常に無理をしていると自分は無理はしていないと思うようになる

小さい時になにかに夢中になった経験は誰でもあるだろうと思う。

小さい頃は昆虫が大好きで買ってもらった図鑑を毎日何回も眺めているうちに初めて見る虫でも全部名前がいうことができるくらいにまでなったり、近くの森にクワガタを取りに行って見つからないために真っ暗になるまで同じところを探していたけれども結局見つからなかったこともある。

もし何歳になってもこのように自分の興味の赴くままのことだけをやり続けたとしたら周囲からはどういう反応を受けるだろうか。

多くの場合、親から何か言われるだろう。勉強しなさい、少しぐらい自分のことは自分でしなさい、規則正しく生活しなさい、などなんでもあり得る。

これに加え、学校という場、特に日本の場合最大限平均に近づき他の人と異なることをやってないことが要求されるため、成績が悪ければ言われなくても肩身が狭い思いをすることになるし、中学にもなると部活に入らないと”帰宅部”という蔑称を与えられて一段低い生徒扱いされたりすることもある(なぜか帰宅部は暇だから部活やっている生徒の代わりに掃除しろとか言われることもある)。

このように親や世間の常識を”社会の常識”という絶対的なゴールドスタンダードで疑う余地もないものとして設定し、どれだけここから離れていないかが社会に適応している”普通の人”かどうかという基準となっていく。

しかし、元々時間にルーズで本を読んだり自由な時間に外に遊びに行くようなタイプだと好きなことはいくらでもできるが、規則正しく決められたことを決められた時間にやることが非常に苦痛なタイプも存在する。

しかしその度に教師に怒られ、親にも怒られ、他人と比較しても自分が平均的な動きをしていないことに気がつくようになると、できるだけそれに近づこうとする、あるいはそうなれない自分は”普通の人”でない社会に適応できない人間だ、と悩むようになる。しかもこれは何歳になっても周りからも延々と言われ続けることとなる(経験済み)。

このように頑張ってなんとか人並みの生活を送ろうと努力して勉強をしたり、努力して人と同じことをしようとすることを幼いころから続ける、あるいはそれを強制されているのが普通の状態になると、その考え自体が定着しそれ自体が自分の考えである、と認識するようになる。

テレビで中堅以上の芸能人などがひな壇に並んで厳しいことを一言申す、みたいなシーンを時々見るが、これなどは”業界の掟”とか”社会の常識”を自らも最初は辛かったものに同化服従しているうちに慣れて苦痛度が減ったためにまだそこまで麻痺していない人に対して物申しているのであろうが、これ自体はそもそもそんなに自然なことではない。

このように本来完全に原始時代の自然状態であれば不自然でやらないであろうようなことを”社会に順応する”という理由で日々我慢をしながら適合させていると結局それ自体が普通の状態となり、我慢しているという意識は全く無くなっていく。

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