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宝くじが当たった話。

宝くじが当たった。

当たったと聞いて、「何億」とか「何千万」を想像するかもしれない。

私だってそう思う。

しかしながら、当たったのは「10万」だ。

たかが「10万」、されど「10万」である。

この「10万」の当選が私にどれほどの力を与えてくれたか。

それは私しか知らない。当然だ。

他人の心なんて見えないし、自分の心の内だってわかったつもりでいてわかっていないものだから、私しか知らないことは尊いのだと思う。

宝くじが私にくれたもの

さて、たかが「10万」が私にくれたものの1つは、単純に嬉しさだ。

宝くじを初めて買い、当たったという純粋な嬉しさに握り拳を突き上げた。競馬をしても全く才能がなかった私には博打の才能はないと思っていたが、そんなこともないのではないかと思えた。

無論、博才を競馬一度きりであるとか、宝くじが一度当たったとかで判断するには材料が少なすぎてお話にならない。

ならないが、私が私を博才ありと判断するのならそれはそれでよいし、博打をしまくれるほどの心を持ち合わせていないことを私自身理解しているので、今回は宝くじが当たったことを心から喜びたい。やったぜ。

そして、もう1つ「10万」が私に与えてくれたものがある。それはある事象には複雑な物事が絡みあって出来ているということだ。

何を難しく考えているんだとお爺ちゃんに叱られそうだが、この「10万」GETも複雑な物事が絡みあって手にした代物だ。いや、実際にはまだ手にしていない。当たりくじがあるという事実だけだ。完全に浮かれている。けど、今はそれでいい。

まず、宝くじを買うという行動を取ったのは祖父からの「宝くじ買ってきて」という命令からだ。1万5千円分の宝くじを買ってこいという指令が私に下され、買いに行ったことが「10万」の始まりだった。

「お爺ちゃん自分で買いに行けばいいじゃない」という声が聞こえそうだが、祖父は父に買わせた宝くじで「100万」を当てたことがある。その当たりくじを買ったのが地元滋賀以外の大阪であったため、今京都に住んでいる私に白羽の矢が立ったのだ。祖父の成功体験を基にした作戦が今回もはまった形だ。

この祖父の「買ってきて」から始まった「10万」だが、祖父だけが「10万」に導いた訳ではない。もう一つ重要な要素、ファクターが存在していたのである。それは、宝くじを買う日に彼女と会っていたことだ。

彼女を京都駅に送るタイミングで宝くじを買ったのである。そして、「10万」が当たったのだ。

あの日はお昼頃に京都駅へ彼女を送りに行ったような気がするが、けっこうな人が宝くじという運試しのような神頼みのようなものを買い求めていた。。その中には、宝くじに人生をかけて買った人もいるかもしれないし、当たれば彼女にプレゼントを買ってやろうと意気込んでいた人もいたかもしれない。

そんな大勢の人たちとの順番も合わさってか、この「10万」が当たったのである。

この前々日くらいにも宝くじを買いに行こうと思ったが、結局財布を忘れて買えなかったことも思い出し、本当に様々な要素が絡み合ってこの「10万」があるわけだ。

と考えると、本当に毎日の一秒一秒は奇跡の連続ではないかと思えるのだ。突飛な考えに聞こえるかもしれないが、本当にそうだ。この「10万」は、祖父、彼女、赤の他人、私が財布を忘れて宝くじを買えなかった日があったりして巡りあった奇跡だ。

何かすごいこと、例えば全国大会優勝とか競馬で万馬券が当たったとかが奇跡オブ奇跡のように言われそうだけれど、それだけが奇跡って訳じゃない。そうじゃないと思いたい。

自分が当たり前のように生きていること、衣食住不自由なく悩みは尽きなくとも生きていることが奇跡である、そう思いたいのだ。辛いことや嫌なことがあると誰かを恨んだり自分を呪ったりしてしまうのだけれど、一度自分が今生きていることが奇跡なんだということを認識することでそういった負の感情とも向き合っていけるような気がする。

そんなことを思っている内にどこからか声が聞こえてきた。

「考えすぎだぞ」

たしかに、そうだ。深刻に考え込む癖が私にはある。

たまたま、偶然、通りすがりの「10万」について深く考えず、喜んでいればいいものを、綺麗事にしてしまうのが私だ。このままの深刻さ加減では身がもたないかもしれないから、今回は「10万」を素直に喜びたい。そして、この「10万」で美味いものでも食べようじゃないか。家族皆で。

その決定権は祖父にあるのだけれどね。

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