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「サイエンス化」とは全ての国が同じ到達点に向かっている状態を指す Prologue.1


「サッカーを言語化する」

現在日本サッカー界で、頻繁に聞かれるようになったフレーズです。欧米諸国における現代サッカーでは、各国それぞれの方法論で、サッカーにおけるあらゆるプレーが「言語化」されており、これはスペインやオランダを中心に「常識」と捉えられている印象を受けます。

極端にいえば「360度何をしても良い」という極めて自由度の高い中で"共同作業"をするサッカーというスポーツにおいて、一つ一つの行動(プレー)を定義付け、それを言語化していく流れは当然のことではあります。人類に「言葉」という概念が出来た経緯・必要性と全く同じです。

そしてまた、(5〜10年遅れて)欧米の後を追う日本人が、サッカーにおいてここから同じように「言語化」をしていく流れ、というよりは「言語化」という言葉が使われていくのは、至極当然であると私は認識しています。

ただ、私たち日本人がこの「言語化」というテーマでサッカーを考えることに、私は否定的な意見も持たなければならないと考えています。


■日本サッカーと言語化

このプロローグを通して、なぜ「サッカーを言語化すればするほど日本は世界に離される」と主張出来るのか、根拠立てて書いていきたいと思います。

日本サッカーが今後どのような流れを辿っていくことが予想できるのか(詳しくは後述しますが)、こと「サッカーの言語化」というテーマに関しては、ここから日本は以下のような段階を踏んでいくことが容易に予想できます。


1段階:外国語で言語化する(そのまま使う)

2段階:日本語で言語化を試みる(複雑化する)

3段階:日本語でサッカーを説明するのは困難であるという結論に至る


このような段階を経て、「サッカー言語化」という概念がいまいち日本サッカーに浸透せずに時が過ぎていくフェーズへと終着します。「日本語の特徴」や「日本人の特徴」を理解している方であればおわかりいただけるかと思いますが、日本サッカーは今、必死になって危険な段階を踏もうとしているのです。


■芸術 or 科学

サッカーは芸術(アート)か、それとも科学(サイエンス)か…

「サッカーの言語化」について話をする前に、まずはこのことをはっきりさせなければなりません。何を言っているのかと思われる方も多いと思いますが、日本人には物事を考えるときに、この「アートか?サイエンスか?」という発想が圧倒的に欠けています。

まず、私の答えは「サッカーは芸術(アート)である」です。もっと言えば「科学(サイエンス)はサッカーを"補足するもの"にしか成り得ない」という考え方です。対局する「芸術と科学」のうち、サッカーとは何か?と言われれば、私は間違いなく「芸術」である、と答えます。

どういうことでしょうか?


■芸術(アート)と科学(サイエンス)の定義

『はじめに』でも書いている通り、今後私の書くものを読んでいただくにあたっては、「アートとは何か?」また「サイエンスとは何か?」という共通認識を持っていただく必要があります。


「アート」とは「直感的」「感性」などと言われる「言語化・数値化が不可能なもの」だと思っていただければわかりやすいかと思います。例えば「絵」というアート(作品)は言語化できません。作品を後から説明しているのは、アートを「言語化」できているわけではなく、見ている人間のフィルターを通した「評論」であり、アートのすべてを言語化・数値化することは不可能です。

その対極に位置する「サイエンス」とは「論理的」「理性」などと言われる「言語化・数値化が可能なもの」です。そして「再現性」がある、つまり理論上「誰がやっても同じ結果になる」のがサイエンスです。「後から説明できるもの」と言っても良いかもしれません。

皆様にもこの「アートか?サイエンスか?」という考え方を理解していただいた上で、サッカーの「言語化」について話を進めていきたいと思います。ここではわかりやすいように以下のような定義で話を進めていきます。

芸術(アート):言語化・数値化出来ないもの
言語化・数値化出来ないため、再現性がなく、後から説明できない
科学(サイエンス):言語化・数値化出来るもの
言語化・数値化出来るため、再現性があり、後から説明ができる


■サイエンス化した現代サッカー

いきなり矛盾するようですが、現代のサッカーは「サイエンス化」を急速に進めています。選手の動きはデータとして現れ、戦術論・戦略論はもちろん、コンディション、メンタル(心理状態)までが言語化/数値化されてきています。また「レフェリーは絶対」という言葉は今ではもう死語になり、数年前には考えられなかった「ビデオ判定」なるものがサッカーでも常識になっていくことでしょう。今後のサッカーは、日を増すごとに「サイエンス」として捉えられ、すべてのプレーは「言語化」され、「数値化」され、"それ"を説明することが求められる段階に入っています。


■サッカーにおける「正解」

私たちがこのこと理解せずに、欧米の尻尾を追いかけ続けることは非常に危険なことです。サッカーを「サイエンス化」することとはつまり何を意味するのでしょうか?

前述した通り「サッカーがサイエンス化していく」ということは、言葉や数値で説明できなければならないということです。言葉や数値で説明できるということ、つまりサイエンスであるということは「誰がやっても同じ(再現性がある)」ということです。それぞれの国がそれぞれの方法でサッカーをサイエンス化している"現段階を超えたとき"にどうなるか?

すべてのプレーは言語化され、数値化され、サイエンスが進歩していけばいくほど「正解」に近づいていきます。これまでせいぜい数世代の「経験」でしか行動が出来なかったものが、サイエンスの発展によってあらゆるものが「データ化」され、何十年、何百年の情報が蓄積されていきます。

それはつまり「こうすればこうなる」という正解がいくつも誕生していくということです。現時点で、数年前にはなかった戦術的な「正解」や、あらゆることの「正解」がわかってきています。正解があればそれを追い求めるのは自然の流れです。つまり、現代サッカーの「サイエンス」を追求している状態とは、お金をかけ、サッカーの正解を求めてるということです。よって最終的な到達点は全て同じになります。それがサイエンスです。

全ての国が同じ到達点に向かっている状態とは、未来を予想すればあまり良い状況でないことがわかります。


■正解のコモディティ化

そしてこの「正解」はコモディティ化(価値が低下)し、無料でアクセスが可能になります。現代のビジネスと同じように、サービス自体でマネタイズをしなくても、他のところでお金を発生させることが可能になっているからです。私たちがGoogle検索を無料で使用しているのと同じ原理です。

サッカーにおけるサイエンスは誰にでもアクセスが可能になり、理論的には「強いチームは誰にでも作れる」という時代が来ます。これまで価値の高かった「正解」は徐々に価値が下がっていきますので、必然的にこれからのサッカーで勝つためには正解以外の「何か」がなければならなくなる、ということです。

では、「サッカーには正解など存在しない」というあの決まり文句は、どうなってしまうのでしょうか?日本人はここから「サッカーを言語化することが正義だ」という認識をしていくと思いますが、同時に「サッカーに正解はない」という、「言語化(サイエンス)」とは対局の主張も続けます。

ここにサッカーにおける「最大の矛盾」が発生します。


・・・続く



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