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写真の中に“自分”を探す



「ヒトは他者の中に自分を見たがる動物である」

これは霊長類研究者の山極壽一氏の言葉である。ヒトは1400万年前にオラウータン、700万年にチンパンジーと別れ、その後、群れの中に「家族」を作るという二重構造の社会を進化させた。そして、家族は自分と他者の境界線を引いてくれる最初の存在であることは揺るぎない事実である。そして、写真は、写真機が発明されて以来、ヒトが古来より持つその欲望を満たしてくれる存在であり続けている。

僕は家族の写真に昔から強い興味を持っている。そして、娘を授かってから、祖母と娘の写真ばかり撮ってきた。その中で、ポートレート以外に祖母の「物」と娘の「物」を撮り続けている。冒頭の一連の写真は、祖母の物と娘の物を写したものだ。これはあらかじめ撮ろうとしたわけではなく、ある時不意に目が止まった時に、自然光の中で手持ちで撮影した物ばかりであり、そこに本人は写っていない。家族のポートレートであれば撮るのは自然なことだと思う。しかし、なぜ祖母が使う日用品や娘の玩具を写真に残すのか、なぜ興味が惹かれるのか、という疑問をずっと持ち続けてきた。その答えを、家族の記録を残すこと、という被写体に対する眼差しにだけ求めていた。

あるとき、文頭に記述した山極氏の言葉に出会った瞬間、僕の中で被写体への外部への視点から、写真を撮った自己という内部の存在にフォーカスしていった。
そして、なーんだ、僕はずっと写真の中に「自分」を探していたんだ、という、そんな単純明快な答えにたどり着いた。

撮るという外部に向けた眼差しで生まれた写真、そして、そこで生まれた写真が今度は自分自身に問いかけているという知覚の変化。そこには物に対する思い出や時間が内包され、視覚だけでない五感すべてを働かせてくれる。網膜への視覚的な刺激が、体性感覚である肌感覚すら想起されるという写真のシステム。この写真がもつ特有のシステムに気付いた時、写真を撮った僕は、祖母にとっての孫であり、娘にとっての父であるという、自分の実存を強く意識させてくれる。

そして、この気づきは自分の写真に対する関わり方を少しずつ変えていく。僕はプロのフォトグラファーでも写真家でもない。ただ写真という表現が好きなだけだ。だからこそ、自分の人生を土台にした写真だけを撮りたい。そんな風に思えたら、シャッターを押す人差し指の戸惑いや迷いが消えていく。
僕は、自分自身の為に写真を撮っている。

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