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アニメ『ポプテピピック』に関する芸術論的な基礎考察【感想】

はじめに

 本記事の目的は、TOKYO MX、BS 11にて2018年1月6日より週次で放映され、2022年は再放送や第二シリーズの放映によって再度注目を浴びているTVアニメ『ポプテピピック』を、コンセプチュアル・アートとみなすことが可能であるか(芸術的であるといってよいか)見定めることである。

 そのためには、数あるアニメ作品のなかから『ポプテピピック』を選びとることの妥当な理由を示すとともに、単なるアニメ作品からコンセプチュアル・アートへとカテゴリーを変換することの必要・有益さを示す根拠も確認しなければならない。

 議論を先取りすれば、前者の理由とは、『ポプテピピック』というアニメが初期放映時から肯定的評価を得ることができたことに、いわゆる「ネット社会」といわれる現代の外的社会的環境が密接に関わっており、現代を表象する作品として『ポプテピピック』を扱うことは妥当である、というものである。
 そして後者、カテゴリ-変換の妥当性については、以下のようである。アニメ作品の内容があまりに陳腐であり――公式ホームページがしばしばそう標榜しているのだから、こう言ってしまっても差し支えないだろう――「クソアニメ」である。しかしながら、その形式を分析していくと、かの『エンドレスエイト』の衝撃を彷彿とさせるような要素を含んでいる。加えて、一般に失敗であったと評される『エンドレスエイト』とは異なり、『ポプテピピック』は「成功」へと至りうる内的・外的条件を備えているのではないかと私は考えている。

 今一度、アニメをコンセプチュアル・アート視することについて、一層有益な素材を得られるのではないかというのが本記事の目論見である。また、結論として、このアニメは「テレビ番組的」であると言い定め、アニメ史のチェックポイントと位置づけるつもりである。

『ポプテピピック』の特異性

  30分アニメに不向きな原作の特徴

 TVアニメ『ポプテピピック』は、大川ぶくぶ氏による同名の四コマ漫画作品を原作として映像化したものである。四コマ漫画と一口にいっても、そこに物語――出来事の必然的な契機――があるものから、場当たり的なギャグに留まるものまで存在する。漫画『ポプテピピック』はというと純粋に後者の側面のみを有する。ありていに言うならば、そこに物語は存在せず、四コマごとに出来事が完結するのである。もうひとつ触れておかなければならないのは、そのシュールでアイロニカルな作風である。時事問題からゲーム・アニメ作品などのエンターテインメント、インターネットのアングラに至るまで、どこかで見たことのあるような素材を拾っては、それを平板な表情のキャラクターに演じさせるというパターンが『ポプテピピック』では頻出する。それは風刺の常套手段だが、登場キャラクターの無表情と、その意図の不明な台詞によってメッセージ性はことごとく脱色されており、あくまで読者によって価値を乗せられうる素材に留まっている。他方で拾う素材の見境なさという点では過激な風刺でもある。その代表例として挙げられるのが、『ポプテピピック』の出版元である竹書房に関する描写であるだろう。作中で「指定暴力団」呼ばわりしたり、出版社の建物を爆破することで四コマをオトす描写までみられるのだ。

 以上に挙げたような諸要素が、いずれも30分アニメの原作としては不利に働くことは論を俟たないだろう。そこに物語がないということは、アニメの制作者にとっては、オリジナルの物語を脚本で用意するか、原作を忠実に再現したショートコントを脈絡を無視して放映しつづけるしかない。前者をとれば労苦が増すのはもちろん、いわゆる「原作厨」による厄介な謗りを免れないことは過去が証明している。後者をとれば、それを30分間放映しつづける必然性を直ちに失うし、放映したとして視聴者を作品に没頭させるのが困難になる。
 また、見境のない社会・エンタメ的風刺がTV放送に乗せられることには様々な障壁があるだろう。いくら作中でメッセージ性が脱色されているとはいえ、全国放送におよそふさわしくないようなアングラな素材を再現することは難しい。加えて、決して読者のすべてが素材の出自を把握していないようなマイナーなネタが『ポプテピピック』では頻出する。これもTV放送という形で多くの衆目に晒すさいに不利に働きうる。というのも、メッセージ性のないシュールな風刺という作風は、そのおもしろさ――こう言ってよければ芸術性――の極めて大きな部分を、読者の理解に頼っているからである。「ああ、あれを元ネタにしているのか」と理解した読者が、元ネタをシュールに再現する登場人物のやりとりを見て、はじめて「おもしろい」と思う。この作品と読者の間のやりとりが成立しない限り、作品は制作側の単なる自己満足にすぎなくなる。


 ここまで、『ポプテピピック』の原作が30分アニメ化にあたっていくつかの不都合を抱えていることを見てきた。しかし、実際にアニメ化されてみるとどうであったか。<物語の欠落>と、<素材の不適切性>というふたつの不都合は、私の見立てでは、屈曲した形ではあるもののアニメ化において克服され、原作にない「おもしろさ」にまで昇華されている。この「おもしろさ」こそが、いまから私の取り上げようとしている『ポプテピピック』の特異点であり、それは「同時性」と「共同性」のふたつの語句でまとめることができる。順に論じていくことにしよう。


同時性――いちはやく知る

 アニメ『ポプテピピック』の特筆すべき構成として挙げられるのが、30分間の放映のなかで同じ映像を二度使いまわすことである。言い換えれば、オープニング、本編、エンディングまで含む15分アニメを再度放送することで、30分の間をもたせているのだ。『ポプテピピック』が物語を欠くために、ショートアニメを連発せざるを得ないという、30分アニメを成り立たせるにあたって不都合な点は、スパンを15分で区切ることによって多少なりとも軽減されているとみることもできよう。しかし、単なる再放送では視聴者がすんなりと受け入れるはずもない。同じ映像を使いまわすという手法から、かの『エンドレスエイト』を想起した視聴者は、私も含め多かったはずである。

 しかし、同じ再放送でも『ポプテピピック』と『エンドレスエイト』では質的な相違が二点存在する。まず、『エンドレスエイト』は一応作中に「同じ時間を幾度となくループする」という物語構造が存在し、それの表現としてほとんど同じ映像を八週にわたって放映する形をとった。作中のループ構造を視聴者が追体験できるようにという制作側のもっともらしい目論見は、現在のところ非難の対象とされるのがもっぱらである。いずれにせよ、『エンドレスエイト』の再放送は、作中の物語構造からの要請を受けたものであるとすれば、その手法に必然性を認めることができるだろう。
 これに比べると、『ポプテピピック』は再放送の手法に物語からの要請が含まれていない。再放送を行う必然性がないのである。何度も述べているように、『ポプテピピック』は明確な物語をもたないし、二度目の放送によって謎が解けるとか、視聴者がカタルシスを得ることのできるような仕掛けもない。ただ漫然と同じ映像を二度流すだけだ。物語構造からの要請の有無という点で、『ポプテピピック』と『エンドレスエイト』は相違する。この点では明らかに『ポプテピピック』の方が不利である。

 もう一点の相違は、キャストについてである。『エンドレスエイト』では、いずれの放送においても担当声優が変わらない。他方、『ポプテピピック』では、主な登場人物(「ポプ子」と「ピピ美」)にあてられる声優が、再放送の際にすべて差し替えられる。具体的には、第一話(2018年1月6日放送)の一度目の映像では「ポプ子」を江原正士氏、「ピピ美」を大塚芳忠氏が担当し、二度目の放送ではそれぞれ三ツ矢雄二氏と日高のり子氏が担当した。第二話(2018年1月13日放送)の一度目の映像では悠木碧氏と竹達彩奈氏、二度目の映像では古川登志夫氏と千葉繁氏がそれぞれ担当する。以上のキャスティング、そして今後のそれも、すべて事前に告知されていない。どの声優も性別・世代ともに差が激しく、声優によって「ポプ子」と「ピピ美」はまったく異なった人物として現れてくる。もとより無表情で平板な登場人物であるからこそ、声優を立て続けに入れ替えたところでさしたる不都合が生じないのである。

 この「声優入れ替え」の手法が作品そのものの芸術性に寄与するかどうかについては、ひとまず措いておこう。ここで注目したいのは、毎回の声優のキャスティングがいずれも事前に未告知であり、加えていずれの声優も、アニメを見慣れている視聴者であれば知らない人のいないような、人気声優や大御所ばかりだということである。スタッフロールでその名前を見れば、「あんな大物が、よくこんな「クソアニメ」に」と盛り上がる。スタッフロールを見るまでもなく、作中の演技だけであの声優が担当しているとわかってしまうこともしばしばであった。

 この、事前に未告知であった大物声優が『ポプテピピック』を担当しているとわかることの「おもしろさ」は、「同時性」によって支えられていると私は考える。ここでいう「同時性」とは、主にリアルタイム視聴を含意する。というのも、真なるキャスティングを把握したうえで『ポプテピピック』を観てしまっても、当の「おもしろさ」は得られないからである。声優のサプライズを乗り越えてしまった視聴者にとって、『ポプテピピック』は必然性のない再放送によって放送内容が実質15分間しかないうえに、内容自体もしメッセージ性を欠いたアイロニーで塗り固められていて不断に理解を要する厄介ものである。最速で放送を確認し、声優のキャスティングをいちはやく知り、それを他者と共有する主体となること。『ポプテピピック』は、内容自体ではなく、それをいちはやく視聴するという「同時性」によってエンターテインメント性を獲得しているのである。ここに、<物語の欠落>という原作の抱える不都合は再放送構造によって緩和され、その構造によって声優の入れ替えという仕掛けをも可能にし、再放送構造の必然性のなさを埋め合わせることに『ポプテピピック』は成功する。声優の入れ替えという仕掛けは、「同時性」が担保されている限りで、同作品におもしろさを与えるのだ。

共同性――いっしょに観る、わかる人にはわかる

 アニメ作品を鑑賞する形態にはどのようなものがあるだろうか。昨今は録画やDVD・ブルーレイの貸し借りに加え、Abema TVなどのインターネット・テレビサービスや、dアニメストア・Amazon Prime Videoといったビデオサービスが充実している。『ポプテピピック』第一放映時の配信環境を振り返ってみよう。「アニメ産業レポート2016サマリー」によれば、2015年度の日本国内の配信サービス売上は437億円であり、これは同年の劇場アニメ売上(469億円)とさして変わらず、年々アニメ産業市場を占める割合を増やしている。ここから、アニメ作品をリアルタイムで視聴することの必然性が薄れてきていることがみてとれる。先に述べたリアルタイム視聴によるエンターテインメント性の獲得という戦略は、それゆえ危ない橋でもあった。

 しかしながら、アニメ『ポプテピピック』は、以上のような配信サービスを利用して一人で時間の空いたときに観るという形態がそぐわないような構造をもっている。それには先に述べた「同時性」――作品それ自体に没頭するよりは、キャスティングの真相をいちはやく知るために観るという話題先行性も該当するが、他にも「誰かと一緒に実況しつつ観る、それを素材として語り合う」という視聴形態がふさわしいような側面を当のアニメは含んでいる。その側面をここでは「共同性」と呼ぶことにする。

 誰かといっしょに実況しつつ観る形態がふさわしい構造とはどのようなものだろうか。それは端的に言えば、アニメが「素材」に留まっていることである。メッセージ性が徹底的に脱色されていることに加え、スクリーン・ショット画像そのものにコミュニケーションの素材としての汎用性があること。以上の構造を示す典型例が「ポプテピクソみくじ」である。このショートアニメでは、「おみくじ」の書かれた絵が何種類も用意され、それらが高速で差し替えられつつ放送されることで、ルーレットのような様相を呈する。このショートアニメにあっては事前に「カメラつき携帯電話をご用意ください」とのテロップが挿入されており、視聴者はそれに従いルーレットを撮影することで、目視できなかった「おみくじ」を目に留めることができるようになる。「おみくじ」の内容は、製作者の本音と思しきものやアングラなネタを交えた際どいものであり、視聴者にとっては際どい秘蔵の内容を高速ルーレットから掘り当てたような疑似体験が可能となる。

 このショートアニメについて注目すべき点が二つある。まず、この高速ルーレットは指示通りカメラで撮影するなどして画像を目視しない限り、観ていて何も面白くないという点だ。つまり、元の映像自体に「おもしろさ」はない。あくまで視聴者側が撮影という働きかけを行わないと、そこにエンターテインメント性は生じないのである。また、撮影した「素材」を自分だけの手元に留めておくのも面白くない。映像を一瞥してもわかるように、あそれ自体に精緻な芸術性が含まれているわけではなく、シュールなアイロニーを理解できない場合すら考えられる。すなわち、「ポプテピクソみくじ」は、それ自体としてはあくまで素材であり、撮影という視聴者側の働きかけに加え、他の視聴者仲間との共有によってはじめて間テクスト的な「おもしろさ」を帯びるという仕組みをもっているのである。ここに、「共同性」によって支えられる『ポプテピピック』の「おもしろさ」の一端をみることができる。

 もう一点は、「ポプテピクソみくじ」に限らず、当のアニメ全体に通じることだが、原作における見境のない過激な風刺・アイロニーが、ほとんど忠実に再現されていることである。これらの風刺の素材は、例えば政治の話題のように決して万人に共有されるものではなく、むしろ元ネタを把握しきれない視聴者の方が多数だろう。そのような視聴者は自然とアニメから離れていくのだが、他方、元ネタをある程度知る視聴者にとっては、他の視聴者と素材を共有する絶好の機会を得ることになる。アニメ『ポプテピピック』が多用する、マイナーな素材のアイロニーは、「わかる人にはわかる」状況を生み出し、「共同性」をそれに与える。しかも、『ポプテピピック』は、一般的なアイロニーと比べても、糸の不明な台詞と無表情的なキャラクターの造形によってメッセージ性が徹底的に脱色されている。このため、「わかる」視聴者に二次利用される素材に留まりやすい。よって、「ポプテピクソみくじ」などで得るスクリーン・ショットや、そこで発見された元ネタが、「わかる」視聴者の共同体において共通語として機能するのである。

 この「わかる人にはわかる」内輪的な空間は、匿名を基底とするインターネットにおいて常に確認されてきたものであった。社会学者・北田暁大氏の名著『嗤う日本の「ナショナリズム」』において、「巨大な内輪空間」としての匿名掲示板「2ちゃんねる」におけるコミュニケーションの内実が以下のように分析されている。

 2ちゃんねるにおいては、内輪性を再生産するコミュニケーション――内輪の空気を乱さずに他者との関係を継続すること――を続けることが至上命題となっており、ギョーカイ[マスメディアにおける内輪ネタ]は共同体を担保する第三項の位置からコミュニケーションの素材へと相対化されている。(中略)「2ちゃん語」や「アスキーアート」を駆使したアイロニカルなコミュニケーションを首尾よく繋いでいくことが、「住人」=2ちゃんねらーたちの主要な関心なのであって、テレビ(や新聞)はコミュニケーションのための素材に過ぎないのだ。

 北田氏の議論の類型を『ポプテピピック』に当てはめてみると、議論の見通しがよくなる。2ちゃんねるやTwitterなどの実況ツールにおける至上命題である内輪の再生産のために、『ポプテピピック』におけるマイナーな風刺と、「ポプテピクソみくじ」などにみられるアニメそれ自体の無表情的なスクリーン・ショットは、「コミュニケーションの素材」として用いられる。これらの素材は、「コミュニケーションを首尾よく繋いでいく」ための共通語として機能するのである。
 ここで、「ギョーカイ」=テレビをはじめとしたマスメディアの内輪ネタという、2ちゃんねるにおける「素材」であったところに、『ポプテピピック』が位置していることに注目したい。これは、視聴者にとって『ポプテピピック』がテレビ的な機能を有していることを示唆する。先に論じた、「ポプテピクソみくじ」に適する「撮影という視聴者側の働きかけに加え、他の視聴者仲間との共有」という視聴形態は、お茶の間でテレビを視聴する際のそれとほとんど同型であるだろう。インターネットの内輪空間がもつ「共同性」に、『ポプテピピック』の構造は知ってか知らずか適合し、「おもしろさ」を視聴者によって認められたというわけだ。ここでの「おもしろさ」は、まさに「他者との関係を継続」することに成功した事実から分泌されるのである。

 「ネット社会」によって評価されるアニメの典型例として、『ポプテピピック』を取り上げることは、以上の議論により妥当であろう。

 本項の議論を整理する。

『ポプテピピック』の原作は、過激な風刺・アイロニーに加えて四コマ漫画という構造により、30分アニメに作り替えることが本来困難なはずであった。前者は<素材の不適切性>、後者は<物語の欠落>という形で30分アニメ化を阻むからである。しかし、アニメ『ポプテピピック』の「15分アニメを二度放送」という構造は、<物語の欠落>を多少なりとも軽減し、当の構造の必然性は「声優入れ替え」の手法によって保たれた。「声優入れ替え」の手法は、「同時性」を生じさせ、『ポプテピピック』に交換不可能な「おもしろさ」を与えることにも貢献した。<素材の不適切性>については、それを視聴者の「共同性」を生むものとしてかえって好意的に機能した。アニメ映像を素材化し、視聴者の働きかけと他者との共有によって、「おもしろさ」を生じさせる。また、マイナーな元ネタの風刺は、それを理解できる視聴者の間でコミュニケーションの共通語となる。他者との関係を継続できることへの満足感が、『ポプテピピック』の「おもしろさ」にいつの間にか転化されて受け止められるのだ。

 以上の議論のなかで『ポプテピピック』のエンターテインメント性が、映像作品それ自体ではなく、それを視聴する人間の働きかけと関係によって生まれている点に目を留めたい。この事実によって、次の項のコンセプチュアル・アート視に関する話題に議論を接続したいと思う。


コンセプチュアル・アート視の可能性

 『ポプテピピック』をコンセプチュアル・アート視することは果たして可能か。この問いにイエスと答えるためにクリアしなければならない諸条件は、芸術学の一般的な基礎に従い、以下のようなものが挙げられる。

・「受容的動機」――コンセプチュアル・アート視せざるを得ない事情が当の作品にあるか。つまり、本来のカテゴリーで見たときに不都合が生じるといったことがあるか。

・「外在的根拠」および「内在的根拠」――コンセプチュアル・アート視を当の作品に帰属させることの妥当性を、外在的=作品にまつわるテクストにおいて、あるいは内在的=作品それ自体において見出すことができるか。

 これら諸条件を順にクリアしていくことで、コンセプチュアル・アートとしての『ポプテピピック』という視座を立ち上げることを最終的な目標とする。そこに至るまでにあたり、適宜『エンドレスエイト』と『ポプテピピック』の対比を補助線としていく。

受容的動機――それ自体としての価値

 受容的動機に関しては、「『ポプテピピック』自体は娯楽として楽しめるものではない」という命題が真であることを示すことで解決できる。以下、これを試みよう。

 『ポプテピピック』自体を娯楽アニメとして楽しめるかどうか。これに対して私情を挟んだ応答が許されるならば、「私は全く面白いと思わなかった」の一言で片付くのだが、そうは問屋が卸さない。そもそも、ある娯楽アニメが楽しめるものであると言うためには、そのアニメが何を満たしていれば良いのだろうか。娯楽アニメに求められる「愉しみ」と言っても様々で、巧妙に練られた物語を追いかけたい視聴者もいれば、「萌え」を望む視聴者もいるだろうし、スリルを志向するか、はたまた「日常・空気系」かという違いもあるだろう。娯楽アニメとしての価値が高いというのを、視聴者が楽しむことができると定義することは、「娯楽アニメ」というカテゴリーが上に見たように広範な意味をもつ以上、無理がある。私があるアニメ作品をいくら面白くないと感じたとしても、それは私があらかじめその作品に求めたカテゴリーに起因するかもしれないのだ。このままでは、アニメそのものの価値を問題することはできない。

 かくして、娯楽アニメとしての価値の基準を、視聴者の感性によらず、アニメ作品自体に求めたいと思う。すなわち、そのアニメが物語志向か「萌え」志向かは問題にせず、それら志向する事柄に向かった技術的な工夫・精緻に長けているか。このように娯楽アニメの価値基準を定義すれば、とりあえず視聴者の感性による問題の複雑化は回避できる。また、その価値が我々の視角によらず作品に内在するものでなければならないことも確認しておこう。すると、我々が検証すべきはまず、「『ポプテピピック』はそれ自体として技術的な工夫・精緻に長けているか」というのものになるだろう。もっとも、今度は当のアニメ作品が物語を志向するのか、「萌え」を志向するのかという客観的な解釈の相違という別の問題が生じてしまうかもしれない。あるアニメは「萌え」志向としては価値があるが、物語志向としては価値がないといった評価が起きうるし、「萌え」や物語のようなカテゴリーは今後いくらでも新たに生産する余地が残されているからだ。

 しかしながら、『ポプテピピック』に関しては、そのような解釈の相違は問題にならないと私は考える。つまり、いかなるカテゴリーを志向する作品として『ポプテピピック』を見たとしても、それ自体に技術的な工夫・精緻が欠けているということを否定できないということである。根拠は三つある。まず、15分アニメの二度放送という構造は、作品それ自体としては手抜きと評せざるを得ないこと。また、15分アニメだけを眺めても、高度な作画・音響は認められず、キャラクターの造形も原作そのままの平板なものであること。さらに、内容を確かめてみても、それは創意工夫のないパロディばかりで、我々がその元ネタ自体、およびその元ネタをアニメで再現することの無謀・過激さを理解しない限りでは、価値を認められないこと。「声優入れ替え」の構造も、入れ替えられる声優が豪華であることから話題を呼んでいるものの、その声優が実績を積んだ人気・大御所であるというスキーマを払拭したうえでアニメ作品を眺めてみると、どうしていたずらに声優を入れ替え、女子中学生のキャラクターに渋い男声をあてたりするのかといった疑念しか残らない。これらの指摘は、『ポプテピピック』の範疇的意図が何であるにせよ、免れ得ないのではないか。「『ポプテピピック』はそれ自体として技術的な工夫・精緻に長けているか」という問いに対しては、それゆえ「長けていない」と答えられる。


外在的根拠――エンドレスエイトの追憶

 外在的根拠については、『エンドレスエイト』との対比的考察の可能性を示すことによって応答することにしよう。『エンドレスエイト』の特異点を改めて確認しておくと、物語内の時間ループを、ほとんど同じ映像を八週にわたり放送しつづけたことであった。登場人物と同じループ体験を視聴者が追えるような仕組みとして考案されたとしても、その実視聴体験はただただ退屈なものと成り下がってしまった。元々『涼宮ハルヒ』シリーズ自体原作から高い評価を得ていただけに、どうして『エンドレスエイト』のような挑戦的な試みをする必要があったのか、ということで放映当初から現在に至るまで批判的なまなざしを向けられてきた。

 『ポプテピピック』においても、『エンドレスエイト』のような同じ映像を繰り返し放送する構造があること、『ポプテピピック』の繰り返し放送は『エンドレスエイト』のように物語構造からの要請を受けたものではない純粋な「再放送」であることは、いずれもすでに確認した。再放送する物語的必然性がないとなれば、『エンドレスエイト』同様『ポプテピピック』も非難の対象となりそうなものだが、実際は一概にそうともつかないといった状況である。この評価の違いを生んだ事情としては、「再放送の回数が『エンドレスエイト』に比べて二度と少ない」「『エンドレスエイト』の視聴経験から、再放送構造への耐性が視聴者側にあった」「『涼宮ハルヒ』シリーズとは異なり、『ポプテピピック』の原作の雰囲気から、再放送のような破天荒な真似を製作者側がすることもじゅうぶん想定された」といったものがすぐに考えつく。しかしこれらはいずれも『エンドレスエイト』に関する事柄を視聴者が了解していることを前提としている。『エンドレスエイト』を知る視聴者の間では、それを皮肉った構造として『ポプテピピック』が共通言語化し、そこに「巨大な内輪空間」が立ち上がることもあるだろう。しかしながら、視聴者のすべてが『エンドレスエイト』の視聴体験があるわけではないし、あったとしても10年以上前のことを未だに問題意識として記憶に残しているほうが稀だろう。私は『ポプテピピック』第一話の放送当時、Twitterのタイムラインを流し見つつアニメを視聴していたが、『エンドレスエイト』のことを知らないような知り合いのフォロワーすら、一部は『ポプテピピック』の再放送構造に嬉々としていたものだ。このようなことがどうして可能か。

 私の考えでは、それは『ポプテピピック』を視聴途中にありながら、それと同じ経験をする匿名・非匿名の他者を見つくろい、「巨大な内輪空間」を形成できる環境が整っているからである。その環境とは、具体的にはTwitterをはじめとするSNS空間である。他者のつぶやき=思考=嗜好にすぐ接続できる点では、SNSは2ちゃんねるのような掲示板構造を大いに上回る。Twitterの世界中のアクティブ・ユーザー数は、Twitter社の公式公知ページによれば、2011年5月時点で680万人なのに対し、アニメが放映された2016年12月時点で約3億1900万人と爆発的に数を増やしており、SNS空間の拡大が見て取れる。『エンドレスエイト』放送当時の2009年のデータは残っていないようだが、同様の傾向があったことに疑いの余地はないだろう。『エンドレスエイト』と『ポプテピピック』では、「巨大な内輪空間」を形成する環境が大きく異なっているのである。

 再放送構造はそれ自体として単独で観るぶんには退屈でしかないが、その経験をつぶやき、同じ経験をしている他者を見つけ、共有し、コミュニケーションの素材に落としこむ。すると、当の構造は内輪空間の首尾よき継続にくみするものとして高評価を得ることができる。結果、『ポプテピピック』は、『エンドレスエイト』のように一斉に槍玉に挙げられることがなかったのだ。必要なのは、「『ポプテピピック』ならば何かやってくれるだろう」という視聴者の期待と、それを裏切らないだけの作品のインパクト――これは決して「芸術性」と同一でない――だけであった



内在的根拠――交換可能なアイロニー

 内在的根拠としては、『ポプテピピック』の有するパロディと「声優入れ替え」の構造から、一種のアニメ一般へのメッセージ性を含む風刺を読み取ることで応答しよう。

 声優をやむを得ない事情や物語の要請なしに何度も入れ替えていったアニメは『ポプテピピック』をおいて他にないのではないだろうか。声優の吹きこむ声は、キャラクターにとって重要なアイデンティティの一部であり、例えば『エンドレスエイト』における登場人物の服装のように易々と変えられるものではないはずである。しかし『ポプテピピック』では、第三話が放映された時点で主要登場人物(「ポプ子」と「ピピ美」)をそれぞれ六人の声優が演じている。それだけでなく、「ポプ子」と「ピピ美」のおかれるコンテクストも自在で、あるときは有名なCMの真似を演じさせ、あるときは有名なゲームの一場面に登場させる。このように、「ポプ子」と「ピピ美」は交換可能な記号として極限まで切り詰められていることが作品自体から読み取れる。これは、キャラクターの意図を徹底的に不明にし、風刺・アイロニーのメッセージ性を徹底的に脱色したことによって可能になった芸当である。以上の議論を「大きな物語の喪失」というポストモダニズムのよくある文脈に落としこむこともできるだろう。キャラクターの内在的なアイデンティティと外在的なコンテクストがともに排除されたアニメというのはなかなかお目にかかれない。第二シリーズの放映によって、後の評価が動く可能性も捨てきれないが、このようなアニメ作品が注目を浴びている事例は過去になく、動向を注視したいところである。


おわりに──テレビ番組化するクソアニメ

 2000年代、および(未完ではあるものの)2010年代には、1990年代における『新世紀エヴァンゲリヲン』のようないわゆる「代表アニメ」がないとされる。他方、各年において流行したアニメタイトルも、ひとつに絞らなければ認められるだろう。『ポプテピピック』が放映された直近の2017年でいえば、それは『けものフレンズ』だろうか。当時登場したアニメ群のなかで、声優が歌番組に出演したり、多岐にわたるグッズ展開がなされたアニメタイトルは、『けものフレンズ』をおいて他にないからだ。
 さて、この『けものフレンズ』、少しでも視聴すればわかるように、制作の技術的なクオリティが凄まじく低い。3Dポリゴンの不自然な挙動からは、とても世を席巻するようなものを感じとることができない。それにも関わらず『けものフレンズ』が人気を博したのは、キャッチ―で汎用性のある台詞回しとキャラクター造形に加え、監督を務めるたつき氏のSNSなどにおける精力的で親近的なプロモーション活動のたまものだろう。物語でなくキャラクターの「萌え」を消費する様を東浩紀氏ならば「動物化」といって嘆くかもしれないが、私としては注目したい点はそこではない。注目したいのは、作品それ自体としては「クソアニメ」でも、視聴者同士の共通語となりうるような要素を含んでおり、それなりに味のあるウラバナシがあれば、話題を呼んでじゅうぶん世を席巻しうるということである。

 作品自体を超えて、作品を素材としたコミュニケーションが円滑であればあるほど話題を集めるというのは、『ポプテピピック』にあっても同様にみられる現象であった。これをアニメの「素材化」、あるいは先に論じた視聴形態になぞらえて「テレビ番組化」といっても良いかもしれない。テレビ番組が芸術的といわれることのほとんどないのと同様、アニメに芸術性をみてとることも今後難しくなっていくのだろうか。作品の価値が間テクスト的におかれる傾向の強くなるということは、時を超えた普遍的価値をもたなくなるということだから、年を代表するアニメ作品というのが成立しても、年代を代表するとなると荷が重いこともうなずけるのである。

以上

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