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世界を見ることとジュリアン・オピー

都会的なクールな服を着ているか。持っている鞄はトートバッグか、メッセンジャーか。どんな大きさか。前かがみで歩いているか、背筋はいいか。ちょっとお腹は出ているか、誰もが振り向いてしまう、いいスタイルか。ひげは生えているか、生えているとしたら、どんな形か。タトゥーはしているか、モダンな柄か、トライバル柄か。


人の見た目は、その人がどう生まれ、育ってきたか、そして、何と出会い、他の人からどう認識されてきたか、それに対して、どう、本人が見せようとしてきたか、(そしてそれが他の人にどう認識されてきたか、の繰り返し)を示している。

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人はなかなか自分のことを表出しにくいものだから、すでに表出しているものは、その人の渾身の主張だったり、言いにくいことを我慢しつつも、出てきた、とても大事なことだったりする。(だから、人の話はちゃんと聞かないとな、と思う。)
些細なことに思えても、その人の見た目・話す内容・話し方は、その人の世界に対する関わり方と、世界がその人をどう見てきたかの蓄積として現れてくる。

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それは自然の風景でも同じなのかもしれない。自然風景は、世界に対して「どう存在しよう」という意思はもちろん持たない。
でも、その風景には、「これまで、人がその風景をどう認知し、捉えてきたか」というパーセプションの蓄積がある。
世界は直接的に把握されるものではなく、観察者が、彼自身の過去の経験と紐付けたり、解釈したりしながら、知覚していく。(つまり、世界はそれ自体というよりも、人に語りかける言語として現れている。)

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ジュリアン・オピーの描く線は、太い。
繊細な世界自体の描写ではないけれど、繊細に世界の知覚を描写している。小さいけれど、確実に世界に現れた、人の姿や風景を、観察して、描き切っている。世界の姿を具体的に描くことよりも、「描かれた対象がどう世界と関わっているか」「見る人のどんなパーセプションの表出か」を描くほうが、ものを見ることの本質に沿っているのではないかと思う。だから、ちょっとだけ出たお腹も、描かれた人の生き方や世界との関わり方が表現されている。

まだ、Instagramのフィルターがもっとわざとらしかった頃、#nofilter というハッシュタグが出始めた。
「世界をそのままに捉えていますよ」「フィルターなんかかけなくても、こんなに美しいですよ」ということなのだろう。面白かったのは、世界をそのままに捉えることが正義になり始めたときに、Adobeがコミュニケーションで、「感じたままに表現する」みたいなことを言い始めたことだった。(どんな言い方だったかは忘れてしまったけど。)

つまり、見えるものそのものが重要なのではなく、自分がどう感じたか、そのパーセプションが重要で、それを表現するためには、加工することが重要である、という言い分だった。
「元の姿から加工によって違うものに変化していく」と思われいた時代に、「加工によって、パーセプションの中にある、本来の姿に近づけていく」という主張をしていることに、驚きを覚えた記憶がある。

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この間、素敵な写真を撮る友人の写真を眺めていたら、撮影された場にある、人の没頭や集中が表現されていることが、キーなのではないかと思った。
ジュリアン・オピーは様々な素材を使って、色々なメディアで作品を作る。作品は、作家が世界を観察し、受け取った感覚を、漏らすことなく、表現したものになっている。
だから、作品は、作家の感覚そのものではなく、再度「世界の内側」になった、作家の感覚である。


作家の感覚はある定まったものだとしても、色や表現手法にはいろんな可能性がある。受け取ったパーセプションをこれだけ精緻に、そして親しみあるスタイルで表現しているのがすごい。
世界を見ることの本質を教えられた気持ちがしました。

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ジュリアン・オピー 展
東京オペラシティ アートギャラリー
2019年07月10日 ~ 2019年09月23日
http://www.operacity.jp/ag/exh223/

#art #design #exhibition #julianopie #tokyooperacity
@ Tokyo Opera City Art Gallery





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