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すずめユートピア | 2022.11.22

・中華料理は雑なフラッシュ撮影がよく似合う。

・Twitter、少し前から絶賛改革中らしいが、ようわからん業者アカウントは再圧縮を繰り返しすぎた結果ガビガビになっているJPGみたいな情報で相変わらず数字を稼いでいるし、自動排斥を回避するための不可思議な文法を駆使するスパムくんからの副業の誘いをDMで1日1回は受けるし、あからさまに刺々しているウニのようなツイートは延々とタイムラインを滑り落ちていく。奴らは強い。

・インターネットは面白い。色々な人がいて、色々なことを考え、色々なことを断定している。毎日。ほんとうに面白いが、インターネットのことを自分は信用していない。

・インターネットを通した画面につらつらと並ぶ文字情報の奥から感じる自我は、満員電車で隣り合わせた生身の人間から感じる自我よりも、ずっと生々しく獣臭い。この違和感にどうも自分は適応しきれていない気がする。

・この期に及んで、他者のことを自我を持たないNPCだとはもちろん微塵も思っていないし、誰かを慮ることに関しては一般程度の能力を有している自覚はあるが、その獣臭さに「おお……」と気圧されることがよくある。

・本来この臭いは、物質的にも精神的にも近くに存在する人たちとの間で起こる、避けられない共生によって“慣れていく”ものであると思う。それがコミュニケーションであり相互理解であり許容であるはずで、それを遂行しなければならない場でない限り、人はその臭いを隠すことができる。

・一方で、インターネットでは“慣れること”の必要性に迫られていない状態で、その臭さを不意に嗅がされる場面によく出くわす。インターネット上で発露されるものには、顔の見える実態が対象として設定されていないことが多いのだが(対象設定の精度が落ちると言い換えても良い)、それでも臭いの投棄が認可されているからだ。

・良くも悪くも、いまのインターネットは人の気配が強すぎる。インターネットは人そのものが棲むところではなく、もっと大らかで怪しい神性に類するといってもいい何かに集合意識が変換された、外界には存在しないエーテルが蔓延しているところだというような気がしていた。けれども実際は、電子のユートピアではなく、どろどろに拡張された現実社会の延長である。

・インターネットで安寧を慮るのは難しいのかもしれない。アッって思った時に押すと、流れてくる情報が全てかわいいすずめとかに瞬時に切り替わるボタンをブラウザに実装してほしい。すずめユートピア。


・YouTubeでShortsを眺めていると(個人的な理由でトラッキングによる内容のカスタマイズは一切適応していない)、「Breakingdown」「マネーの虎」といった、大人がたくさん集まって、ひたすらにいや〜な雰囲気を醸し出すタイプのリアリティショーの切り抜きがよく流れてくる。

・ああいった作品を心底楽しんでいるという人は、どういった楽しみ方をしているのかふと気になった。絶叫マシンとかホラー映画とか、そういう類のものを体験するときと同じ脳の部位を使っているのだろうか。違う気がする。

・自分はどちらかといえば魚が水中を泳いでいる動画とかのほうが断然面白く感じる。大きい声を出さないでください!という気持ちがまず出てきてしまうから。

・ただ「Breakingdown」や「マネーの虎」の“あの感じ”を、現場の全員が一丸となって真面目に作り出している光景はなんか良いなと思う。

・よーし、じゃあ本日もね、皆さん張り切ってピリついて頂いて、ストレスフルでいや〜なあの感じを出していきましょう! みたいなことを物凄く怖い顔で、しかし高い精度でやってのけている。

・大体の人間が望んでいないようなネガティブな環境に違いないのに、わざわざ意図的にその雰囲気を皆で協力して作り出して、それをエンタメに昇華している。ここでこういう強い言葉を使えば、もっとこの場は気まずくなるだろうな……という事業を円滑に進めるための暗黙の計算が、あの場にはきっとある。

・リアリティショーの本質は、演劇鑑賞に近い。お金をあげるあげないだとか、どっちが喧嘩が強いだとか、理想の男女関係を巡ってだとか、題材そのものは本当に俗っぽい。しかし、だからこそ面白いと思う人もいるのだと思う。

・劇作家の平田オリザ氏が提唱したといわれる「静かな演劇」という概念がある。彼は、大袈裟で芝居がかった非日常的な舞台ではなく、現代的な俗世間を表現することに焦点を置いたリアルな会話劇に演劇の良さを見出した。

・「Breakingdown」は静かな演劇なのかもしれない。

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