キドカラー大道

1984-1989まで存在した「たけし軍団セピア」構成員&逸脱者。ビートたけし4代目ボ…

キドカラー大道

1984-1989まで存在した「たけし軍団セピア」構成員&逸脱者。ビートたけし4代目ボーヤ(1985-1988)。軍団内で反主流派。昔の事しか語りません/現在スーパー素人/FRIDAY襲撃の先頭者/気まぐれでClubhouseで『希土色Room』をやってます@kdcl

最近の記事

ビートたけしと縁深き男島崎俊郎「アダモステ」のモデルとは。

12月の6日に「アダモステ」で知られた島崎俊郎さんが亡くなった。マスコミはこれに関して周辺情報を提供したが、彼が最も活躍した1980年代の情報はネットで収集が難しいためか「なんにも知らないんだなあ」と呆れた。ただしそんなものと思っていたので落胆はしなかった。 俺は島崎さんにボーヤ時代お世話になった。あまり知られていないようなのだが、実は島崎さんほど1980年代のレギュラーとして最盛期のビートたけしと共演したタレントはいない。レギュラーで3本だ。 『オレたちひょうきん族』(1

    • 近年のビートたけしの大きな変化

      ここ10年ほど殿(ビートたけし)には大きな変化が起こっている。——といっても一般の方々には全く気にならないことだと思う。 しかし俺からすると「起こるはずのないことが起こっている」印象なのだ。 ——まず2015年のTBS年末ドラマスペシャル『赤めだか』での立川談志役、そして2019年の『いだてん〜東京オリムピック噺〜』での古今亭志ん生役だ。もし10年も若かったら絶対に引き受けない。 「いくらなんでもできるかよ」といって断る姿が目に浮かぶ。しかし殿は同時に「やれるとしたら俺しか

      • 盗まれた名前『浅草キッド』

        前口上 昨年末にNetflixの『浅草キッド』が大ヒットしたが、ご存知の通り、この作品と同じ名の漫才師がいる。だが実は当のビートたけしは彼らにその名を与えてない。今回はこの機会に「なぜそんな事態になったのか」を記す。恐らく当の本人達も知らなかったであろう場面と経緯も織り交ぜ、ほぼすべての場に立ち会い、そこで見た事実を書く。 フランス座修行の復活と「ミスター“浅草キッド”」 ——1986年、俺はビートたけしの専任付き人“ボーヤ” 2年目に入っていた。かたやたけし軍団の二軍

        • Netflix「浅草キッド」〜“世話になる”ということ〜

          12月9日17:00に待望のNetflix新作「浅草キッド」が配信された。まずこの日は忘れもしない35年前の未明、フライデー襲撃事件があり、翌日10日は『たけしの挑戦状』が発売され「奇しくも」なのか「狙い」なのか、ともかく軽い興奮を抱えて鑑賞した。原作は1988年1月に発売された小説『浅草キッド』だ。 『浅草キッド』というフレーズは、1985年から民放各社の8時台番組全視聴率トップ獲得を達成し『ビートたけしバラエティ黄金期』と後に呼ばれるタイミングで登場した。自身のエッセイ

        ビートたけしと縁深き男島崎俊郎「アダモステ」のモデルとは。

          ビートたけしのバージョン違いとしての岡本太郎『太陽の塔』(AmazonPrimeVideo)

          AmazonPrimeVideoでドキュメンタリー映画『太陽の塔』を観た。 1970年に“人類の進歩と調和”を掲げ、半年間にわたり開催された『日本万国博覧会』通称『大阪万博』 50年の時を経て現在も残るのは岡本太郎作『太陽の塔』のみ。“人類の進歩と調和”のもと77カ国のパビリオンがひしめく天空にそれらを睥睨するかのようにそびえ立った『太陽の塔』に岡本太郎は一体何を込めようとしたのか。 この映画を観ながら私は「ああ、やはり似ているなあ」と感慨深く、それまでも漠然と感じてい

          ビートたけしのバージョン違いとしての岡本太郎『太陽の塔』(AmazonPrimeVideo)

          名曲ビートたけし『浅草キッド』俺が選ぶベストテイク(1986年TVサイズ)

          ビートたけしのアルバム『浅草キッド』は1986年8月15日発売。このアルバムには殿がアルバム用に作詞作曲した3曲(太字で表記)が収録され、そのうちの1曲『ロンリーボーイ・ロンリーガールC/W四谷三丁目』はシングルも同時発売になった。アルバムはチャートで上位に入り過去最高の売上を記録。シングルは31位まで上がった。 それ以外の曲は1985年2月以降にリリース済みの映画、TV、CMのタイアップシングルのAB面を収めたパッケージだ。 A面.   1.ロンリーボーイ・ロンリーガー

          名曲ビートたけし『浅草キッド』俺が選ぶベストテイク(1986年TVサイズ)

          消えゆく相互了解としての「洒落(シャレ)」

          7月21日、人気テレビ番組『水曜日のダウンタウン』のコーナー「リアル鬼越ドッキリFINAL」で俺の先輩のつまみ枝豆(タレント/株式会社TAP代表取締役)さんがドッキリ企画のターゲットになった。 仔細は割愛するが、ともかくネット上では枝豆さんに関する、過去に殿から発信されたもの、枝葉がついたものまで、武勇伝的なエピソードが掘り起こされ飛び交った。特に『フライデー襲撃事件』に関する部分では ・襲撃前に「あいつは危険だから連れて行くな」と殿が止めた。 ・事件を知って単独で殴り

          消えゆく相互了解としての「洒落(シャレ)」

          たけし軍団の命名と師匠のこころ

          「たけし軍団風の名前」との表現があるように、殿が新たなメンバーに成す命名は、ひとことで云えばどれもこれもくだらないふざけた名前だ。この習慣は、1984年年末の「一斉改名」以来始まったもので、それまでは本名であったり過去に芸歴を持つ者ならそのままの愛称(芸名)を用いていた。 俺は1984年12月初旬にオールナイトニッポンの出待ちで直訴、そこで立川談かんに世話になったが、次に会った年末には「俺は今はふんころがしだ!」と唐突に告げられ驚いた。そこで殿から「一斉改名」のお達しがあり

          たけし軍団の命名と師匠のこころ

          1986年明治製菓「LUCKY(ラッキー)」CM撮影

          ビートたけしの専属的スタイリストといえば日本の元祖スタースタイリスト堀切ミロさん(2003年没)であったが、それはTV出演時の話で、メディアやCMの撮影ではイメージやコンセプトがカッチリ決まっている場合が多く、大抵スタイリストも決まっている。 1986年の明治「ラッキー」のCM撮影もそのひとつで、スタイリストは北村道子さんだった。 ──俺は北村道子さんを知っていた。前年に観た森田芳光監督作品『それから』の衣装群が鮮烈で、エンドロールで確認した北村さんの名が忘れられなかった

          1986年明治製菓「LUCKY(ラッキー)」CM撮影

          ビートたけしの“業の肯定”。

          故7代目立川談志を愛する者なら“業の肯定”という言葉はご存じだろう。 俺がこの言葉を知ったのは、元立川一門であり1984年末の「軍団芸名一斉変更令」までは『立川談かん』の名で活動していたダンカン(ふんころがし)から、1985年3月25日に出版されたばかりの“『現代落語論』其二「あなたも落語家になれる」”を勧められてからだ。 ときに立川談志49才の著作。“其二”と断るぐらいだから“其一”もあり、それは29才である20年前に『現代落語論』として発刊している。 ──軍団に紛れ

          ビートたけしの“業の肯定”。

          ビートたけしの“送迎車”変遷1984-1988

          俺が在籍した約4年間。殿の送迎車は3車種に渡った。ちなみに個人所有車は一貫してポルシェ911(930)3.3ターボ(年式1984)だった。駐車場は四谷サンハイツの1F駐車場 ↑旧テレビ朝日社屋駐車場にてファンが勝手に撮った写真をなぜか貰った。 ↑同型モデル。オフに何度もワックスで磨いた思い出がある。それもボーヤの仕事の1つ。殿は仕上がり(光沢)のチェックがいつも厳しい。 殿にとって「最高の車」は昔からポルシェと決まっている。決してフェラーリやランボルギーニ等のイタ車では

          ビートたけしの“送迎車”変遷1984-1988

          Ryu's Bar 気ままにいい夜

          「Ryu's Bar 気ままにいい夜」はまだバブルの高揚さめやらぬ1987年から、小説家村上龍を迎えたトーク番組だ。子細は概要をまとめたサイトがあるので確認して欲しい。 俺がボーヤだった時、殿のマンションで片付けをしたり簡単なツマミをつくり、そのまま殿が酒を飲みながらTVを視る横で「帰っていい」と言われるまで傍らにいる事がままあった。その夜は「Ryu's Bar」というスタートしたばかりの番組を視ていた。 ──殿は「配慮の人」であり、当然だが番組出演中も自分がその番組で何

          Ryu's Bar 気ままにいい夜

          《KID RETURN》幻のプレミアム版とあの時代

          引っ越しで蔵書を整理していて出てきたのがこの《KID RETURN》。この本もまた1986年12月8日発売と、この夜に講談社に突撃した緊張感溢れる一冊(笑) さて、ラジオを聴いていたようなコアな、現在恐らくアラフィフ以上のファンならきっとこの本は持っている事だろう。 奥付には発行者として高瀬幸途の名がある。元々殿の「たけし吼える!」や「みんなゴミだった」の版元飛鳥新社から太田プロがスカウトし、版権管理会社として新たに設立した太田出版の初代編集長に据えた男で、実はこの俺とは

          《KID RETURN》幻のプレミアム版とあの時代

          《小泉記念鑑》1986年

          1986年12月26日発行。ARENA37℃臨時増刊《小泉記念鑑》P.008-P.009より。 殿のバラエティ黄金期は小泉今日子の黄金期とほぼ同じタイミングだった。彼女もまた「木枯しに抱かれて」が11月にリリースされて以降、「アイドル」の域を超え、ドラマや映画にも活躍しはじめていた。 この《小泉記念鑑》もスタッフが豪華。まず編集長ではなく「総監督」として秋山道男、文章はなぜかデザイナーの安野ともこ、スタイリストも藤原ヒロシをはじめ総勢7名、衣装もその時代のヒットブラン

          《小泉記念鑑》1986年

          シングル『ポツンと一人きり』1986年2月

          シングル『ポツンと一人きり』1986年2月

          +2

          【追悼】春一番

          【追悼】春一番

          +2