『サイレントヴォイス』雑感

2021年6月13日18時〜公演『うち劇「サイレントヴォイス」』配信を見ての冗長な雑感です。本当に雑感なので作品と関係ないことも含まれます。


1.

附属池田小事件の犠牲者と同い年ということもあってか、事件が起きた当時のざわつきは、他世代の人よりも大きかったかもしれない。
学校の先生や家族が深刻な顔でニュースを見ていたこと、わたしたち子供に事件の残酷さを説いたこと、学校での避難訓練に「不審者の侵入」が追加されたこと。先生が神妙な顔で黒板に書いた「宅間守」という名前。報道番組で読み上げられる「タクママモル」の音の響き。
上演開始数分で色んなことを思い出した。
家では父がテレビに映る宅間の写真を見ながら「けだもの」と吐き捨てていた。人でなし。恐怖と不快を人に抱かせる悪魔。
わたしの中で「宅間守」は人ではなく概念化していて、それはもはや天災と同じカテゴリだった。宅間には倫理観や、人と人が心を通わせ合う理が通用しない、ただ排除するしかない存在だと認識されていた。
もちろんこれは自発的に事件を調べたわけでもない、ただ報道や周囲の感想のみから情報を得てきた人間の認識だから、正確にはほど遠いはず。ただ、そうやって大雑把に情報を取って、宅間を理解不能の「社会的エラー」としてしか見ていなかった人も、相当数いたと思う。

今回見た『うち劇「サイレントヴォイス」』はこの附属池田小事件を元にした作品。匂わせるとか仄めかすとかいう程度ではなく、最初から「附属池田小事件を元にしています」というスタンスを明らかにしている。演出の西森さんは「この事件を風化させてはならない」という思いのもと、取材を重ねてこの事件をテーマに他にも作品を作ってきたらしい。
本作品では、現実と同じく、小学校に白昼侵入し児童を無差別に殺傷した事件の犯人と、担当弁護士2人の会話が中心となっている。犯人の名前は佐久田冬真。劇中で何度も、弁護士の平や新垣から「佐久田」「佐久田さん」と声をかけられる。サクタとタクマの音の響きははっきり似通っている。

2.

正直フェアな態度で見るのがとても難しい作品だった。佐久田の言葉を聞くことができないのだ。佐久田が話し始めてしばらく後、「佐久田の言葉なんて聞く必要がない」「聞いてはいけない」と思ってしまっている自分に気がついた。この事件の犯人は民間伝承に伝わる"タブー"と同じで、解き明かしたり分け入ったり(*1)することができない、してはいけない存在だった。理解不能で恐ろしいが、理解不能なままにしておきたい存在。
わたしのこの思いに反して、ベテラン弁護士の平は佐久田を理解しようと接見を続ける。平は、佐久田が自分たちと同じ人間であることを信じ続けた。劇中、佐久田がその通り「わたしたちと同じひとりの人間」であることをほのかに示す描写もあった。わたしにはその描写は不快であり、苦痛だった。彼のどの行動にもどの発言にも、何の理由付けもしてほしくなかった。「異物」であり続けてほしかった。
たぶんこの心の動きは平弁護士にとっては「逃げ」であり、「人間社会の敗北」(*2)そのものだろう。想像力を否定しているのだから。

佐久田だけでなく、平の言葉も新垣の言葉も入ってこないときもあった。劇中人物が全員白々しく見えて、「この人たちは嘘の言葉を話している」と思いたくて仕方がなかった。途中途中で流れるBGMすらも耳障りに思える時があった。安易にフィクションの味付けをしてほしくなかった。
1番素直に聞けたのが結局、終盤、平弁護士の最終弁論の言葉だった。どの程度事実に沿っているのか調べられなかったけれど、実際法廷で述べられた言葉にそこそこ忠実なんじゃないかと思う。金子みすゞの詩の引用は、宅間の主任弁護人が最終弁論でやったことでもある。
事実に即した言葉が1番受け入れられて、通常のセリフに抵抗を感じてしまうのは、わたしが現実と虚構を混同してしまっている証だ。それは本来やってはいけない鑑賞だけど、ただ、本作品に限っては許されるんじゃないかと思っている。演出・西森さんが何度もこのテーマで作品を作り、「風化させてはならない」という思いを表明しているということは、デリケートな現実を語りやすくするための手段として、演劇という虚構の形を取っているのではと思うから。
自分の中で附属池田小事件がこんなにもショッキングな記憶として根を張っていること、報道を通してしか知らないとは言え、当時の異様な雰囲気、緊張、恐れを未だに抱えていることは、この作品を見なければ気づかなかったこと。無意識下に沈んで思い出しもしなかったことだ。「風化させない」という西森さんの目的はまず紛れもなく成功している。

時間が経ち歳を重ねると作品の見方が変わることがあるというのは経験的に知っているけれど、この作品にその法則が通用するか?いつか違う見方がしてみたい。もっと佐久田に寄り添いたかった。平に寄り添い、新垣に寄り添いたかった。今のところわたしは平から憤りを覚えられる側の人間でしかない。

(*1)
劇中、ベテランの平が新人の新垣に「苦しいでしょう。人の心の茂みを分け入っていくと、気づかないうちに心は傷を負って膿が溜まり、やがて心を殺していく」と声をかける。理解できそうもないものを理解しようとする作業は恐ろしい。

(*2)
こいつは理解不能だ、生まれつきの殺人鬼だと切り捨てることは人間社会の敗北、人間の情性の敗北、人間愛の敗北だと。平は「人間」を最後まで信じ続けた強い人だった。

3.

劇中佐久田が何度も口にした言葉。「むしゃくしゃ」「イライラ」。
昔、キレる大人、怒りっぽい大人のことを軽蔑していた。普通に生きていてどうしてそんなに短気になってしまうのか、意味がわからなかった。
働き出して数年の今はわかってしまう。昔と比べてあり得ないくらい短気になる瞬間がある。駅でゆっくり前を歩いて動線を塞いでいる通行人に、商品の袋詰めが下手なコンビニ店員に、失礼なことを言ってくる同僚に、自分でも信じられないほど攻撃的な気持ちを向けてしまうときがある。
疲労とストレスは人から想像力を奪い、思考力を奪い、あらゆる細やかさを奪う。身に感じる全ては快/不快のみで分類され、状態はエネルギーの発出/鎮静の2パターンになり、行動は衝動/非衝動だけになる。
理解できない、理解したくないと思いつつ、その心理について少しだけ想像できてしまう。平が佐久田に、「エリートへの復讐というのは後付けの動機」と言っていたのはそういうことなんだろうと思っている。動機の本質は「むしゃくしゃ」「イライラ」でしかなかったのだろうと。現実の事件はさておき、少なくとも劇中の佐久田に関しては。

4.

おぞましい現実、強い現実の前に虚構は無力なのでは?ということをコロナ禍になってからずっとうっすら感じていて、昨春来どういう演劇を見てもその思いを拭えないままでいる。
虚構とはまた別だけど、バカバカしい笑い、くだらない笑いを楽しんでいる時は、お笑いが苦しい現実を凌駕してるなと思える。
思い返したら、ここ1年のお芝居で1番掛け値なしに楽しんだのって『ハイスクール!奇面組』だったかもしれない。最近お笑いが好きです。

5.

こういうテーマに関心を持つ西森さんが演出してるんだから、そりゃモリミュが面白いわけだわさ


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