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俺とサッカー

なんていうか、俺自身のサッカーについてのクロニクルを書いといた方が良いのかなって思ったので何となく書いてみる。とりとめが無いかもしれないけど、まあ、そこんとこは元々浅薄で適当な俺のことなので、お許し願えたら嬉しいな。

なお、俺自身のトータルな自己紹介(のつもり)はこちら。併せて御一読願えたら。

サッカーにお近づきになったきっかけ

ん~・・・。これがハッキリとは覚えてない。小学校高学年の頃にサッカー部(というより、サッカークラブ)にいたことがあるので、これよりは前ってことになるんだが。
ただ、当時の何かの飲み物(お酒の類ではない。いわゆるソフトドリンク類だと思う)に於けるキャンペーンで、あのディエゴ・マラドーナが出てくるのを目にして。

ああ、この人、カッコいいなあ!

・・・などと単純に思ってしまって、で、当時の友達と連れ立ってサッカー部(クラブ)に入ることになって。
今思うとマラドーナは野暮ったいだけのおっさんに成り下がってしまったように思っているが、あの当時のマラドーナはカッコよかった。
ともあれ、野球の王や長島に憧れるみたいな感覚で、マラドーナに軽く憧れてしまった結果、サッカー部と称するところに入った。サッカーシューズとかまで買ったりしてね。
但し、部活動でサッカー道に邁進するなんてことはなく、スポーツに殊更に力を入れてるわけではないような小学生の部活動なんてものはほとんどそうだと思うが、ほぼ遊び感覚。
試合になんかまともに出たことはたぶんない。田舎の小学校でも、うまいヤツはそれでなくてもたくさんいたしね。
野球部(いわゆるスポーツ少年団ですらできたのがわりかし最近)なんてない学校だったから、野球部に入れなかった運動神経のあるヤツらが集まってくるの。
そこいくと、俺っていわゆる運痴だからね。おみそになるに決まってる。じゃあ、さぞかしつまんなかったろ、って、そんなこともないんだよな。
友達と遊ぶことの延長線上に小学校の頃のクラブ活動ってあったからね。馬鹿言いながらサッカーという名の遊びを楽しんでいた。
この時にやっていたのは、競技としてのサッカーでは無く、素人のお遊びみたいな、言うなれば「草サッカー」と同義のもの。今でさえ、サッカーの何たるかなんて全くわかってないトーシローなのに、当時やっていたサッカー(と称する遊び)でそんなものがわかる方がどうかしてる。

中学校に入ると、運動の苦手な俺は、何故か理科に興味があるわけでもないのに理科部などという部活動に入ってしまう。
単純に部活動が嫌い(ちなみに俺の行った中学校では生徒は必ず何らかの部活動をしなきゃならなかった)で、暇そうな部活動というと、理科部というのがあるらしいぞってことになって、それで入っただけだ。

サッカーとは縁遠い生活をしていたが、いつだったかの体育の授業でサッカーがあって、おみそだった俺は、どういうわけかゴールキーパーに回されまして。タッパもないし、ガタイも大したことないのに。
GKというポジションに誇りを持っているような人には大変に言いにくいのだが、当時はGKなんてのは野球のキャッチャーなんかと同じで不人気ポジションだったので、結論から言うとおみそ扱いされてるような人間が回されるポジションでしか無かった。
で、じゃんけんに負けたか何かでGKに回された俺は、その時にFWやってたクラスメイトの誰かと交錯してしまったわけだが、その時に右の手首を捻挫してしまった。
しかもその日、そのことに気づいたわけではなく、夜になって手首が痛えなあ、などと気づいた始末。
結局、その後、医者に行って「捻挫ですよ」と言われたわけで、しばらく右手がメチャクチャ痛かった。
この右手首の捻挫が原因と思われる軽い脱臼癖が30代の半ば頃まで続いたのだから、油断はできないものだ。

・・・で、普通、こういう災難に遭ったら、サッカーなんか大嫌いになっちゃうと思うじゃない。

これがならなかった。何故か決定的には嫌いにならなかった。特段好きにもなってないけど、でもこの程度の災難で決定的には嫌いにならなかった。
それどころか、そのことが後年、自分とサッカーが紐付いていく端緒みたいな感じにもなるのだけど。
素人にうっすらと毛の生えたような経験しか持っていない俺が、だ。

薄いサカヲタの前夜

さて、高校~大学時代。サッカーとはまるで縁遠い生活が続いていた。高校に至っては、文芸部などという、スポーツとは無縁な部活動に幽霊部員同然に籍を置いた。
サッカーと言えば、せいぜい年に1度のトヨタカップを楽しみにする程度。だから、そこに出て来る選手はそれなりに知っていたが、日本のサッカー選手なんてほぼ知らなかった。

大学なんて、平塚に住んでいたのに、だよ。今なら湘南ベルマーレがホームを構える平塚にだ。
サボりまくっていた不良大学生だった俺は、大学なんてほとんど行かないで遊んでばかりいた。
その時、平塚球場にも行ったことはあるが、平塚競技場、今で言うところのShonanBMWスタジアムになんて、全く行ったことがなかった。
平塚球場に行った時は、たまたまそこでやっていた横浜大洋ホエールズの二軍の試合なら見たけど、隣の競技場に足を伸ばしたことなんか無くて、だから、当時のフジタのサッカー部なんて見たことなんかもちろんない。
平塚にベルマーレ平塚という名前のチームが本格的に勃興したのは、俺が大学をドロップアウトした後の話だ。
だから、当時は大神にグラウンドがあるなんてことも知らなかった。大神とか、今ベルマーレが練習に使っている馬入なんてところは、自分が当時住んでいた場所(むしろ大磯とか二宮の方が近い)とは真反対の茅ヶ崎寄りにあったので、そんなところにはほとんど行かなかった。
今考えると、何ともはや勿体ないのだけど、俺は3年余の平塚在住歴を、ほとんど無為に過ごしていた。

そんな俺は、結局、大学をドロップアウトして地元に帰ってきてしまった。1990年(平成2年)の話だ。
当時はというと、目標らしいものもなく適当に生きていたが、当時の友人たちとバスケットボールなんてやっていた。また、何でそんな俺に似合わないスポーツを、と思われるだろうが、とりあえずやっていた。
当時は、女の子たちともそれなりに知り合っていたが、単純に知り合っていただけだった。そこにいた女の子たちとついぞ仲良くなることは無かった。

Jリーグ開幕とドーハの悲劇、ベルマーレ平塚、そしてバードスタジアムが決定打に

そんな中で、1993年にJリーグが始まった。

今でこそ「来ないでさん」として、ある特定の方面から親しまれている(止めろ)Jリーグキングというこいつを当時はオンタイムで見ていない(だって、この日もバスケやってたし。毎週土曜に集まってやっていたのだ)のだけど、いずれにしても、Jリーグが始まった。

別に新しもの好きってわけでもないけど、サッカーというスポーツに元々シンパシーを抱いていた自分の中で何かが弾けたような気がした。
その夏にサンフレッチェ広島が浜山公園陸上競技場にやってきて、アルゼンチンのインデペンディエンテというチームと試合をしたのを見に行っていたりする。古い話なのと、当時カメラなんてものを所有はしていたが、フィルムカメラであるが故にろくに使っていなかったので写真などない。

そして、そんな時にあのドーハの悲劇を見てしまう。

俺はこのテレ東版でなく、NHKーBSで見ていたと思うのだが、この試合を見たことで、俺の中では、サッカー熱らしいものが奔流になったと思ったりする。
それほど、このドーハの悲劇というのはセンセーショナルな出来事だったわけだ。これ以前にもJリーグ中継は録画を欠かさないようにしていたけど、このドーハの悲劇以降、より本格化したと思う。
野球とかバスケとか嫌いな方でもなかったが、正直なところ、最低限の興味しか持てなくなっていった。それらの競技を腐したいのではない。自分の中でのそれらについての優先順位が確実に下がったことを言いたいだけだ。

それほどJリーグの誕生(及び開幕)とドーハの悲劇というのはエポックメイキングな出来事となった。
試合の録画は言うに及ばないが、サッカー関連の本を次々と買い漁るようになった。2大専門誌だったサカダイ(サッカーダイジェスト)だとかサカマガ(サッカーマガジン)などを毎号のように買った。
俺はどんどんサカヲタ同然のような状況になっていった。そしてもう1つの決定打がやってきた。

ベルマーレ平塚だ。

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先にも言ったが、大学時代に平塚在住だったことがあるので(2019年9月現在で、栃木SCの監督をやっている人よりは先輩らしい)、多少はその縁もあると思うが、まあ、それはそれ。
ベルマーレを好きになったのは、そんなことではない。どういうのか、あの頃から既に言われていた「湘南の暴れん坊」というキャッチフレーズが何となく俺の心を揺さぶってしまったのだ。

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このベルマーレ平塚が、JFL1部(驚いてはいけないが、当時はこれをJ1リーグと称していた)でジュビロ磐田を振り切って優勝を遂げた。
この時、得点王になっているデリー・バルデスがいた東芝は今で言う北海道コンサドーレ札幌だし、大塚製薬は今で言う徳島ヴォルティスだし、富士通は今で言う川崎フロンターレ。ヤンマーは今で言うセレッソ大阪、東京ガスは今で言うFC東京であり、藤枝ブルックスは今で言うアビスパ福岡。京都パープルサンガは今で言う京都サンガF.C.だ。
かくして、2位だったジュビロ磐田と共に、ベルマーレ平塚はJリーグに殴り込んできた。この年に昇格が叶わなかった元ナポリのカレカを引き入れた柏レイソルは、翌年晴れて昇格している。このチームにもそれなりのシンパシーを持っている(広島での天皇杯で柏レイソルのゴール裏に混じったことすらある)のだが、まあそれはまた別の話だ。

その開幕戦は、前年のセカンドステージ王者にして年間王者でもあったヴェルディ川崎との一戦だった。その試合は・・・

ヴェルディ川崎 5-0 ベルマーレ平塚

・・・という惨憺たる結果になった。この試合をテレビでも観ていたが、気持ちの言い負けっぷりですらあった。大敗こそしてしまったが、何故かこう悲壮感みたいなものは全く感じなかった。
それが、この年のセカンドステージ終盤に当たった時には逆に一泡吹かせるまでになっていた。

俺はこのベルマーレ平塚がとても好きになった。先程も言ったように、そのキャッチフレーズから想起されるチームカラーに惚れてしまったのかもしれない。

ベルマーレの試合は、ベルマーレ平塚時代にも見たことはあるのだが、むしろ湘南ベルマーレになって(というか回帰して)からの方がたくさん見ている。

そして、そのきっかけを作ったものが、最終的な決定打になっている。

鳥取市営サッカー場バードスタジアム、今で言うところのとりぎんバードスタジアムだ。

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1995年のJリーグセカンドステージ(NICOSシリーズと呼ばれていた)のサンフレッチェ広島戦を初めて見に行った。

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これでも一応ベルマーレ側にいた。この時はしかし、まだサポーターに混じって応援なんてことはしていない。だが、ベルマーレ平塚に声援を送っていた。彼らの奮闘にエキサイトした結果は、某大臣が言うところの圧勝・・・だったら良かったが、惜敗だった。

Jリーグ
ドーハの悲劇
ベルマーレ平塚
鳥取市営サッカー場バードスタジアム

こういう4つの決定打が揃って、俺のサッカーへの情熱を掻き立てていったのだ。
島根県の中部から鳥取市に行くのは、今でこそ道路事情が格段に良くなったものの、その当時はむしろ地獄と言っても良かった。山陰道なんて無かったし。だから、下道オンリーしか無かった。
国道9号を夜走行すると、怖いよ。本当に。寂しいよ。魚見台とか今でこそ走ることは無いと思うけど、あんなとこ、昔はごく当たり前に走ってたからね。鳥取市内に着くとホッとしたものだよ。で、バードスタジアムが見えてくると、それだけで嬉しくなった。そういう時代があった。
既にS後述するSC鳥取を知ったあとの2003年に行った天皇杯の湘南ベルマーレと清水エスパルスとの対戦は、あらゆる意味で印象深いものとなった。
まず、出がけから大雪に見舞われ、米子で少し休憩して、夜通し国道9号を走り倒し、当時は青谷~はわい間だけ山陰道があったので、そこを抜けて例の魚見台に差し掛かると融雪設備がバリバリに効いていて一気にホッとした覚えがある。
だが、鳥取市街に入ろうとしたら、また雪模様になり、それでも倉田に着いて仮眠した時はものすごく安心した。
で、バードスタジアムに行ったら、中で雪かきしてるんだもの。挙げ句にキックオフはディレイになってるし。試合は清水が僅差で逃げ切るし。
でも、応援はとても楽しかった。湘南サポの本体は当時の雪に弱い道路事情のせいもあって、試合開始に間に合わなかったが、でも力強く応援していたと思う。
俺も当時は身体が普通に動いたし声も出せたので、お手伝いさせていただいた。本当に楽しかった。吹雪が顔を直撃し続けて痛えの何の。でも、その痛みすらもどうでも良くなるほど、その場での応援は楽しかった。結果が伴えば尚更最高だったが。
この3年ぐらい前の松江でもベルマーレを見ていて、この時は天皇杯の1回戦だったせいか、来ていた応援の人々もグッと少なかったが、遠慮がちに応援に加わらせていただいたら、試合に勝ったことも手伝ってか、喜んでいただけた。
どちらの試合でも大変に楽しかった。(程度はともかく)応援に加わらせていただいて、本当に感謝している。

そして、俺をこのサッカー沼に引きずり込むべく、決定的に駄目を押したのが、SC鳥取だった。今で言うガイナーレ鳥取である。

SC鳥取/ガイナーレ鳥取と出会って、俺は自分を見出すことができた!

きっかけはここら辺り(俺が初めてnoteに書いた記事)に書いてる通りなので、いちいち細かくは繰り返さない。だから、適宜読んどいていただければ嬉しい。

何て言うのか、SC鳥取やその後継であるところのガイナーレ鳥取、更にはファミリーチームとして現在では存在しているSC鳥取ドリームスは、俺にたくさんのことを知らしめた。

最初のうちはSC鳥取も、強く言えば向上するもんだろう、という感じで言っていたが、後年になって、それでは逆効果というか、やはりダメだと思うようになっていった。
特に自分がした脳梗塞という病気が、それを思い知らせるのに一役買っていた。脳梗塞では予後にたくさんのリハビリとしなければならない。そこで、いろいろ強制されたりとか、そういうのはあまり好ましくないことを痛感してしまった。
当たり前の話で、自分がしなきゃいけないリハビリに、部外者がああだこうだと嘴を挟むこと自体おこがましい。
それと同じことで、だいたい、素人が仮にもサッカーで必死に戦ってる連中を捕まえて、一端の玄人じみたものを言っても、所詮は付け焼き刃の中身の薄いだけの言葉なので、すぐにボロが出てしまう。
そのことに気がついていったので、次第に論調が変わっていった。選手を責める前にもっと別のことがあるだろうと思うように鳴り始めた。まあ、それはもう少し2013年以後の話だが。

その当時、GAINA-ALLEZ!なんて、わりと小っ恥ずかしいタイトル(だったら今そのタイトルをまた復活させんなよ)の応援サイトのようなものをやって、ホームページビルダーでいろいろやっていた。
そこではいろいろ無責任にチームに対してあれこれ言っていたと思う。その怖いもの知らずぶりもさることながら、大方の物言いが素人のくせに軽率だと思うし、馬鹿だなあ。ホント馬鹿。

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ね。こういうの作って。馬鹿だよね(ていうか、その昔、Sleipnirの1.66とか使ってたのよ、俺。当時はあれが最高にイケてるブラウザだと思ってたから)。

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サポータ向けの掲示板を共同運営したりとか、暇に任せてPCサイトとケータイサイト(と呼ぶにはあまりにも申し訳程度のものだが)を作ったり。
まあ、いろいろやった。但し、2009年にいろいろあって軽くぶっ倒れてしまった(今思うと、上の写真のFC刈谷戦の頃から何かおかしかったのかもしれない)ので、自分が(不祥事を起こしたとかそういうのではなく、単に先述の通りに身体の具合との兼ね合いだった。実際、2009年の後半はあまり試合に行っていない)いろいろ活動を少し自粛せざるを得なくなってしまった。
で、それに伴ってこのサイトの運営がままならなくなったので、ブログだけの体制に移行した。

その後の2010年には本格的に観戦態勢を復活させたが、その年の夏に、うちの親父が亡くなり、2ヶ月程度服喪させていただいた。その後、久々に行ったのが、2010年9月のSAGAWA SHIGA FC戦だった。

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この試合のほぼ1万人のうちの1人となった俺は、何かものすごく感激していた。
思えばこの約6年前の夏。同じバードスタジアムで、Honda FCと対戦して、2-1で勝っているのだが、この時に集まったのは400人足らずしかいなかった(写真はないが、その試合も俺は見に行っている)。
それが年月が流れ、Jリーグに手が届こうかって時に約1万人の人を集められるまでになったのである。
そして、その後もガイナーレ鳥取は勝ち進み・・・

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2010年のアルテ高崎戦でJFL4位以内をまず確定させ、そして・・・

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雨の東山での栃木ウーヴァ(現・栃木シティ)FC戦でJFL優勝をも決めて、Jリーグへの参入障壁をクリアしてみせた。

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こうして、Jリーグへ参入できることになり、その記念試合が行われた。場所は、もう今はガイナーレ鳥取の主催試合が行われることのなくなった、元祖聖地・東山(どらやきドラマチックパーク米子東山陸上競技場)だ。

東山にはありとあらゆるものが詰まっていた。喜怒哀楽、それら以外にもいろんな感情が混ざり合っていた。俺も、その全てではないにしろ、いくつかの感情は受け止め、感じ取りながら、そこの応援席にいた。おっさんの坂を上り始めていた頃の良い思い出だった。
その頃はまだ喫煙者だったので、試合が終わったあとなど、玄関脇の喫煙スペースでタバコを吸いながら、ああでもないこうでもないと、試合についてあれこれ言い合っていたっけ。
時々、あの時代が懐かしくなることがある。俺がサッカーに出会っていなければ、そんなことを思うこともなかったかもしれない。

今はガイナーレ鳥取も苦闘の真っ最中で、なかなか安楽な未来図は簡単に描けないのが事実としてある。

このマガジンにも毎試合のように載っけてる俺のしようもない回顧記事が示しているように、厳しい1年ではあるだろう。

だが、その事実を前に折れたくはない冗談じゃねえ誰がケツなんかまくるもんか・・・って思う俺がいる。何故かこういう時になると、妙に反骨精神みたいなのが湧いてきちゃうんだよな。あれは何の作用だろう?

そんな気にさせてくれるのも、SC鳥取やガイナーレ鳥取だと思う。ガイナーレ鳥取に関しては、この他にも駄文ばかりをnoteにこれでもかと寄稿し続けているので、折に触れてお読みいただければ幸甚だ。

FCセントラル中国~デッツォーラ島根ECもまた、俺にとっては大事なチーム

このSC鳥取/ガイナーレ鳥取から少し遅れて、FCセントラル中国~デッツォーラ島根ECにも強く肩入れしていくようになっていくのだが、またそれは別のお話。
知りたい方は、この辺りをお読みいただくと良いだろう。あのチーム、わけてもその代表を務めてこられた故・若三康弘さんには、一言では言い表せないほど大きな影響を受けてきたので。従って、ガイナーレ鳥取とはまた一味違う思い入れがあったりするのだ。

このチームが俺にもたらしたものはいろいろ大きいと思う。SC鳥取~ガイナーレ鳥取とは違う類のものを得た。

そりゃ、若三さんは酒が好きでどっちかと言えば面倒くさいおっさんだったけど、あの人、情熱だけは誰にも負けなかった。それを理解しない人もいたとは思うけど、あの人はそれで良いんだって思う。今でさえね。

このチームが負けてもやはり悔しい。それも、SC鳥取やガイナーレ鳥取の時にも感じる、強くて独特の悔しさがある。
あのムチャクチャに強い悔しさの正体が何なのか、自分には今以てわからないでいる。
ただ、若三さんがそうであったように、「Hot Blooded」なんだろうなって思ってしまう。うまく説明はできかねるんだが、とにかくそういうことなのだろう。語彙力が乏しいのでそうとしか説明のしようがない。

いずれにしろ、このチームもまた、俺のサッカー史を彩る大事なチームの1つだ。

終わりに

他にも、そういう自分史のなかで重要な位置を占めて行くであろうチームはこれからも出てくると思う。

特に、SC鳥取/ガイナーレ鳥取のところで触れるべきだったかもしれないが、SC鳥取ドリームスも「楽しさ」を改めて問うてくれた存在だし、今も問うてくれている存在として、今後も気にかけていきたい。

ここまでざっと、かなりアバウトにサッカー自分史を振り返ってきた。正直なところ、あと何年生きてられるかは知らない。最近、ちょっと不安もあるからね。

ただ、もう少しだけ、サッカーに寄り添っていたいかな・・・とは思う。別にそうして何も得なことはないかもしれないけど、俺の人生(のうちで、特に後半生)で重要なポジションを占め続けてきた、この愛すべきサッカーというスポーツに、多少なりとも恩返しみたいなことができたらな・・・って思うことはある。

俺が死ぬまでに、あと何年ぐらい生きられるかは知らんが、ちょっとでもそれができたら嬉しい。

音楽とか他にもたくさんの好きなものはあるつもりだ。でも、サッカーは俺にとって、音楽と並ぶ一生の大事な友達だと思ってる。それでいいんだ。誰にも否定なんかさせない。俺はサッカーと音楽が生き甲斐みたいなものだ。

なんかわりと中途半端なものにしかできなかったように思うけど、それが俺の文章力ってものだから、まあ、諦めて読んでくれたらいいや。
バズったりすることなんか、これっぽっちも考えてないし。俺はこうやってアウトプットしたいだけなんだ。その結果がどうなろうと、俺はどうでも良いんだ。
ただ、読んでくれた人の中に「あのバカ、なかなかやるな」ぐらいなことを思ってくれる人が1人でもいたら、それでいい。

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基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。