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わたしと吉本興業

小学校3年生の頃、担任の岩木先生に

「森田くんは面白いね。将来吉本興業にいくんだね」と言われた

当時初めて聞く単語に、「興業」を「工業」のことだと勘違いして

なぜ先生は「ぼくが工場に行くことをきぼうしたのか」

と思ったと記憶している

それからわたしが強く吉本興業を意識するのは

高校生の頃で、

吉本といえば、大阪に行くしかないと思っていた

「大阪に行くから」「いや、見送りはいらないよ!笑」

などとみんなに言いふらしたことがある

実際は品川区の西大井だった

湘南新宿ラインで1時間10分だった

乗り換えもなくいける


大学生の就職活動時、

わたしはNSCという吉本の学校があることを知った

40万貯めて入金したときはそれまでの人生の中で一番使ったお金の額に

「とんでもないことをしてしまった...」と

しばらく「世界は広い」と思い込ませて40万入金の出来事を小さくする努力をした


合同のNSC面接時には確か

何かアピールしたいことがある人!

と言われて

よっし、ここだ!と

勝手に勝負所にして

一発芸をやった記憶がある

どんな一発芸か、

たしか、

いや、

思い出せない

はしゃぎすぎて面接官の机に激突して

すみません...と謝った記憶だけはある

見事受かった


母親に芸人をやっていることを告げたときは

「吉本はヤ○ザだからやめなさい!」

と言われたし

その後実家に帰るたびに

「けんちゃん。まだドリフみたいなことやっているの?やめなさい!」

と言われた

母親は吉本は「ドリフみたいなことをやる集団」だと思っている

今も「ドリフみたいなこと」やっていて申し訳なくおもう


わたしはNSCを卒業してから

コンビを組み

ピンになり

コンビを組み

ピンになった

上からコンビ・ピン名は

アバンチュール

もりたけんじ

GORILA(ゴリラ)

もりたけんじ

だ。

そのように繰り返していたら

フロントエンドエンジニア芸人になってしまった


吉本興業から初めてギャラが振り込まれたのは

芸人になって15年後の今年で

それまで一回もお仕事をもらったことがなかった

最初にいただいたのは芸人ではなく、

Webデザイナーとしてだった(理由はこちら)

つらつらと書いて来たが、

吉本興業には

吉本興業には

吉本興業には

自分の一部を育てていただいたこともあり

出会えない方々に出会い

ご指導いただいたりできたので

こんなわたしでも恩を勝手に感じているので

感じているので

まあ感じているので

ってところだ

小学校3年生のころのわたしがいる

NSC面接時に一発芸をやったわたしがいる

わたしは

わたしは

吉本興業を辞めるときは

お笑いを辞めるときと決めている







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