【文劇3】不要不急の文化芸術

ふせったーに投稿した感想の移植です。

公演名:舞台文豪とアルケミスト 綴リ人の輪唱
公演期間:(東京)20200912-22/(京都)20200925-927
公演会場:(東京) 品川プリンスホテル ステラボール/(京都)京都劇場

投稿日:20200920

ぼやきです なんかね、現実問題、エンタメを殺すのは誰かって考えたとき、それは国じゃなくてわたしたち普通の市民、大衆なんじゃないかって思うから文劇3から作り手の思いを受け取ろうとすると、わたしの中で思考がものすごくガチャつくのです

起きて、働いて、食べて、寝る。起きて、働いて、食べて、寝る。 
この生活リズムはもろに今のわたし。 
その生活リズムに文学は必要ない、人々に文学が必要とされない世の中は容易に成立する…みたいな(うろ覚え)終盤のセリフ群、心に刺さってる。 
なんだかんだで観劇したり寄席に行ったり表現活動に触れてはいるけれど、以前に比べて、自分が好きな表現物や表現活動に対する感度は鈍くなった。ぐーーんと下がってる。 
冬の終わりから春の盛りにかけて経済面でも健康面でも生まれて初めてくらいの切迫感で命の危険を感じて(どちらも滑稽な取り越し苦労に終わったけど)、正直その状況下では、生活に直接は必要にならない、不要不急のエンタメに十分な敬意を払うのは難しかったよ。できなかったよ。 

それで、コロナ禍の現状はまさにその代表例だけれど、「人々に文学が必要とされない世の中」が容認されてしまうのは、国のせいなんだろうか?わたしたち自身の無関心ではなくて? 
そりゃ、国語の教科書から小説が消えるとか、そういうのは問題だと思うし、コロナ禍で政府が打った対策の中で、演劇界隈は不当な扱いを受けたかもしれないとも思う。出版業界も全体が「不要不急」扱いされて、いろんなことが後回しになった。割りを食ったと思う。 
それでも、わたしたちの大半がもし演劇や文学に強い興味関心を持っていたら、政府の対応や方針へのバッシングは今より激しくなるはず。 
大半の人は、国語の教科書から小説が消えようが、演劇人がいかに生活苦に怯えようが、無関心のままなんじゃないか。だってそれ以上に、自分が起きて、働いて、食べて、寝ることができる生活の方が大切だから。 
そして、表現活動、芸術活動に対してその程度の意識しかない大衆を責める権利が誰にあるのかって思う。 
大衆に芸術リテラシーを与えるのは公教育の仕事だろうか、だとしたらやっぱり、芸術リテラシーの低い世の中を成立させていることへの批判は政府に向くべきなのか?それにも違和感がある。結局は食べていくことの方が大切だし、そもそも芸術とか創作とか表現とかって、人から与えられる種類のものではないと思うから。 

文劇3の作り手が投げかけてきたこのテーマについて、わたしが個人的に答えを出せるのはたぶん数年後になると思う。自分の生活が落ち着いて(落ち着いてるといいな)、covid-19も落ち着いて(落ち着いてるといいな)、そうでないと生活と芸術の問題について、冷静に考えられる気がしない。 

19夜の公演は光属性強めで鑑賞後の感触もとても爽やかだった(鑑賞後の酒もひときわ美味かった)けど、現実に照らしたらそんな爽やかな感触本当はあり得ないんだ。でも今わたしは「現実の甘さを追及する厳しいフィクション」より「現実の厳しさを踏まえた上で希望を見させてくれる光のフィクション」を求めてるから、これから大千秋楽までの公演は全部光強めでお願いしたいです。灯火ください。

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