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Door23: いろんな時間が寄り添う風景~カッパドキア、パムッカレ(トルコ)

トルコについて、伝えようとすると、直接目で見たものだけではなく、その奥に漂う知らないはずの時間や、人々の面影が浮かんできて、何から言葉にすればいいのか迷う内に、輪郭が、ぼやけて掴みどころがなくなってしまう。

東洋と西洋の交差点に、長い年月をかけ、様々な民族が行き交い、残していったものたち。
それらは円熟し、西も東もふわりと包み込むような、おおらかさをたたえていた。
色彩豊かな国でもあったけれど、アジアやメキシコのごったがえす原色とは違い、ほんの少しだけ色褪せた写真の中のような、独特の柔らかな諧調がたゆたい、その中にいると、不思議と懐かしさを感じる瞬間が幾度もあった。

街から離れると、自然が形作った、奇抜な世界を目の当たりにした。
例えば、想像以上の広域に渡って、不思議な形の岩が立ち並ぶカッパドキア。
まるで違う星に来てしまったかのような、突拍子もない風景の中にいても、それらはのどかな日差しや風にそよぐ草原、おだやかな空に囲まれ、すぐ傍には、人々のゆったりとした生活が息づいているのを感じ、見たことのない景色にびっくりするというよりは、ほっとするような気持ちになり、なごんだ。

周辺の村では、奇岩の中や洞窟を住居としている人々が、子どもの頃から見慣れた景色として、特別なことだと意識もしていないように、ただ淡々と生活をしていた。
空には洗濯物がはためき、奇岩の立ち並ぶ道端では、女性達はしゃがみこんで井戸端会議、子ども達は枝を振り回しながら、猫を追いかけ、遊んでいたり。

夕暮れのローズバレー(奇岩の連なる渓谷)を観光した時には、巨大に絞り出されたような形の岩が連立している光景に圧倒されたこと以上に、辺りの草原が、夕日に染まって風に揺れ、空に雲が流れ、そこに気球がやってきたり、岩肌は夕日のもと、何層ものピンクに染め分けられ、休憩に出されたミントティーはいい匂いを漂わせながら、コップの中で冷めていく・・・
そんな風景と自分の五感や気持ちが溶け合い、境目がなくなっていくような感覚が心地よかった。
そして、時間が流れて行く様子をきれいだなあと思った。

パムッカレの石灰棚の景観も印象に残っている。
見渡す限り、白いバター飴のような質感の、自然に作られた石灰の受皿が、棚田状に積み重なった、丘陵地帯。
受け皿一つ一つに鉱水が溜まり、真昼の青空が映りこんで、水色に輝く。
夕暮れにはその中に、落下していく太陽が反射し、更にきらきらまたたく。
登っていくと、幻想的な石灰棚の下には、西日の差し込む村が広がり、木々や家があたたかな色に照らされていて、神秘的な白い丘と、のどかな生活風景が、違和感なく寄り添っている様子に心をうたれた。

更に登ると草原が広がり、古代都市の跡地があった。
その中の円形競技場跡に腰かけていると、古代の人々の暮らした遺跡、鉱水がゆっくりと形作った石灰棚、古代の人々が暮らしていた頃と、殆ど同じかもしれない草原の草木、現在の人々が暮らす村、そのすべての上に広がる空・・・
それぞれに流れる、スピードの異なった時間が交差しているのを感じて、大きなものに繋がっているような安心感と、この一瞬をとても儚く思う、切ない気持ちの両方を感じた。

エキセントリックな自然と、のどかな生活風景が寄り添い、いろんな時間軸が共存していたトルコの風景を思い出すと、日常と旅の境目というのは、自分が思い込んでいるよりもずっと薄くて柔らかいものなのかもしれないと感じる。
日常というのが、自分で括った時間枠だとしたら、そのすぐ周りには、いくつもの異なった時計が回転している。

旅をするには、自分とは違う時間軸にほんの少し思いを馳せるだけで足りるのかもしれないし、そうすることで、心がほどけて、視野が広がる。
物理的に移動できない時でも、心だけはどこまでも旅できると思うのだ。
逆にどんなに離れた場所に行っても、そこと自分の日常はつながっているのだと思う。
どんな状況にいても、その感覚を忘れないでいたい。


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