによってパフォーマンスが明らかに異なることも幾度となく見てきた(誰に対してか)。親善試合では(それが例えウルグアイのような強豪であっても)素晴らしいパフォーマンスを発揮するが、重要な公式戦で明らかに劣るパフォーマンスを見せるのが日本代表である(文脈)

アジアカップ2019で最もパフォーマンスが良かったのは、準決勝のvsイランである(少なくとも結果が証明している)が、なぜ他の試合よりも特別良い試合運びが出来たのか。それは「イランが引き出してくれた」からであると私は考えている。序盤から挑発的なファールを繰り返し、感情的に「振る舞って」くれたお陰で、いわば日本代表が行う行為が「ビヘイヴ」になったのである(感情)

サッカーと「感情」の関係性については、前の対談でも少々言及したが、私のサッカー観において最も重要なキーワードと言ってもいい。これについて触れると道を外れてしまうため割愛するが、「ビヘイヴ」というのは「感情が伴っている」ということだけ、ここでは理解して頂きたい。


■プレー能力・戦略戦術的問題との切り離し

以上のような日本代表が抱える問題を、例えば単純にプレー能力(技術とでも言おうか)の問題ととることもできるし、クラブで力を発揮できる選手が代表で発揮できないのは戦略や戦術的な問題(例えばその選手が得意なシステムやゲームモデルではないから)として捉えることも出来る。しかし、この問題は、それらの解釈とは切り離し、別の角度から考える必要があるのではないか。

そもそも日本人に「サッカーで行う行為は全て“ビヘイヴ”である」という認識がない

私はこの非認識状態があらゆる問題の根底にあると仮説を立てている。

つまり「パス」という行為は「ビヘイヴ(振る舞う)」なのである。ただ足を振ってボールに当てるだけの行為は「ビヘイヴ」として成立していない。「狙った場所に蹴れること」自体が、=パスではないのだ。

この動画の2:05〜を見てほしい。一見滑稽に見えるペップ・グアルディオラの行動は、選手に対して「このように振る舞え」と(大袈裟に)指導をしている、と認識することが出来る。サッカーは「ビヘイヴ」という認識をすることで初めてサッカーとしての行為が行われる。パスをするときの姿勢や、表情や、動作、あらゆることがゲームの行く先を握っていることが理解できるはずだし、それにはあらゆる要因が関わり合っていることも意識できるだろう。例えばTRでいくらシュート練習をしても試合で入るようにならないのは、「ビヘイヴ」における「6つの要因」のうち、何かが欠けた状態でTRをしているからである。そして、TRでこの6つの要因を揃えるのは難しい。


■パフォーマンス学からみる「3つの目」

「ビヘイヴ」を語る上で、もう一つ重要なことがある。それは「パフォーマンス学」という学問からヒントを得ることができる。「パフォーマンス学」とは、1979年にニューヨーク大学大学院がパフォーマンス研究学科を新設したことでも知られる、社会学や文化人類学、演劇学、スピーチ・コミュニケーション学、心理学から成る学問である。日本人の第一人者である佐藤綾子氏の著書『非言語表現の威力 パフォーマンス学実践講義』には、「サッカーの振る舞い」において非常に重要なことが書かれている。

①見る目(我見):自分やまわりの景色や相手を普通に見ている目が、第一の目「我見」

②見られる目(離見):相手が自分を見ている目があることを知り、見られている自分の姿を相手の立場から知る目が、第二の目「離見」

③見せる目(離見の見):そして相手にどう見られるかを知って、最高の自分を見せていく自分の「見せる目」が、第三の目「離見の見」


■「見られて」いるから「見せ」なければならない

サッカーというゲームでは、常にこの「3つの目」を意識して「ビヘイヴ」しなければならない。ピッチ上で、あなたは常に「チームメイト」や「相手チーム」をはじめ、「レフェリー」や「サポーター(敵・味方)」そして「ベンチにいる人」に“見られて”いる。日本人はサッカーにおいて「①見る目」を意識することは出来ても、その「②見られる目」を意識することが出来ない。そして「③見せる目」の意識が圧倒的に薄いのである。

見られているのであれば、“見せ”なければならない。これは、選手はもちろん、監督、スタッフ、さらに言えばサポーターにとっても重要な要素だ。ピッチ上では、あらゆる観点であなたは見られている。私はサッカーというスポーツにおいては「③見せる目」が最も重要だと考えている。

相手を「どう見るか」は時に勝敗に影響を与えないが、相手に「どう見せるか」は常に試合の勝敗を分ける。


■「自分に勝つ」という言葉の弊害

日本のスポーツ界では、ほぼ盲目的に「自分に勝つことが正義」だという、ある意味神話的に言い伝えられてきた認識がある。あるスポーツではそうかもしれない。しかし、サッカーに関して私はこれを、はっきりと否定する。サッカーは「自分に勝つ」のではなく「相手に勝つ」のだ。自分になんて勝たなくても、相手に勝てば良い。当たり前に聞こえるかもしれないが、世界で唯一日本はこのことを理解していない。つまり、ピッチに立てば、あなたが一人になることはない。常に見られている。直向きに、ただ「プレー」をしていても、残念ながらほとんどの場合報われることはないだろう。


■「振る舞い」は「身につけているもの」で完成する

さて、サッカーは「②見られる目」が働いているために、「③見せる目」を意識することが重要だと書いた。つまりそれこそが「振る舞う」ということだ。サッカーにおける「ビヘイヴ」は全ての場面で適応され、それはピッチ上であってもピッチ外であっても同様である(つまり私生活に繋がる)。そしてのその「ビヘイヴ」は「身につけているもの」によって、良くも悪くも変化してしまうということを知らなければならない。

日本発祥のスポーツを思い浮かべると、ユニフォーム(道着や衣装)に自由が与えらていない(もしくは自由度が低い)ため、そこに違いは生まれない。しかし、今話をしているサッカーというスポーツでは、制約の中で極めて自由が高く、そこには「優劣」が存在する(してしまう)。


■なぜ彼らは“異常に”カッコつけるのか?

ユニフォームについては、これまでの記事の中で言及してきた。あらゆる要素が重なって、これまでサッカーのユニフォームは「クールに」変化をしてきた。昨今の「移動着」を見ても、同じような変化が感じられる。

なぜ彼らは、異常なまでに「カッコつける」のであろうか?そして「試合会場まで移動する姿」を、ファンやメディアに見せつけるのであろうか?

すでに前述しているように、「②見られる目」を意識し「③見せる目」を持つこと、それによって「自らが属する組織を肯定し自尊心を持つこと」が、最大の目的であると私は解釈をしている。人間とは、唯一自らに向けて美を追求する生物である。矛盾するようだが、「③見せる目」を持つことの意味のほとんどは、外のためではなく「内」のためにある。戦いは移動をする段階で既に始まっているのだ。どちらが「勝つに相応しいチーム」なのか…ピッチに立つ前から、彼らは自尊心を最大まで高めている。ピッチ上で行われる「ビヘイヴ」は、「身につけているもの」によって変化をすることは、前述した通りである。

階級社会で生きてきた西洋人は、古代ギリシャ時代から「見た目」には最大の配慮を配ってきたことがあらゆる文献に記録されている。なぜ、リーダーには「見た目」が重要だったのであろうか?そしてなぜ日本のリーダーは、「見た目」に気を配らない(目立たないようにする)のだろうか?

※それに関連した話をfootballistaの連載で少々書いているので参照していただきたい


■美を追求するのは時間がかかる

第一に、ブランディングとは「自分を知ること」が全てである。自分を(自分たち)を知ろうとしないのであれば、何をしても無駄であるとさえ言える。そのためには何が必要か?

それは「失敗」「失敗をするための時間」だ。

『強いからかっこいいのか、かっこいいから強いのか——。 "弱い"と"ダサい"の因果関係』の中でも書いたが、個人や組織が「クール」になるためには、ほぼ例外なく時間がかかるのだ。

では、彼らの移動着が、スーツだったり、ジャージだったり、はたまたカジュアルウェアである理由、またそれを着こなせる理由は一体なんだろうか?

それは「個人単位」でも「組織単位」でも、時間をかけて自らを「知っている」からである。身につけるものを「自分たちのスタイル」や「TPO」によって使い分けることが出来るのだ。これこそが、つまるところ『ブランディング』である。


■日本サッカーがクールでない理由

私はこれまで、日本サッカーがクールになれない理由として「短期的思考によってキャッチーに手を出すこと」などについて指摘をしてきたが、今回はこの問いに対して、教育や社会環境という観点から考えていきたい。

私たち日本人のほとんどは子供の頃から、外見を通して「センスを養う」ことや、「個性を発揮する」こと、「自分を知ろうとする」ことを抑圧されて育てられている。日本のスポーツ界で育ってきたような人間は特に、「髪型や服装(ビジュアル)を通じて自分を表現する」という行為をしてこなかった大人が、ほとんどなのだ。それの何が問題なのか。それは、「何が自分という人間に最も似合う(適している)のか」がわからないところにある。これを組織に当てはめれば、「何が自分たち(自分の組織)に最も似合う(適している)のか」がわからない、ということになる。

つまり、マネキンが着ているオシャレな服をそのまま着ても、決してオシャレになることは出来ない。「クールな人が選んだ服を着ているマネキンから、服だけを取り除き自らに当てはめる行為は、ブランディングではない」と言い換えることも出来る。各個人にはサイズ感があるし、同じ物を着ていてもサイズによって見え方に雲泥の差が出る。

髪型にしても、自分の顔の形やパーツによって似合うもの似合わないものがある。メガネにしても、ジーンズにしても、靴にしても同じだ。そして「それ」を知るには、「実験」を繰り返し、「失敗」を重ねていきながら、自ら「発見」をするしかない。極論、自分のことは自分にしかわからないのであるから、そこに趣味嗜好も合わさって、他人には成し得ないことであると言える。


■失敗と時間と理解と忍耐力

子供の頃から「実験」を繰り返すような人間は、日本の教育現場では受け入れられない。そして、反抗という形で日本教育と戦うか、もしくは逃げるか、または迎合するか、その選択を無意識に迫られてしまう。私が説明するまでもないが、多くの国では、子供たちが自由なビジュアルをして実験を繰り返し、大人になる頃には既に自分の「スタイル」を知っている。日本人のスポーツ選手で、大人になってから初めて派手に外見で個性を発揮しようとすると、何処と無くセンスがなかったりするのはこのためである。

個人はもちろん、上記したようなことを、そのまま組織や団体に置き換えてみれば、『「髪型や服装(ビジュアル)を通じて自分を表現する」という行為をしてこなかった大人』が大半をしめるのが日本のスポーツ界であるから、クールになることが出来ないのは必然なのかもしれない。自分(自分たち)を知ろうとせずに、たとえ一流のデザイナーにデザインを委任したところで、表面的に着飾るだけで終わってしまう。

日本サッカーがクールになれないのは、「失敗」と「失敗をする時間」、そしてそれに対する「不理解」と「忍耐力」の無さが原因である。

強調するが、スポーツ界は部活動の文化が日本教育と直結しているため、スポーツを真剣にやってきた人ほど、見た目を通して何かを表現することを許されてこなかった。また学校とは独立した場所においても、「見た目を着飾ることはスポーツにおいて悪影響がある」と信じられているため、自由を与えられていない。


■「少数派」を体験すること

私が思う、もう1つの「(子供の頃に)見た目で個性を発揮するべき理由」は、「少数派を体験すること」にある。

サッカーや、スポーツ、エンターテイメントの視点から言えば、「少数派」とは才能のことであり、スターのことであり、天才のことであり、カリスマのことであり、独特の思考を持っている人のことであり、他とは一線を画す存在のことである。それらの存在は、他人がつくることの出来ない存在であるから、非常に大きな価値を持つ。世の中には、一流の中に「超一流」がいる。子供のころから見た目によって個性を発揮すること、つまり『「こういう見た目にしてみたい」と思った時に自由に実行(実験)できる環境』は、少数派の立場に立つことが出来る、1つの方法である。

例えば子供が「金髪」(アフロでもなんでもいい)にした時、日本では間違いなく目立つ存在になることだろうから、簡単に「少数派」を体験することができる。ある人間が「少数派」になった時、人によっては「私は目立つと気持ちがいい/わるい」「目立ちたいと思っていたけど見た目で目立つことはしたくない」といったように、様々な感情を体験することになる。これは、スポーツやエンターテイメントの世界で「少数派」になるために、自分の意思を確認する大事な作業だ。「自分が少数派になった時にどう感じるのか?」を子供の頃から知っていなければ、大人になって不意に(たまたま)成功してしまった時に、それによって人生を見失ってしまうことがあるでないか。私は「スターとは自覚のこと」だと思っている。「自分には他人にはない才能がある」と自覚することが出来なければ、その天才が何かを成し遂げることはないように思う。


■少数派を体験することの重要性

そして、社会的に「少数派」を体験することがなぜ大事なのか?と考えると、それは「少数派」の気持ちを知ることが、他人を尊重し、現在の社会システムの中でうまく生きていくために「必要なこと」だから、である。世の中には、「少数派」と「多数派」が必ず存在している。いつだって虐げられるのは「少数派」の方で、例えば世の中は「右利き」が生きやすいように構成されている。であれば、右利きの人は、左利きの人を尊重して生きていく必要があるし、左利きの人は「少数派の利点」を意識して生きていく方がずっと良い。少数派であることは、欠点でもあり、また利点でもあるからだ。

例えば「少数派を体験する」ことは「海外に行く」ことでも実現出来る。欧米や南米の「見た目」が明らかに違う場所に飛び込んで行けば尚更だ。「少数派」の気持ちを理解できないと、必ずいつか「少数派」を傷つけることになる。ここで改めて言うまでもなく、これからの日本には外国人がこれまで以上に増えていき、移民は徐々にではなく一気に増えていくだろう。そんな中、外の感覚(つまり少数派の感覚)がわからない日本人は多く、それゆえ簡単に外国人を傷つけてしまうのではないだろうか。うまく共存出来るだろうか。私たちは外国から立地的に孤立し、さらに見た目で少数派を体験することを良しとされないため、「少数派」の気持ちがわからない。これは社会として、非常に危険な状態だと私は危惧している。日本は「少数派」にならないような生き方を無意識に強制されてきたのだから。これまでの歴史を考えれば仕方がない。しかし、これからは最悪だ。

何を隠そう、日本という国は、コミュニケーションの取り方も、生活スタイルも、言語も、世界では「少数派」である。その「利点と欠点」を理解することや、教育の中に「少数派」を体験する仕組みをつくることが、日本人がこれから国際社会で生きていくために、本当に必要なことではないだろうか。


■國母和宏から見る日本のスポーツ

記憶にある人も多いと思うが、國母和宏選手の一連の騒動が、この国のスポーツ界が圧倒的にダサい理由を端的に表している。日本の社会は、彼のような才能を簡単に潰してみせる。

彼はあのとき、ただ実験をしていた。彼にとってあの態度(見た目)も含めて成功か失敗かどうかはわからないが、彼の現在は非常に「クール」である。クールという言葉が当てはまるかどうかはわからないが、ものすごくかっこいいのだ。このような才能に溢れた天才は、日本のスポーツ界では生きづらい。現在彼を師としている平野歩夢選手も、これから時間が経てば経つほどクールな存在になっていくことだろう。

念の為補足をするが、ここでいう「クール」とはビジュアルのことだけではない。ビジュアルが含まれるというだけである。外見を通して表現をすることは、内面を知ることでもある。外見を整えることで、自分の内面を知ることが出来るとも言えるから、「視覚」と「哲学」と「機能」は必ず相互関係にある。

國母和宏選手の騒動から時を経て、彼の現在の生き方や、態度や、考え方、スタイルを見て日本人は、「改心した」もしくは「更生した」と“上から”表現するのだ。それは大幅に間違っている捉え方である。


■「視覚」はアウトプットのスタート地点

私は先に定義した『ブランディング三角形』の頂点には、今回重点的に触れている「視覚」を置いた。なぜなら「サッカーにおけるブランディング」に関して、最も重要であると同時に、「アウトプットのスタート地点」であると考えているからだ。その理由をもう少し掘り下げていきたい。

①認識される順番:先述したように、人間は視覚的な生物である。例えば何かのブランドを認識する際人間は「視覚」としてまず情報を受け取り、そのあとに「哲学」や「機能」が付いてくる場合がほとんどだ。特にサッカーにおいては、「クラブ=ブランド」の「機能」を人が認識するのには時間がかかる(例えば強いのか弱いのか、実際に結果が出るのかでないのか等)。そしてサッカーにおける「哲学」に関しては、「説明するもの」ではなく「ピッチで表現するもの」でなければならない。例えばホームページに掲載する、ファンに向けて発表する等の方法で「説明」をしたところで、ピッチ上で表現されないのであれば、その「哲学」が邪魔になる恐れすらある。

②内部の意識:「視覚」を何よりも先に受け取るのは、「ファン(もしくはファンになる可能性のある人物)」や「メディア」だけでなく、クラブ内部の人間も同じである。何よりも先に「視覚」を高い基準にブランディングすることにより、選手のコンフォートゾーンを上げることが出来る。チャンピオンはかっこいいものであると、我々は知っているからだ。Vol.1の中で『ダサくて強いクラブはダサくて弱いクラブの予備軍であり、クールで弱いクラブはクールで強いクラブの予備軍である』と書いたのは、これが理由である。人間の、コンフォートゾーンを下げようとする力は大きく、それを「ビジュアルが静止させる」役割を担っている。サッカー(スポーツ)クラブのブランドは「人間」であることを忘れてはならない。

③副産物の回収:まず「クール」であることの副産物としてビジネス的観点があるが、「見た目がかっこいいから」という理由だけでファンになってくれる人材を逃してはいけないし、「見た目がかっこいいから」という理由が選手の移籍または加入における判断基準で、少しでも優位に働くことも忘れてはならない。さらにクールはクールにしか集まらないことを考えると、例えばフォトグラファー、デザイナー等の実作業を担当する人材や企業も、“ダサい組織や個人”とは一緒に仕事を(あまり)したがらないことも理解しておく必要がある。そして、お金持ちは、だいたいダサいものには食い付かない。ビジネス的観点で大事なのは富裕層であり、大きな資金を携えた企業を捕まえることである。

少し雑になるが、ようは「先に見た目をかっこよくして、それに見合う行動をすれば、後から色々付いてきます」ということである。


■「哲学」はインプットのスタート地点

しかし何度も書いているが、まずは「自分たちを知る」ことから始めなければ「見た目」がクールになることはないだろう。私は「哲学」とはつまり「なぜ?」を考えることだと思っている。それには、自クラブの(もっと言えば日本自体の)存在意義や歴史、特徴などあらゆるものをインプットしなければならない。「なぜ?」そのクラブは存在していなければならないのか?これを正確に把握するには、センスと努力が必要になる。

「インプットのスタート地点」は「哲学」だ。


■「機能」はコントロール不能

他分野の「ブランド」のブランディングとは違い、「サッカー(スポーツ)におけるブランディング」の「機能」は、基本的にコントロール不能である。よって、「機能」からスタートすると(例えば金で一時的に上げることが出来るが)、短期的な成功に終わるだろう。これは、サッカー(スポーツ)におけるブランディングが難しい一つの理由であるが、「機能」からスタートしないよう心掛けていれば、落とし穴にハマることはないだろう。多くの人が勘違いしている部分である。「機能」を上げることに何年も何年も費やしたところで、「視覚」と「哲学」をブランディングしなければ、積み上げたものは一瞬で崩れ去る。


■日本人の勝機

今回の記事を読んで、いやこれまでのシリーズ全てを読んで、以下のような感想を持っている人も多くいるかもしれない。

「外国人はそんなこと意識してないし、ただ格好つけたくて格好つけているだけだろう。それに、外国人だからかっこいいんだ」

もしかしたら、それは正しい批判かもしれない。ただ、だからこそ私たちには勝機がある。彼らが「実行はしているけど自覚はしてないこと」を、私たちは客観的に分析し、そして彼らの文脈で、世界で唯一日本語で説明をすることが出来る。先述した「少数派」の利点である。彼らをそのままコピーするのではなく、自らの頭で考え、意識し、表現をすることが出来る。サッカーにおける全ての事柄は、同じようなことが言えるのではないだろうか。

そして、日本人には、日本人にしか表現できない「かっこよさ」があり、それを追求することこそ、真に必要なことである。日本人でも「クール」な人が多くいることは、これまでの日本人がたくさん証明してくれている。


■目的は「勝つため」である

これまで4回に分けて「サッカーにおけるブランディング」というテーマで書き、それをもって「サッカークラブはクールでなければならない」と主張をしてきた。

Vol.1:『強いからかっこいいのか、かっこいいから強いのか——。 "弱い"と"ダサい"の因果関係』

Vol.2:『"ダサい"組織が死ぬ理由——。なぜサッカークラブは"クール"でなければならないのか』

Vol.3:『Jリーグが必ずハマる"罠"——。 スポンサーの獲得は「正義」か「悪」か』

Vol.4:『なぜ彼らは異常なまでに「見た目」に気を配るのか——。“弱い”と“ダサい”は比例する』(本記事)

その最大の理由は「勝つため」である。

『ブランディング三角形』に一貫性を持たせ、そして「クール」を求めることが、あらゆる領域に波及し、結果的にそれが「勝ち負け」に影響を与えることは、これまで書いてきた通りである。

「勝つ」というのは、あなた方の目的ではない。サッカーというゲーム(競技)の目的である。サッカーを競技として行なっている以上「勝つこと」を求めなければ、競技の目的を果たしていないことになる。あくまでこれは競技として、勝ち負けがつけられるサッカーのことを話しているが、その「勝つため」に選手たちが繰り広げるパフォーマンスこそが、総じてエンターテイメントになるのではないだろうか。

イタリアのシルビオ・ベルルスコーニが「ヒゲ、タトゥー、ピアスのないイタリア人だけで」サッカークラブを構成したいとの意を発表したことが話題になった。

もしこのクラブが「勝つこと」、つまり上に行くことを目的としているのであれば、(私は)正しい判断とは思えない。この行動が現代のブランディングと反することは、これまでの記事に書いてきた通りである。

そして何より、サッカー選手は、その他の人間と同じく、サッカーだけではなく、人生の幸せを求めている。逆に言えば、人生の幸せを保つことが出来ないのであれば、サッカーにおいても良い結果を残すことは難しいだろう。厳しすぎる制約に、幸せになる要素はあまりないように思う。


■弱いとダサいは比例する

クールになるのは「勝つため」であり「長期的に強くなること」であって、ビジネスのためではない。あくまで、後から付いていくものであると考えるべきだ。

つまり「Jリーグはクールなブランディングをマーケットが求めていないから行わない方がいい」という考え方を、私は否定したい。ビジネス的観点は、あくまでも副産物である。サッカーはビジネスであるという人がいるが、その本来の意味を履き違えてはいけない。

サッカーの世界は、時間が経つごとに「クール」になっていく。日本は、それに逆行してはいないだろうか。あらゆる状況を加味しても、全てを世界基準で考えなければ、これからの日本サッカーは生き残ってはいけない。外国人でも「かっこいい」と思うようなブランディングをすれば、日本人は絶対に掴める。日本人全体が「かっこいい」と思うようなブランディングをすれば、地域のファンは絶対に掴める。「かっこいい同士(もちろんそれぞれのかっこいい)の戦い」をJリーグで繰り広げなければ、日本サッカーに未来はないと、私はそう思う。

クールを求めろ。かっこよくあれ。

弱いとダサいは比例するのだから。



筆者:河内一馬(@ka_zumakawauchi)

1992年生まれ(26歳)サッカー指導者。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。サッカーを"非"科学的な観点から思考する『芸術としてのサッカー論』筆者。NPO法人 love.fútbol Japan 理事。

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河内一馬

芸術としてのサッカー論

サッカーを"非"科学的視点から思考する
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コメント1件

非常に共感できる内容でした。
スポーツは精神状態によりパフォーマンスが変化します。
そして、自己肯定感が強い選手ほど、良い選手と言われています。

クールを求めよ。かっこよくあれ。

多くの選手、指導者の方に届いて欲しいと思います。
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