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わからないことに向き合う ー「范の犯罪」を読んで思っていることー

本当にわからないことに出会った時、どうすればいいのだろうか。志賀直哉の「范の犯罪」を読んで思ったことである。

あらすじは作中に書かれていることを引用する。

范という若い支那人の奇術師が演芸中に出刃包丁程のナイフでその妻の頸動脈を切断したという不意な出来事が起こった。若い妻はその場で死んでしまった。范はすぐ捕らえられた。
現場は座長も、助手の支那人も、口上言いも、なお300人余りの観客も見ていた。観客席の端に一段高く椅子を構えて一人の巡査も見ていたのである。ところがこの事件はこれ程大勢の視線の中心に行われたことでありながら、それが故意の業か、過ちの出来事か、全くわからなくなってしまった。

このあらすじが示すように、范が妻を故意で殺したのか、過失で殺したのかわからないという問題を軸として物語は続いていく。この妻の死のわからないをわかるようにするために裁判官が登場し、目撃者たち、そして范本人に尋問をしていくのであるが、まずは范が所属していた座の座長の証言である。

座長は范が行ったナイフを刺していく演芸について、難しくないと答える。しかし、難しくないといっても「あれを演ずるにはいつも健全な、そして緊張した気分を持っていなければならない」とも答え、過ちが起こる可能性があることを示唆している。さらに座長は、過ちが起こる可能性があることを、今回の范の失敗を見て初めて感じたらしく、同業者として、その失敗を批難することはできないと答える。そして、裁判官の故意か過失かの問いについて座長は「私にはわからないのであります」と答え、座長への尋問を終える。

続いて裁判官は、范の助手の支那人に尋問を行う。助手は、范とその妻の素行の良さを話し出す。それと同時にあれほど素行の良い2人は、2人だけになると不仲であるということも話す。この不仲であることを知る助手は范の失敗を見たとき、「殺した」と考えたと裁判官に伝えるが、その「殺した」と思ったことも私が2人の不仲を知っているがために思ったことであって、事実、この演芸の口上言いは「しまった」と普段の2人の仲を知らない人は思うのだから私の考えはあくまで私の個人的見解だということを裁判官に伝える。

裁判官は明確な答えが得られないまま、最後に范本人と尋問を始める。
范は妻と不仲であったことを認め、妻について「死んでしまえばいい」と思ったこと、「殺してしまおう」と考えたことを認める。殺さず逃げるという選択肢はなかったのかという裁判官の問いについても、范は殺すと逃げるのでは「大きな相違」があると答える。このように范には殺意があったことを認めているが、事件当日は妻との喧嘩からくる怒りや憎しみやらでよく眠れなかったらしく、いつも通りのような精神状態ではないままに演芸を向かえてしまう。そして、ナイフ一本ずつ投げることに危険を感じながら、自分の感覚もわからないままにナイフを投げ、その結果、妻を殺してしまったという。殺したい瞬間、范自身は「故意」で殺したと感じたが、瞬時に「過失」と見せかけることが出来ると思い、「過失」と見せるために全力を尽くすことを決めたと裁判官に正直に話す。そして、最終的に范自身にも自分が故意に殺したのか殺していないのかわからない自分の心が全てだとよくわからないことを言い、自分の心が思うにどう考えても自白は存在しないと答え、「無罪」を主張して、尋問を終える。

最後に范を部屋から追い出した裁判官が、「無罪」と紙に書いて話は終わる。

わからないことに向き合う

ここまで話をなぞって書いてみたが、何度読んでも意味がわからない話だ。この作品を読んだことがない人は話がつかめないかもしれないが、何度読んだ私でも意味がわからないことがたくさんだ。その最たる例が、范の「無罪」である。なぜ、裁判官は「無罪」にしたのか、この謎が「范の犯罪」を面白くしているとも思うが、一体なぜなのか。ここで私はわからないことに向き合う姿勢について考えてみた。

范の「無罪」同様に私が生きている社会にはたくさんの答えがわからない問題が用意されている。それはたとえば、人間関係でどのようなリアクションを取るか、つまり、空気を読むのように代表される抽象的なものが挙げられるだろう。人の心など十人十色なのだから正しい答えなんてあるわけないのに正解を探さなければいけない。正しいマニュアル通りの謝り方、接し方をしたとしても型にはまりすぎであるとか少し砕けた謝り方をしてももっと反省しろとか言われてしまうのだからやりようがない。そんな理不尽に呆れる時に、范の「無罪」を思い出す。何で范は無罪になったのだろうかと。范の供述の中で、気になった言葉がある。それは「どうしても無罪にならなければならぬと決心しました」という言葉だ。
范が自分にも「故意」か「過失」かわからないと迷ったとき、彼は「決心」をした。それは「無罪にならなければならぬ」という決心である。倫理的に人を殺して無罪になろうなど言えば、現在ではSNSで袋叩きにあうだろうが、私には「決心」という言葉がとても心に響いてきた。范のように人を殺めてしまった訳ではない、私自身は人に流される人生を過ごしてきた。自分で決められずに他人の顔色を伺い、その場にいても気づかれないような空気のような存在であることがしばしばだった。何も言わないから数には入るが、心からのやりとりをその場でできているとは自らが感じられなかった。そんなときにこの范という人は妻を殺しておきながら、自分は無罪にならねばと「決心」したなんて私は口が裂けても言えない。そんな彼に少し嫉妬を覚えてしまったのだろうか。自分にもわからなくなってきた妻の死という事象を、自分が思うがままの解釈で突き進もうとするなんて傲慢極まりないのにどうしてだろうか。それは、私が自分自身を押し殺して生きてきたように感じているからだ。自分を押し殺すことも自分で決めることなのに押し殺されていたと自分で思っていた。自分で自分の生き方を決められるのに、その決心がついていなかったのだな。だから、思う。わからないことに向き合った時は、自分が納得できるまで突き詰める。そして、本当にわからないこと、答えが見つからないことに出くわしてしまったときは、わからない気持ち悪さも引き連れて生きていくしかない。自分が心に決めたことを、決心したことを他人からの横やりで捨てるようではいけない。失敗しても、愚直に走り続ける。馬鹿な自分が得意なことじゃないか。相手に合わせることも大事だと思うけど、度を過ぎてはいけない。自分の決めた心を受け止める強い心を持ちたい。その心を、妻を殺してしまった范は持っていた。自分の思ったことに向かって突っ走る、范の言葉を借りれば「本統の生活」を生きること、これが人生の指針だ。

「本統の生活」についても「范の犯罪」を読んで、思い考えたことなので、読んだことがある方や「范の犯罪」を知っていると話し合いたいです。じぶんの内なる熱い思いを感じられるのが文学作品の魅力の一つです。

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