【感想】帆高の「僕たちはもう大丈夫だ」はただの強がりだ/天気の子

1,はじめに

『天気の子』を典型的な<セカイ>系作品と評する人は少なくないし、それを無理筋というほうが無理筋だと僕も思います。

じゃあ具体的にどういう点が<セカイ>系なのかといわれてみると、しかしながら応答するのは結構難儀なんじゃないでしょうか。

今回は【『天気の子』はなぜ<セカイ>的なのか】という観点から、僕がこの作品を5回観てうけた感想を書き留めていく。そういう試みです。ほんとうにふと思ったことを書き連ねるだけなので、まとまりや深みでは勝負していません。

章立てるとすれば、大まかに下記のトピックを扱います。

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・須賀が帆高の鳥居に行くことを止めなかったことについて

・晴れと雨の表象について

・花澤香菜、佐倉綾音の登場について

・物語装置としての須賀が新海誠作品において異質である点について

・結局この物語における「世界」と<セカイ>はなんなのか

・帆高の<セカイ>は本当に「もう大丈夫」なのか(エピローグの構造解釈とともに)

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これらをとおして、『天気の子』が<セカイ>的であるだけでなく、ただの<セカイ>系でもないことが理解されるでしょう。僕も初見時はよくある<セカイ>系泣きアニメじゃん陽菜ちゃんがかわいいだけGGって思っていましたが、エピローグの存在がすべてをひっくり返してくれました。この物語においてエピローグのもつ構造的意味は重大すぎます



なお、<セカイ>あるいは<セカイ>系作品という概念じたい、輪郭が相当危ういことは承知しています。

その危うさはそのまま、あくまで日常的次元の用法における<セカイ>にしたがって、想像力を共有できれば幸いに思います。日常的次元において<セカイ>がなんだの考えない人にたいしてはごめんなさいをします。ごめんなさいをしました。

ただ、とはいえ<セカイ>と「世界」の差異に触れないことには議論のしようがない。本論では下記のようにざっくり区分することにします。

<セカイ>=各々が大事にし、守りたいとおもうせかい
「世界」=どうしようもなくそこに投げ込まれ、住まわされてしまっている所謂せかい

『天気の子』そこには<セカイ>の喜劇性、悲劇性がともに散りばめられており、それらが混ざって、ぐねって、美麗でひろびろとした空間表現に溶けこんでいる。薄青でもありピンクでもある空はどうしようもなく<セカイ>だけれど、降りしきる雨が霧をつくって、曇って何も見えなくなってしまう。それもまた<セカイ>の輪郭が悲しくもボヤけたままであることを示唆しているようにおもえてなりません。

2,考察──須賀が帆高の鳥居に行くことを止めなかったことについて

とりあえず、考えたことを箇条書きにしてみます。

・須賀は明日香(妻)やモカ(娘)に会いたいとおもいながらも自分を有限会社に閉じ込め、つまり自分を犠牲(人柱)にする、あるいは家族という<セカイ>を諦めることで、世界を平穏に保とうとした。

・須賀のなかでは世界><セカイ>、このことに本心では納得がいっていない(飲んだくれのシーンのセリフからも明らかなように──「人柱一人で狂った世界が直るなら別にいいだろ」)

・とてもありていにいえば、須賀は家族を諦めているように見えながらも、本心では家族に会いたがっている。

・帆高は、世界よりもかれにとっての<セカイ>(陽菜に会いたい)を優先させ、法をおかすことも厭わない。この帆高を警官とグルで止める=帆高の<セカイ>を壊すことは、今の自分の境遇を重なってしまった。

帆高を陽菜に会わせることで、帆高に<セカイ>>世界という須賀の本心を帆高に仮託した

ここまでの解釈は解釈ですらないです。だいたいの視聴者が初見で感じたことを偉そうに言語化しただけですし、ここまでで終わるならなんならよくある話ですらある。

しかし、『天気の子』はよくある話じゃありません。エピローグの下記2セリフがただものじゃない深みを与えています。

・世界を変えた? 自惚れるな
・世界なんて最初から狂ってるんだから気にするな

<セカイ>>世界の論理を一方的に擁護し、大事がるだけの物語じゃないことがこの時点でみえてきます。

もう少し解釈していきます。上記2セリフはいずれも須賀のものですが、そもそも彼の本心はどこに着地したのでしょうか。帆高の健闘ぶり、青春ぶりをみて、彼なりの<セカイ>を大事にしてみようと思ったのでしょうか。それとも従前の「諦め」の論理に留まったのでしょうか。

ここの洞察において、帆高と須賀は悲しくも剔抉しています。

上記2セリフの意図は、

世界のために<セカイ>を人柱にすることのナンセンスさ=<セカイ>にそこまでの力はない、と大人の観点から非常に語っている……

ともとれるし、

世界のために<セカイ>を人柱にする必要はない=世界なんて気にせず自分の大切な<セカイ>を守ればいい、という達観したアドバイス

ともとれます。

大きくなった事務所で上のことを告げられ、その際の帆高の迷い方をみるに、帆高はおそらく前者の意味合いで受けとったでしょう。しかし、須賀の本心は後者なんじゃないかと思います。これがすれ違い。だってそうでなければ、須賀があれから娘のモカに会いに行くはずもないので。

帆高がここで、須賀から大人の論理=世界の論理を強制されたと受け取ってしまったことは、帆高がますますみずからの<セカイ>に閉じこもりゆく作用をもたらします。こんなこともあり、帆高の<セカイ>はエピローグにおいて絶対強固なるフィールドを形づくるのですが、このことについては後で述べます。

ここまでをまとめれば、須賀の存在は、<セカイ>概念の相対化と強化をともに成し遂げているのであり、いうまでもないですが極めて重要な物語のトリガーになっています。

3,考察──晴れと雨の表象について

「晴れ」と「雨」が何らかの物語構造的な意味をもっていることは否定しようがないでしょう。これらのメタファーは文芸上もはや古典的でさえあります。

この点についてもとりあえず、箇条書きでとっかかりを作っていきます。

・一般に晴れは<セカイ>、雨は世界の象徴である[仮説1]

・たとえば須賀は晴れている間だけ娘のモカに会うことができる。逆に、須賀が帆高を追い出し自罰に陥るシーンでは家に浸水している。上記の仮説はこれらの点において確からしい。

・ところが、帆高にとって「雨の降りしきる世界」は必ずしも世界ではない。[仮説2]このことが決定的な価値観の転倒と、彼の<セカイ>のいっそうの強化を生んでいる。

※なぜ「雨の降りしきる世界」が帆高にとって<セカイ>足りうるのかは後程説明します。

・狂った世界=雨の降りしきる世界という等式があったとする。これに対する解釈は、上記の転倒によって決定的に二様となる。

一般(須賀含む)には、世界なんてはじめから狂ってるんだから、世界に関わらず<セカイ>を保つことだって可能だろうという悟りを意味する。

他方、帆高にとっては……狂った世界が、自分の<セカイ>を守ったことの証として機能する唯一の均衡点を意味する。狂ってるなあとしか評されないみんなにとっての「世界」が、帆高にとっては何の注釈もなく<セカイ>なので、これらの共存が成り立っているわけです。すなわち、世界によっておかされがちな<セカイ>が、帆高のそれだけは無理なく守られたのです。守られてしまったのです。

ここでも結論は、帆高の<セカイ>が物語終盤にかけてはなはだしく強化されていることの裏づけになります。この物語構造が、帆高に「僕たちはもう大丈夫だ」と言わせてしまいました。そしてこの<セカイ>の強化が喜劇でもあるし、悲劇でもある。もうすこしみていきましょう。

4,考察──花澤香菜、佐倉綾音の登場について

例のバスでのシーンですね。単なる遊び心として片づけるには惜しい示唆を含んでいると僕はおもっています。

ここまでをまとめると、この物語は、世界を代表する大人と<セカイ>を守ろうとする帆高の戦いです。この解釈に異論はないでしょう(きわめてオーソドックスなので)。

これに加えて、世界=現実と<セカイ>=この映画の間を揺れ動く視聴者の戦いでもある、と解釈を加えてみたい。

つまり、こうです。佐倉綾音とか花澤香菜を露骨に視聴者(おたく)から気づかれる形で使ってみたり、『君の名は。』のキャラクターをこれまた露骨に出してみたりしているのは、単なる遊び心やファンサービスではなく、『天気の子』の物語=<セカイ>から視聴者を離脱させる、計算しつくされた仕掛けなんじゃないか。ここまで聞いて『旧劇』を思い出したかたは気持ち悪いです。

離脱。帆高(<セカイ>)に感情移入する視点のなかで、世界に戻すような仕掛けをところどころに入れることで、須賀や大人たちの視点も移入させて二重の構造へと視聴者をいざなっているわけです。

さすがにこじつけ感が強いですけれど、一旦仮説として受け入れましょう。そうすると、佐倉綾音・花澤香菜が登場したシーンも意図的に仕組まれているように思えてくる。

廃ビルのシーンで爆発する帆高の<セカイ>へのおもいと、世界に身を置かざるをえないと自らを抑圧していた須賀の<セカイ>へのおもいが爆発して、<セカイ>への肯定が全面的にあらわれます。

このシーンの前にその仕掛けを用いて、後者須賀の視点を促しておく。廃ビルのシーンは帆高や須賀の<セカイ>へのおもいが爆発したとともに、かれらにとって世界(警官)に引き込まれる最大の危機でもありました。そのメトニミーとして、花澤香菜・佐倉綾音を出しているというのは有る話ですね。

また、ほかに花澤香菜・佐倉綾音が登場しているシーンとして序盤のバスがあげられます。ここは、帆高が須賀のところへ向かうシーンなので、世界=花澤佐倉=バス、ここから帆高が降りた、という見方もできるかもしれません。

要するに、『天気の子』において花澤香菜・佐倉綾音は世界の象徴なんです。つまり帆高の敵です。ついでにいうと帆高が度々口にする「東京ってこえー」この「東京」の世界の象徴でしょうね。かれにとって未知の無機質な世界を指して、東京と呼ばっていると思われます。

花澤香菜・佐倉綾音・東京は、帆高の<セカイ>をおかそうとします。しかしそれは結果的に、かれの<セカイ>をますます強固にし、かれに「もう大丈夫だ」と言わせしめるに至ります。至ってしまいます。

5,考察──物語装置としての須賀が新海誠作品において異質である点について

『天気の子』において須賀が、須賀だけが、世界と<セカイ>を揺れ動く装置である。この共通認識は論を俟たないと思います。こういう存在が<セカイ>系作品、新海誠作品にいるのは何も珍しくないのですが、須賀の終着点は少々異質です。

というのも、新海誠作品では世界><セカイ>の論理をことごとく重視しているからです。どうしようもなく横たわっている世界に対して敗北しながらも、胸に秘めた<セカイ>の記憶を大事に想っていく儚さが新海誠作品の魅力のひとつです(ということにします)。

そうだとすると、須賀という大人でありサブキャラがエピローグにおいて得た結論──世界なんて関係なく<セカイ>は守れる、これは相当異質です。というのもこれは明らかに主人公的存在が逃げ込む論理なので。主人公が逃げ込む論理をサブキャラ、それも大人がありがたがっているんです。

 <セカイ>の論理に逃げ込みたいと思いつつも、最終的(?)には世界の前に打ちひしがれてしまう。そんな須賀の姿はとりわけ『秒速5センチメートル』の遠野貴樹と重なります。あるいは『星を追う子ども』の森崎竜司。『君の名は。』が新海誠後方彼氏面オタクから酷評に晒されたのも、主人公カップルからこの姿、論理が見いだせなかったからなのかもしれません。

 じゃあ『天気の子』の主人公、帆高はどうでしょうか。実は彼は片手落ちです。何度も述べているとおり、彼の<セカイ>はエピローグにかけて強化されていくばかりで、世界を前に打ちひしがれるそぶりもみせません。これでは<セカイ>の儚さも何もない。

ではなぜ『天気の子』は『君の名は。』ほど、新海誠後方彼氏面オタクから酷評をうけなかったのでしょうか?むしろ「新海誠が戻ってきた」などと(僕の観測範囲において)評されたのでしょうか?

その要因は3つ、

①須賀が主人公的葛藤を代弁しており、視聴者はそこに移入できるため
②須賀や帆高にかぎらず、ほぼすべての主要登場人物において<セカイ>と世界の間を揺れ動く構造が明確にあらわれているため(メッセージ性の強い作品にオタクは弱い)
③帆高の<セカイ>が極限まで強化されることがかえって悲劇的であり、一種の儚さでもあるため

①については概ね了解されるでしょう。須賀という、新海誠作品においては異質なサブキャラが、帆高という異質な主人公の成立を可能にしました。

残り②③について以下で考えていきます。長くなってしまってごめんなさい。

6,考察──結局この物語における「世界」と<セカイ>はなんなのか

世界と<セカイ>の間で葛藤しているのは須賀や帆高だけではありません。

凪くん以外の登場人物は、みな

①世界で何らかの憂き目にあって<セカイ>に閉じこもっている
②(陽菜以外)誰かの<セカイ>を壊して世界にしてしまおうとした

点で共通します。

誰もが「世界」の被害者にも、そして<セカイ>の加害者にもなりうる。これが<セカイ>の儚さでもあります。

具体的にみていきましょう。

・帆高…①島での鬱屈とした世界がいやで、光=陽菜を追い求める旅に出た②世界の形を永遠に雨が降りしきるように決定的に変えてしまい、みずからの<セカイ>を守った

・陽菜…①母親が死に、凪くんとの生活だったり晴れ女の能力だったりはいずれもすぐ崩れる(モラトリアム)ことがわかっているけれど、つかの間の生きる意味としてとらえる

・須賀…①家という世界に追い出され会社という<セカイ>に閉じこもる②帆高に「もう帰れよ」と島への帰還を促したり、一時は帆高の逃避行を止めようとする

・夏未…①内定が世界からもらえず根無し草的なモラトリアムを生きる②陽菜に「晴れ女」の伝説、その悲劇性を教える(陽菜のモラトリアムを崩そうとする)

こうしてみると、帆高、須賀、夏未はいずれも世界と<セカイ>との間で揺れ動いていること、陽菜が<セカイ>を壊す作用をもっていないことがわかります。
ここから、以下のような図式が想定されます。

=====
[世界]おとな、警察、須賀の家族、帆高の島、花澤香菜、佐倉綾音、東京

[中間層]帆高、須賀、夏未

[セカイ]陽菜

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中間層にいる人たちは、最終的には各々の世界か<セカイ>かに還ってゆきます。帆高はいうまでもなく陽菜という<セカイ>のもとへ還りました。決定的に変わってしまった世界、水没したビル街を見据え、帆高は隣に陽菜をいだきながら「僕たちはもう大丈夫だ」と言います。それは世界に対する堂々たる勝利宣言でしょう。僕たちは僕たちの<セカイ>を守り切った。

本当に守り切れたのでしょうか?

7、考察──帆高の<セカイ>は本当に「もう大丈夫」なのか

 まず、以下の問いを投げかけてみたい。

『天気の子』において、世界と<セカイ>、勝ったのはどちらでしょうか?

一般に<セカイ>は負けるようにできています。子どものモラトリアムなわけですから、負けることが成長過程なんです。その必定が儚さを生んでいるともいえます。

しかし『天気の子』では<セカイ>が勝利した──エピローグにおける帆高の「もう大丈夫だ」発言にみられるよう、大人の世界から<セカイ>が守られきったにとどまらず、世界の形が変えられてしまった……

という簡単な話ではありません。より正鵠を期すならば、帆高と陽菜の<セカイ>が世界に勝利したと帆高が思っているにすぎないんです。その思い込みがあまりに妥当だから見た目のうえでは勝利しているっぽいだけで。

そもそも、少し考えればわかるのですが、「晴れと雨の表象」において【一般に晴れは<セカイ>、雨は世界の象徴である】という仮説を打ち立てましたが、帆高「だけ」この説に従っていません。陽菜にとっては雨が降っていて、晴れ女活動で喜んでもらえることこそが<セカイ>である一方、帆高にとっては陽菜こそが<セカイ>なので、雨が降っていることこそが<セカイ>になります(雨が降らないと陽菜の<セカイ>が発動しないので)。

したがって、雨の降りしきる世界をまえに、晴れ女の能力を失った(と思われる)陽菜とともに、「僕たちはもう大丈夫だ」と言ってのけることが可能なのは帆高だけなんです。陽菜にとってはぜんぜん大丈夫じゃない。それに帆高も感づいているからこそ、「僕たちはもう大丈夫だ」という言葉で陽菜を縛り付けているのかもしれませんね、というのも陽菜が世界側に行ってしまったらいよいよ帆高の<セカイ>も大丈夫じゃなくなるので。

帆高と陽菜の<セカイ>は、第一に上のような理由で危うさを抱えているんです。<セカイ>の儚さの表現は達成されていないようで実ははっきりここに孕まれていました。

他方で、帆高の<セカイ>は別の意味では究極的に万全ともいうことができます。それは世界に対して圧勝したから──ではなく、世界と<セカイ>の対立構図そのものが脱構築されてしまったからです。

そのことは須賀の「世界は元から狂ってんだから」発言でも示唆されています。その悟りは世界と<セカイ>の両存する可能性を拓きます。世界のうちにいながらじぶんの<セカイ>を守る選択肢がそこにあります。

ただこれだけでは示唆止まりなので、もう少し俯瞰してみましょう。

・まず、『天気の子』は世界と<セカイ>の対立構図をあてがうところから解釈をはじめるべきである。警察(公権力)が堂々と世界側として出てくるのは、<セカイ>系作品にしてはなかなか異質。警察のような中間社会層は通常、<セカイ>系作品ににおいては描写が省かれる。<セカイ>系はそもそも主人公の狭い身近が世界の命運に直結する、という定義が膾炙している。

・他方、エピローグにおいては公権力が出てこない。ここから示唆されるのは、エピローグにおいては世界と<セカイ>の対立構図がおわったということ。「雨がやまなくなった」「東京」というのは、世界と帆高の<セカイ>がブレンドされた均衡点という見方ができる。(「雨」は帆高にとっての<セカイ>の象徴で、「東京」は世界の象徴のため)

・世界を変えてしまったことに対し、帆高が罪悪感を抱いている描写がエピローグに認められる。(須賀に「世界なんてはじめから狂ってる」と諭されて吹っ切れる)この罪の意識は、中間社会層の存在のかおりを須賀に諭される前の段階では無視しきれていなかったから。ふつう<セカイ>系作品は、主人公が何をやらかしても社会が結果どうなったかの描写が省かれるが、エピローグにおいては「雨がやまなくなった東京」というもっとも残酷な仕方で描写がなされている

・つまり帆高としては、純然たる<セカイ>(雨が降りしきり、陽菜との関係からは何も足さず、何も引かれない世界)を望んだが、実際は「雨のやまなくなった」<セカイ>に「東京」という世界が足され、陽菜からは晴れ女の能力が引かれて<セカイ>への参入を可能とした。このように、「雨のやまなくなった」「東京」は帆高にとって、足し算と引き算で取り繕われた妥協点としての<セカイ>でもある。

世界と<セカイ>が対立することをやめ、グロテスクにブレンドされてしまった産物としての「雨のやまなくなった東京」は、帆高にとって危うい均衡点でもあり、妥協点でもあった。

こう考えてみると、「僕たちはもう大丈夫だ」という言葉の受け取られかたも変わってきます。

<セカイ>を守り切り、将来へ意気揚々と投企するセリフなどではなく、ただの強情、言い聞かせなのかもしれませんね。

さて、世界と<セカイ>が対立をやめ、ブレンドされてしまったという事実は実は帆高にとってかなり致命的です。<セカイ>が(ほぼ)何物にも邪魔されないというファンタジックな状況が成立してしまったからです。その悲劇性について述べて、本論をしめくくることにしましょう。

少年はふつう、次の3段階をたどって成熟します。

①<セカイ>と世界の一致を疑わない。じぶんの<セカイ>こそが世界だと思っている。
②<セカイ>と世界の不一致に気づくも、<セカイ>を保つ方向に走ろうとする。
③<セカイ>を保てないと悟り、世界に<セカイ>を溶かしてしまう。

大概の<セカイ>系作品は、②から③への移行に際しての葛藤を描きます。世界の強大さが<セカイ>の諦めをうながすなどします。しかし『天気の子』においては全くそうなっていません。

ところで、①から②への移行を阻むのが陽菜の能力であり、②から①への回帰をもたらすのが帆高の存在です。

さて、『天気の子』のエピローグにおいては、③の次なる段階が顕現しています。それは…

④同一の世界がその他大勢にとって③、帆高と陽菜にとって②というズレが生じている。

これです。帆高は②から③への成熟の途を自ら閉ざしてしまった(「僕たちは世界の形を決定的に変えてしまった」)。しかし④の構造ゆえ、②にとどまることを許されるのです。

みなにとっては世界であるものを、帆高は<セカイ>と捉えており、そのことに無理がなく、邪魔するものもない。こうして帆高は一生モラトリアムに幽閉されることになった。しかもそのモラトリアムは帆高の理想ではなく、危うい均衡点、妥協点。一生崩れることのない危うさのなかで生きていかないといけない……という悲劇が『天気の子』です。

しかしながら、一点だけ、帆高がグロいモラトリアムを脱出できる可能性が残されています。それは陽菜の存在です。

すでに述べたように、「晴れと雨の表象」に関して帆高と陽菜の解釈はすれ違っています。「雨のやまなくなった東京」は帆高にとっては曲がりなりにも<セカイ>で、陽菜の存在がよりそれを<セカイ>足らしめていますが、陽菜にとってはどうしようもなく世界です。陽菜が帆高といるのをやめ、じぶんのほんとうの<セカイ>を追い求めようとしたとき、帆高の<セカイ>は瓦解します。いや、瓦解とまではいいませんが、苦しい<セカイ>という水槽にいることを自覚させられることになります。

では、陽菜にとってのほんとうの<セカイ>とは何なのでしょうか。ここは解釈の域を出ませんが、母親、凪くん、かの自宅を含む家族がそれだと僕は思います。エピローグに至るまで、陽菜の家族問題が何も解決されていないことにお気づきでしょうか。凪くんがエピローグにおいて忽然と姿を消しているのにお気づきでしょうか。これらは物語構造上、意図的な仕掛けでしょう。

この家族問題が再燃したとき、繰り返すように帆高の<セカイ>は変容する可能性があるだけ、まだ救いがあります。一見美しいようであるエピローグは、凪くんが一瞬いないというまさに「凪状態」が可能にする究極の儚さなのです。

前に陽菜が<セカイ>を壊す作用をもっていないと記しましたが、唯一帆高の<セカイ>だけは壊しうる存在なのでした。

<<<終>>>

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