ポピュリズムと絆

最近ポピュリズムという言葉をよく聞く。

Encyclopaedia Britannicaによると、ポピュリズムという言葉は元々は政治的・経済的なエスタブリッシュメントなどの所謂エリートに対して一般の市民を社会の主役としてその権利や利益を要求する運動を指していたが、現在ではむしろその権威的な政治形態を指すようになっているということである。

具体的には、” a charismatic leader who appeals to and claims to embody the will of the people in order to consolidate his own power”(上記より)とあるように、ある特定のカリスマを持つリーダーが自己の権威・権力を強化するために市民の権利や要求を利用するような形ととることを指しているようである。こう書くといくらでもその例は頭に浮かぶのではないだろうか。

このような例は政治家に限らず、大規模な詐欺などで捕まるビジネス関係の人や新興宗教の教祖などある集団を熱狂させて支持を得るような人の存在は歴史上数多く経験されたことでもあろう。

話は少し変わるが、かつて阪神淡路大震災の時に特に話題となり東日本大震災などその後の自然災害などでも引き続き注目を集めている、自発的なボランティアの大きな動きは”絆”という言葉とともに度々目にすることがあるであろう。

このような人々の自発的な善意の行為は近年の経済や効率のみを重視した乾いた人間関係を嘆く風潮の中で大きな希望のように度々報道され絶対的な善という形で報道されることも多い。

このような”集団的な”熱狂や善意はどういう機序で起こっているのだろうか。そしてそれは今を生きる我々としてはどのように受け止め評価すべきなのだろうか。少し精神的な側面から考えてみることにした。

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