『サマー・バースデイ』

 夜明け前。八月。紺碧の空を駆け抜けていった白い飛行機を私は見た。台所のテーブルの上には、誰が贈ってくれたのかも分からないショート・ケーキが置かれている。チョコレートの板には、名前が書かれているけれど、それがどうしてか私の名前のようには思われない。文字の半分はもう溶け出した後だった。居間の隅で、傷の入った銀色の魔法瓶が転がっていて、液体が零れたままになっている。昨日までのことは、あまり憶えていない。憶えているのは、今日が誕生日だった、ということだけ。暑さで馬鹿になった蝉が、庭に植わった楡の樹につかまって、鳴いている。私は蝉の生まれた日のことを知らない。蝉が私の誕生日を知らないことと同じように。耳元に夏の訪れだけを告げて、二週間後には、この世から姿を消している。まるで透明なマントを被って、いつの間にか消えていた、おとぎ話の住人みたいに。
 けれども、あなたが誕生日の日に鳴いたことを、私は静かに憶えているでしょう。何にも云わないで、六畳の居間の縁側に腰掛けて、陽が昇るときを待っていた瞬間に、あなたがうるさく鳴いていたことを。
 いつか遠い未来で、私たちは土の中に潜って、誰よりも深く眠る。再び起き上がって、とぼけた二十日鼠みたいに地上の穴から顔を出したとき、楡の木の下で、沢山の蝉の音が聞こえていたら。私はあなたの鳴く声を、ちゃんと聞き分けられるような気がする。
 これが何回目の夏なのか、私には分からない。数えることは止めてしまった。陽が昇る。飛行機が東の空へ消える。蝉の音が雨のように降り注ぐ朝、私は枯れてしまった向日葵を抱いて、冷たい縁側の板の上に寝そべった。私が魔女であることを知っているひとは、誰もいない。
 
 *
 
 誰かが季節の名前を呼んだ。『ハル』。違う、私の名前だ。気付けばへちまのツルが伸びきった夏の庭に、近所の子どもがふたり、入り込んでいた。丸い眼鏡を掛けた男の子が、栗色の髪をした女の子の手を引いて、立っている。ふたりは姉弟のようで、よく私の家へ遊びにやって来る。子どもたちは何処からともなく転がり込んできて、日が沈む頃には、いつの間にか姿を消している。田舎の子どもたちは、そんなものだ。
 私は彼らの名前を知らないし、聞いたこともない。けれど、男の子はいつも青っぽい服を着ているので「アオ」、女の子は可愛らしい赤いシューズを履いているので「アカ」と呼んでいた。そして、子どもたちは私のことを「ハル」と呼ぶ。私がそう教えた。ほんの気まぐれの思いつきだった。私は自分のほんとうの名前を、知ったことがない。
「夏に生まれたのに、『ハル』ってへんな名前」と、いつかアオが云った。そうだね、と苦笑いをしながら、その時の私は頷いていた。

「ハル、どうしたの」とアカが尋ねる。彼女はするりとミニチュアのような赤い革靴を脱いで、敏捷な猫のように、縁側へ上がり込んだ。横たわった私の汗ばんだシャツの袖を、小さな五本の指がつかんでいる。アオの手は隣からいなくなった姉の指を探し求めて、空を切っていた。何でもないよ、と云って私は起き上がる。彼女が私の膝の上に乗った。アカの眼がじっと私を覗き込んでいる。珍しい西洋人形でも見つけたみたいに。この子の眼はまるで万華鏡みたいだ。びいどろのように果てなく透き通っていて、切子細工のように鮮やかな紋を映し出す。
 アカの眼が好きだった。かつては私も同じ眼をしていた。窓硝子に映り込んだ、長い前髪の奥に隠れた瞳を、静かに見つめていたことがある。何度も何度も、繰り返し。いまは雨の日の曇り硝子さえ、見ることはない。鏡を見ることは、怖くなって止した。なくしてしまったびいどろの眼のことを、私はいつも考えている。
――あなたはいったい、何処へ消えたの?
 何だか哀しい眼をしてる、と彼女は云った。私はアカの小さな肩を抱き寄せて、そうね、と答えた。
 眼を瞑ってアカを抱いていると、アオが小さな歩幅で縁側を踏みしめる音がした。一歩一歩、遠慮がちに歩く彼の足下で古くなった床が軋んだ。アオは居間を抜け、台所の敷居の前で立ち止まっていた。息を呑む音が聞こえる。無理もない。真鍮の鍋はひっくり返り、木製のへらは真っ二つに折られ、カップグラスは粉々に砕け散っていた。アオは言葉を失い、石に固められたようにその場を動かなかった。
「アオ、こっちへいらっしゃい」私は縁側の床をとんとんと叩いて云った。アカは膝から滑りおりて、弟の背中を見つめていた。アカは私とそっくりの仕草でアオを呼ぶが、アオは振り向こうとしない。彼が横顔を向けたとき、その眼は何かに惹き付けられた色をしていた。視線の先は、居間の隅に向かっている。畳の上に転がっている魔法瓶から零れ出した液体に、彼は魅入られていた。
 私が億劫に立ち上がった一歩よりも、彼が踏み出した好奇心の一歩が早かった。アオは転がった魔法瓶の側まで飛んでいって、液体に指を浸そうと、カエデの葉のような手を近付けていた。
「駄目!」
 アオの下に駆け寄り、彼の肩を思い切り掴んで、後ろへ引いた。比重のある水膜の中へ包み込まれるみたいに、私たちは畳の上へと落下する。それから、アオの細い手首を掴んで、血管をなぞり、指先へ辿った。居間の窓から差し込んだ、午前十時の気怠い日差しが、彼の指を仄白く照らしている。中指の腹にわずかな湿り気があり、虹色に輝くような水滴が畳の上に垂れた。触れてしまったのだ、この子は。私の秘密に。
 アオは腰を抜かしたまま、背中を私の腹に預けていた。身体が小刻みに脈打つように震えている。私は唐突に雨に濡れた子犬の記憶を思い返した。『拾わなければ、よかったのに』。云ったのは、誰だっけ? アカは縁側で眼を丸くしたまま、両足を外側へ折ってへたり込んでいた。
「立てる?」アオの肩を軽く揺すった。
 彼はいまにも泣き出しそうに顔をゆがめたまま、色の変わってしまった指先を突き出した。痛みはないはずだが、水滴が触れた箇所だけが、血の気が引いたように青白くなっている。
「ハル、どうしよう……これ」
 縁側に座っていたアカを呼び、両手に二人の小さな手を引いて、私は居間の敷居を跨いだ。盗人に荒らされたような散乱した台所を横目に、細い通路を歩く。突き当たりの錠の掛かった扉を、金色の鍵で開けた。扉を開けると、薄闇の奥で水晶玉が輝きを放っていた。電灯のパネルを押す。ここが私の部屋だった。白黒のチェッカーボードがあしらわれたフロアマットにふたりを座らせて、桐の棚に眼を遣った。何百もの小瓶が一列に並んだ薬品棚から、赤いラベルの付いたひとつを選び出し、コルクの栓を抜く。てのひらに、逆さまにした瓶をかざして五回、振った。透明な水滴を両手に擦り込んで、アオの指を握る。時間をかけて、丹念に塗り終えると、青白い指先が血の通う色に戻っていった。
「ねえ、これって……」アオは口を開けたまま、ぼんやりと指先を見つめている。アカはぐるりと首を回し、部屋を一通り眺め終えると、私の側に寄ってきて、耳打ちをした。
「ハルは、魔女?」
 私はしばらく口を噤んだまま、真顔でふたりの顔を見比べていた。木製の安楽椅子を引きずって、彼らの前にゆったりと掛ける。あなたたちに、話しておきたいことがあるの、と私は告げた。かつて誰かがそうしたように。アカとアオはチェス盤に乗った駒みたいに、白と黒の枡目に行儀良く並んで座り、椅子に掛けた私を見上げていた。硝子窓の中になくしてしまった眼を、彼らの瞳の中に見つけていた。
「私……、私があなた達の年だった頃ね、魔女はほんとうにいるんだって、信じていた。小さい頃にそういう絵本ばかりを読んで、育ったの。カボチャのお化けに、飛ぶ箒、黒い三角帽子、それが十歳の私のお気に入りだった。絵本の題名には、『ウィッチクラフト』と書かれていた」
「ウィッチ……クラフト?」不思議な呪文を唱えるようにアオは同じ言葉を反復した。
「そう」机の上の羽根ペンと茶色の用紙を手元に引き寄せ、筆記体で、"Witch craft"と書き綴った。
「意味は?」アカがメモを覗き込む。
「魔術。覚えておきなさい――、いや、こんなものは忘れた方がいいか」
 私はそのメモ用紙をちぎって、ばらの紙片に変えた。床に落ちたその紙片を、アカはなくさないように両手で集めていた。
「アカ、アオ。君たち、魔法を見たことある?」
 アカは首を左右に大きく振った。アオは僅かながら頷いている。
「どんなものを見たの?」
「五百円玉がコップの中から消えるやつ」
「なるほど、アオ。でもそれは魔法じゃなくて、手品だ。"Trick"って云うんだよ。ちゃんとタネも仕掛けもある」
「魔法にはタネも仕掛けもないの?」
「魔法にも、タネや仕掛けはあるよ。けれどそれは人間に理解できることじゃないんだ。人間の理解を超えたタネや仕掛けのあるものを、魔術と呼ぶの」 
 こんな話、誰も信じなかったけれど、と私は頬を掻きながら云った。それから、ふたりの前に紺の袱紗を広げ、水晶玉をそっと置いた。
「アカ、電気を消してくれる?」
 電灯が消えた。部屋が黒いカーテンを引いたように薄闇に包まれる。私は木箱の蓋を開ける。中からロウソクとマッチを取り出し、黄金色の皿の上に置き、火を点けた。水晶玉の左右に灯った青い火が私たちの頬を照らしている。六つの眼が暗闇の中で揺らめく灯火の影を捉えていた。その火の上でパロサントの木片を炙り、銀器のポットに入れて香を焚いた。
「じっと火の形をよく見つめてごらんなさい。他のものが見えなくなるまで。忘れていいのよ。他のことは――、全て。大事なものはね、忘れなきゃ、見えないの。そのときに見たものだけをきちんと憶えておくの」
 それを思い出すとき、あなたの眼には正しい未来が宿る……。あのひとはかつて、そう云った。
 私は人差し指で水晶に触れ、ふたりの眼を球の上に引きつけた。
「あなたたちの望んだものが、この中に映っているわ」
 ふたりは透き通った水晶の球面に顔を近付けた。先に口を開いたのはアオだった。
「誰か……女の人がいる。ハルに、よく似てる。向日葵の色、蝉の抜け殻、ひこうき雲、落ちた、ショート・ケーキ……? 待って、プレートに何か書いてある」
 みどり? とアオは云った。私は閉口した。ロウソクを慌てて吹き消し、銀のポットに蓋をして、部屋の明かりを点けた。台所へ行って、蜂蜜を入れたブランデーをグラスに数ミリ注ぎ、アオに飲ませた。おれ、何を見たの、とアオが云った。見なくてもいいものを見た、と私は答えた。その間もアカはじっと水晶玉を見つめていた。私は台所へ走って、もういちどブランデーを注ぎ、アカの唇にそれを含ませた。彼女はえくぼを頬に作ったまま、まだ水晶に気を取られているようだった。私はアカの肩を揺すぶった。
「アカ、戻ってきなさい」
 彼女は人形のように静かな微笑を浮かべたまま、私を見ている。
「見えたよ」
「何が?」
「ハルだった」
「え?」
「ハルがいたよ、この中に」
「……」
 アカはいつまでも人差し指を水晶玉に向けて、指し示していた。そこには何も映っていなかった。近付いた私の、歪んだ顔だけが映っている。私はその影を、鏡の向こうに一度だけ認めたことがあった。ずっと昔、緑、と呼ばれていた頃に。

 *

 私がちょうど十歳になった時、この街に魔女がいる、と云う噂を聞いた。誰もそんな噂話を真に受けなかったけれど、私だけは熱心にその話を信じていた。毎朝、郵便受けを見に行って、いつかその魔女から手紙が来るんじゃないかって、どきどきしながらポストを開けた。入っていたのはお父さんの新聞だけだった。学校に行っても、私は不思議なものごとが何処かに転がっていないか、あらゆるところに注意を払って、校舎の中を歩いていた。ひとのいないロッカールーム、屋上まで辿り着かない階段、理科実験室のカーテンの向こう。箒に跨がってみたり、トランプ占いをしたり、鏡に向かって手を振ったり。ひと通りのことはやったけれど、魔女がひょっこり微笑みかけて、私に手を貸してくれることはなかった。見つけたのは自分の影ばかり。クラスメイトは、冷ややかな眼で私のことを見ていた。私は途方に暮れた。クラスメイトよりも、絵本の中の物語を信じていた。それは正しいことのように思われた。三角帽子、空飛ぶ箒、かぼちゃのお化け……。目を瞑りさえすれば、私と同じ背丈の、黒いローブを着た女の子が、笑っていた。

「みどり、遊ぼうよ」
 黒い縁の眼鏡を掛けた男の子が云った。私たちは幼馴染みで、何処へ行くにも一緒だった。近所のひとには姉弟のように思われていたけれど、血は繋がっていない。魔女の噂話を教えてくれたのは、青い服を着たその子だった。魔法の話をしてもヘンな顔をしないのは、彼だけだ。
「公園通りから、ずっと真っ直ぐ、西へ進んでいくと、道が途中で途切れているところがあるんだ。看板だけが草むらの中に立ってる。そこで矢印の書いていない方に向かって歩いて行けば、魔女の家があるんだって。庭に向日葵が咲いてる時だけ、魔女に会える」
「誰から聞いたの?」
「さあ、忘れたけど。学校の誰かが云ってたんだ。聞いたことだけ思い出した」  
「……」
 私たちは半信半疑のまま、自転車のペダルを漕ぎ出して、砂利道を進んでいった。夏休みの前に魔女の家を探している、というのも何だか可笑しくって、私はひとりで頬を緩めていた。自転車のチェーンが巻き上げられる音が通りに響き、クヌギの木立で蝉が片割れとはぐれたように鳴き続けていた。
 半時間も自転車を漕ぎ続けた後、ようやく道が途切れた地点に辿り着いた。草むらの中にその看板は立っている。私たちは自転車を道端に停めた。一見、何処にでもありそうな木の幹の形をした看板は、よく見ると奇妙だった。矢印を示す札が八方に出て、東西南北すべてに向けて、矢印が付いている。看板自体が古くなっているのか、どの行き先も白い文字がかすれていた。これでは何も分からない。単なる樹のオブジェだ。私たちの前には小さな丘があるだけだった。
「これ、どういうこと?」
「……何か、意味があるんじゃないかな」
 私たちはそれぞれが腕を組んだまま、辺りを見回した。魔女の家らしいものは何処にも見当たらず、矢印の方角の殆どが林間を指し示していた。林の奥は、一度入ると簡単には戻って来れないような、入り組んだ地形になっている。
「看板の矢印が指していない方角って、ある?」
 私たちはしばらく考え込んでいた。陽が正午の位置から下り始めたとき、私は咄嗟に閃いて、右の指先を天へ向け、左の指先を地に向けた。
「上か、下……? なるほど、分かったかもしれない」そう云うと、彼は小高い丘の頂に向けて眼を細めた。
 みどりは魔女みたいだ、と彼は云った。私は得意げに胸を張った。麓をよく調べてみると、丘の上へ繋がる獣道があった。見つけたのは彼だった。人間の靴の跡もあり、誰かがこの道を使っていることに違いなかった。中腹部まで昇ると、人工の石階段が見つかり、私たちは手を取り合って、丘の頂上に向かって駆けだしていった。
 その丘の上に魔女の家があった。向日葵の一本一本が薔薇のように鮮やかな色を放つ庭で、私たちはハルに出会った。私の魔女。もうひとりのお母さん。

 *

「この家に昔、住んでいたひとの名前はハルって云うの。そのひとが、魔女だった。私はその名を借りて、アカとアオ、あなたたちに名乗っていた。私にはお母さんが、ふたりいるの。私を産んだ母親と、私を拾ってくれた魔女のハル。この家にやって来たとき、あのひとは私を抱き上げてくれた。私は矢印とは別の道を選んだのね。皆――、それも大抵の人間は、看板通りの道を歩いていくものよ。本人がそうと思っていなくとも。でも、それでは、私の望んだものは手に入らなかった」
「ねえ、あなたのほんとうの名前、みどり、なの?」アカは首を傾げた。何故、アカが不思議がっているのか、私には分からなかった。
「そうよ、私が生まれた頃に付けられた名前。でもそれは、仮の呼び方みたいなもの。私のほんとうの名前、ではないわ。人間の名前はね、本当に愛して貰ったひとに、付けて貰うべきなのよ。でなかったら、自分で付けてしまった方が、まだましだわ」
 アカは何も答えなかった。しばらくして、思い出したように、云った。わたし、アカって名前、気に入ってる。彼女は立ち上がった。小さな肩をひょこひょこ揺らしながら、部屋のドアに向かって歩いていく。どうして、と尋ねると、彼女は扉を開けた。わたしも自分の名前、きらいだったの。次の言葉を掛ける前に、彼女の姿は扉の向こうに隠れた。自分の指を見つめているアオと、私だけが部屋に残されていた。
「ハル、おれたち、ここに来ちゃ駄目だった?」
「そんなことないわ、私、あなたたちに会えて嬉しいもの」
 彼はしばらく眼鏡を付けたり、外したりして、大人がわざとやるような間を置いた。アオは何か尋ねたいことを聞くときに、いつもそうする癖があった。
「ねえ、おれさっき、水筒から零れたものに指が触れたとき、何かを忘れちゃったんだ。それが何だかよく分からないんだけど、大事なものだった気がするんだよね」
 アオは床をじっと見つめたまま、俯いていた。彼は膝の上で、両のこぶしを堅く握っている。私はそのこぶしに、ゆっくりと手を重ねた。
「アオ、あのね。大事なことを云うから、よく聞きなさい。あなたがさっき触れたのは、魔法の水だった。その水に触れると、永遠に歳を取らないでいられる。でも、あなたには薬を塗ったから、永遠に生きることは、ない。ただ、あなたが触れたその指は、棺桶に入っても腐らない。あなたが死んだあとも何百年と、土の中に残る。その代わり、記憶を失うの。それが代償。この世には引き換えることなしに手に入れられるものは、何にもない」
 アオは自らの五本の指を奇妙な眼で見つめていた。その眼はやがて、私の顔に向けられた
「まるで蝉みたい」
「え?」 
 ハル、おれが何を忘れたか、分かる? と彼は云った。
 私は答える代わりに、彼の手をただ握り締めることしか出来なかった。彼は私と同じものを、忘れていた。
 突然、前触れもなく扉が開いた。アカが崩れてしまったバースデー・ケーキを胸一杯に抱えて、部屋に入ってくる。チョコレートのプレートの上には、こう書かれていた。

『ハルちゃん、誕生日おめでとう! みどり』

――これは誰が作ったの?
――わたし。
――この家にケーキを持ってきたのは?
――青い服を着た男のひと。

 気が付いたとき、アカとアオの後ろ姿は、夕暮れの微睡みの中へ、溶けていった。まるで鏡から抜け出した影が、元の世界へと戻っていくように。

 時計の針が歪んで見えた。

 *

 私がいくつになったのか、名前は何だったのか、思い出せない。ただ後になって思うと、それは大事なことではなかったように思う。眼が醒めたとき、私の胸の上で枯れていた向日葵は、息を吹き返したように蘇っていた。花びらは太陽の黄金色に染め上げられ、私はまだ夏休みを迎えた十歳の女の子のようでいた。アカに名前を聞いておけば良かった。でも云わなくても、あの子の名前は分かる。アカのことは、私が一番よく知っていた。夏の間中、鳴き続けた蝉は、はぐれずに済んだのだろうか。飛行機が西の空に消える。青い服を着た男の子の影が、庭先に映っていた。傷の入った魔法瓶を片手に持っている。忘れた名前を教えて貰いに来た、と彼は云った。知らないよ、と私ははにかんで答えた。

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