匙(さじ)を投げない ~動物病院のカルテ~

羽尾先生は、獣医として働くのにあたって、心に決めていることがあります。
それは、「患者さんを絶対にあきらめない」ということです。
どんなに難しい病気であったとしても、どれほど患者さんの状態が悪かったとしても、いつでも最善を尽くすようにしています。
それでもやはり、動物を助けられない場合はあります。

食欲が段々減ってきて、それに伴って徐々に痩せてきた猫。
レントゲンを撮ったらお腹に大きな塊がありました。どうやらこれが胃を押しているので食欲が出ないようです。
おそらく腫瘍、悪ければガンです。
ともあれ、まずはこれを手術で取る必要がありそうです。
「取り除けば完治するかも知れません。そうで無かったとしても、しばらくは食べて元気に過ごすことが出来るでしょう。」
手術しか選択肢はありません。
そのように伝えたのですが、猫を連れてきた男性の返答は思っていたのと違うものでした。
「そうですか…。じゃあ、もう出来ることは無いのですね」
いや、手術をすれば、そう羽尾先生が言いかけるのを遮りながら、諦めた清々しいような表情で言いました。
「あとは治療をしないでウチでお世話します」
「いや、でも…」
「先生、もういいんです。ガンだとわかれば、これで諦めがつきましたから」
この方に対して、羽尾先生はそれ以上言うべき言葉を持ち合わせていませんでした。


その日のカンファレンスは穏やかではありませんでした。
「高志先生はそれで、この腹腔内マスは何だと思っているの?」
先輩獣医は苛立たしげに質問しました。
羽尾先生ではなく高志先生と呼ばれる時には、いつも良くない展開になるのです。
考えがまとまらずに返答出来ないうちに、二の矢が飛んできました。
「血液検査も超音波検査もして無いけど、どうしてしなかったの?」
それは・・・、ご家族の方が・・・。
望まないようだったので、と言う前に先輩獣医は畳み掛けました。
「これだけで何が判断出来るの?どこに出来た何起源のものでどう悪くて、予後はどうなの?今の状態もほとんどわかっていないよね!?」
家族が諦めたからって、その前に高志先生は最善を尽くしたと言えるのかよ?
吐き捨てるように言われた言葉は、その後長く羽尾先生の耳にこびりついて離れませんでした。

カンファレンスの席で、次回来院予定が決まっていないその患者さんは、先輩獣医が次から担当することになりました。
しかし・・・。

それからその猫が来院する事はありませんでした。

自分があの猫を診たのでなければ、きっと何かは違ったのかも知れない。
ぼんやりとそんなことを考えていたある日。
「羽尾先生」
優しく呼びかけられました。
「やっぱり獣医はね、絶対に患者さんを助けるという気持ちでないと、ダメなんだとオレは思うよ。少しくらい家族に嫌がられたってそれはしょうがないじゃないかってね」
そう言ってから、先輩獣医は寂しそうに微笑みました。
そして次の患者さんを診るために診察室へと去っていきました。

羽尾先生は、自分がこの患者さんをあきらめていたんだと、呆然とした気持ちで悟りました。

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