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仮装大賞化するM-1、アングルを巡る闘争。(5499文字)

哲学者は、万人の知ることを語る人間でなければならない。ところが、万人がただ語ることを知っている人間である場合が多い。

ジンメル『日々の断想』

私はお笑い芸人を尊敬している。「王様は裸だ」という、万人が知りつつも黙して語らない真実を指摘できるのは、きっと子供か哲学者か道化だけだから。

M-1の4分間という制限の中では、どれほど技量に長けたコンビであっても自分たちを「ひとつのアングル」から提示するのが精一杯である。今年のM-1は、その限られた「アングル」をいかに活かすかという闘いであったように思う。最も象徴的なのはロングコートダディと男性ブランコとヨネダ2000が、ステージ前後左右の広さを連続的に活かすようなきわめて「仮装大賞」的な空間の使い方をしていたことだ。この現象は、ぺこぱの「正面が変わったのか?」と錦鯉の「舞台で寝る」の影響が大きいように思う(ソース無し)。

一方で今年のM-1では物理的アングルだけでなく、言葉のアングルもまた問われていたと思う。むろん一番それが論争的になるのはポリティカルコレクトネスを著しく欠いた言葉で笑えるか否か、という点ではある。しかしそれは単にある漫才を社会的弱者等に寄り添った角度で見るとアングルが狭くて笑えない、ということであり、他にもその人なりの角度の付け方(プログラマー、80代、コンビニバイト、自営業、女性……)で漫才のアングルが狭く不快に見えてしまうということはいくらでもあるはずだ。漫才をどれだけ完璧に仕上げたからと言って、受け手がどの角度から鑑賞し何を読み取るかまでは指定できない。

この絵をどの角度から見て、どのように面白がるかは人によって異なる。

そうした事態への対策としてひとつの正解を出したのが「ぺこぱ」だったが、その武器はあまりにも革命的すぎて誰でも扱えるようなものではなかった。だからその後も芸人は各々努力して、その問題に立ち向かっている。

芸人たちがいかに「多くの角度から広く見えるアングル」を設定するのか、以下はそうした角度からM-1を楽しんだ感想です。

決勝戦ファーストラウンド

カベポスター:「なしなし」の難しさ

M-1のトップバッターの入り方として97点ぐらい行ってるのではないか。志らくが「糸電話が面白かった」という視点になるのは分かる気がする。落語的に考えると興味深いマクラとその後の本題に繋がりが欲しくなる。「大声」と「小声」の繋がりなのか? とかコミュニケーション繋がりか? とかを伏線の可能性として脳の片隅に保持し続けておかないといけないのが無駄なストレスを生んでしまっていたと思う。
ネタは糸電話とは関係なく続いていくのだが、別に最後に「ん」が付いたからといって大声をだせないわけじゃないよなー(例:バン!)と思ってしまって、「ないないw」ではなく「それは無いでしょ」と思ってしまい十分に作品世界に入りこむことができなかった。
糸電話の一言で想定されるボケのキャラは「無垢なものに対しても攻撃性を隠さない人」という興味深いものだが、それがそのまま放置されてて最後に「良い人」になって終わるのも4分を連続した物語として見た場合、すっきりしない印象を与えていると思う。

真空ジェシカ:「ジジイネタ」で錦鯉には勝てない

無茶苦茶な世界観にインテリが的確なツッコミをする、という好きなタイプの芸なのだけど、題材がよくなかったように思う。今年のM-1でジジイネタを出してしまうと、どうしても錦鯉がちらついてしまう。そして、「老人あるある」で笑いを取ろうとすれば、どうしても若手は錦鯉の肉体的説得力に勝てない。
しかしそれでも「年金を貰いすぎて卑屈になってる! 僕ら世代が文句を言いすぎた!」と「お前の視界が恐怖で歪んでいたのだとしたら?」というくだりはまさに「アングル」を逆手にとって笑いに変えていて面白かった。
ただ「六法全書の同人誌を作ってる! 著作権の著作権を侵害している!」という箇所、重箱の隅を突くインテリなツッコミが売りなのだから、法律文書に著作権がないということを知らないにしても知ってて無視してるにしても画竜点睛を欠くようなもので残念。

オズワルド:インセプションの漫才化

オズワルドの不気味な方はキャバクラバイト歴が長いとのことで勝手に親近感を抱いている。私は一人でいることが好きだが、この人となら同棲生活を送っても大過なくすごせるのでは、程度には好意を持っている。
夢と現実の行き来をネタにする、というのはインセプションっぽくて良かった。「3日も俺を夢に出すな」は平安貴族にも通用しそうなツッコミで好き。夢うつつで揺れる全体のテンポ感、つまり予期せぬタイミングのボケや間を恐れずに待つことによるグルーヴ感も素晴らしかった。
しかしそれだけに全体がやや早口で、かつテーマがある意味なんでもありの「夢」、ということで少し地に足が付いてない空回りのように見えてしまった
のが一歩届かなかった原因だろうか。

ロングコートダディ:漫才4DX

仮装大賞か? というのが第一の感想。コテコテの導入から、舞台に奥行きを足すだけでは飽き足らずツッコミによって次元数を増やしていく手際が見事。
必死に走ってる感で十分に説得力を高めてから「太っていて膝を痛める」という究極の説得力である身体性へ回帰していくのが見事。しゃべくりだけでなく動きや服装まで「漫才はどこまで行けるか」という新しいアングルを提示することに成功していると思う。

さや香:「ジジイネタ」で錦鯉には勝てない②

5組目でジジイネタ2組かー、と思ってしまった。30代からの衰えという身体性に基づいた話をするのかと思ったら、ジジイネタに行ってしまって残念。誇張はお笑いに付きものだけど、他方若い例として出すのが「CreepyNuts」と「草生える」というのが「そこは誇張せず普通に30代が考える若者なの!?」という感覚になってしまい、パンチが弱く感じられた。そもそも「81歳だから衰えている」は一面的なアングルでしかない。他人事なのでツッコミも身が入らず「ナメんなよ81お前」とかになってしまう。
錦鯉がウケたのは単に年齢ネタだったからではなく「どうせみんなこうなるんだよ……ライフイズビューティフル!」という肯定的なメッセージを説得力とともに伝えられたことが大きいと私は考えているので、「加齢=衰え」みたいな一面的な狭いアングルでは割り引いて見てしまう。
「47で子供を作るのはエロい」とか「佐賀いじり」とか面白くなりそうな題材が次々に掛け流しにされるのを贅沢と見ることもできるだろうけど、自分はもったいなく思えてしまった。
ネタ中でのエロさの指摘より、ネタの後に錦鯉渡辺がボソッと言った「改めて見る生上戸彩がエグすぎる」の一言の方が自分には面白かった。やはり説得力が違う。

男性ブランコ:殺陣を観る漫才

これも仮装大賞だなー、というのが第一の感想。順番に恵まれなかったかもしれない。最初は見方が分からなかったが「こんな音符は嫌だ」という大喜利として見ると素直に楽しめた。
このコンビの白眉は文字通り二人の衝突にある。相当練習したのだろうが、予定調和を感じさせない自然かつダイナミックな動きで二人はクラッシュする。これはいわば殺陣である。身体運動の説得力で無茶苦茶な設定を地に足の付いた芸にしているように思う。
「ダブルあさま山荘」「いやあさま山荘は一機で終わったんだから」が最高。……私が爆笑したってことは世間の人に伝わってない可能性が高そうですが大丈夫でしょうか? ここのくだりで一気に好きになりました。

ダイヤモンド:レトロニム漫才

それ既にあるんだけどなあ……という感覚への対処に忙しくて真剣に見始めるのに時間がかかってしまった。「夜ドラ」「朝ドラみたいに言うな!」「昼ドラもあるだろ!」というMECE的に正しい逆襲でようやく面白さを理解した。
私も「あなたは生活保護受給してない系の人なんですね」とかいう概念操作で笑わせるのはかなり好きなので、このひねくれ方は好感度高い。
それゆえにその操作が既に名前も付いたほど手垢の付いた方法だったことと、「全身浴」「裸眼」といった中盤の正しい指摘と、後半ふたたびの無茶苦茶の間で化学反応が起きなかったのが残念だった。

ヨネダ2000:リズムネタの威力

仮装大賞タイプでありながら、リズムネタの良さもあった。とにかくリズムが気持ちいいに尽きる。
ただつかみの「イギリスで餅、つこうぜ~」は突飛なボケのつもりなんだろうけど、マジラブ村上が反省会で指摘していたように「イギリスで餅ブーム」って普通にありうる現象なので、スタートダッシュの出遅れ感は否めない。
また私の角度から見ると外国人の扱いのアングルが狭く見える。特にボケても無いロンドン人? の一言目で"Wow……London is beautiful!"なのはあまりにも想像力に乏しすぎると愕然としてしまいその後のネタを真剣に見られなくなってしまった。
それでも総体として悪い印象にならないのはリズムが気持ちいいという美点がどれだけ優れているかということを示してもいる。

キュウ:M-1向けのチューニングが裏目?

謎解きによって最短でお客さんを巻き込んで注目させるフォーマットは見事。しかしフォーマットをカリカリにM-1向けにチューニングしているところにどう評価を下すかが難しい。
キラーフレーズへの意識が強すぎるせいかツッコミの種類が少ないのが、悪い方向に影響していると私は思った。ツッコミがキャラを乗せすぎてて「人間同士のしゃべくり」感が薄れている。一方で完全に人外的な気持ち悪さにも行かないようだし。外しとか逆転とかがあったほうがグルーヴ的にも良くなると思うのだけど、それを当人たちが考えていないはずはないので色々難しいのだろう。どちらが上という話でもなく、「M-1よりはエンタっぽいな」と思った。

ウエストランド:アングルの狭さを笑いに変える

空間のアングルはオーソドックスな漫才だが、ツッコミが言葉のアングルを極端に狭く取ることでお笑いに昇華している。
視聴者自身が内に抱える嫌なところを自覚させられる、聞き手を共犯にするネタは下手にするとほんとうに嫌な気分になり得るものだが、言い回しやテンポだけでなく、井口の持つ「どうせザコが吠えてるだけだからほっといてよい」という鮮烈なオーラのおかげで悪口が許容されている。流石。
一方で「佐久間さあああん」はナイツ塙が言う「東京の二軍芸人の悪いクセ」だなあと思って観ていた。

ただね、三四郎も含め関東の中堅どころで、そこそこ人気もあるぞという芸人に共通した弱点があるんです。若い人が集まりがちなライブハウスとかでやることが多いせいなんでしょうね、「テレビに出るようになって、おまえ調子にのってんな」とか、同じ事務所に所属している違うコンビの名前を出して「だから事務所は〇〇の方を推してるんだよ」とか。それって全部内輪ウケのワードなんです。けれども、ライブとか営業では異常なほどウケるんです。だから癖になる。

関東芸人はなぜM-1で勝てないのか?【第2回】 – ページ 2 – 集英社新書プラス

最終決戦

ウエストランド:完璧な出順

まるでさっきの話の続きのように、客が忘れていないうちに仕掛ける。もしかしたら何パターンか用意していたのかもしれないが、全くもって理想的な順番ではなかろうか。ここで矛先をM-1にも向けるという大技を成功させたことで、「佐久間さあああん」も単なる甘えではなく、本気でそういう奴にムカついてるんだろうなという説得力が生まれ、「やってしまいましたなあ」から「よくやったじゃん」に評価が後付けで上がった。
「アングルが狭い」ことをきちんとお笑いにできたのであれば、普通は引かれるようなネタをぶっ込むことも可能になる。実際そのように進行したウエストランドはベストを尽くした上で運にも恵まれたのだから、これで勝てなければ嘘だろうと思った。

ロングコートダディ:叙述トリックを仕掛ける

理想的な1本目と2本目だったと思う。2本目では1本目の舞台の使い方に加えて、コント漫才が見立ての芸であるという点に自覚的な叙述トリック的な仕掛けが興味深かった。近い観点の新作落語として柳家喬太郎「午後の保健室」があるが、それに劣らない着眼点の良さだと思った。ただ、1本目であった身体的説得力の要素が減じてしまったのは残念で、そこが完全に仕上がっていたウエストランドとの明暗を分けたのではないか。

さや香:「あるある」の難しさ

大きく括ると「男女あるある」ネタだと思うけれど、私(本人というよりは夜職時代の知人たち)の倫理観の低さのせいで「そういう関係が一度あって友達になる」とか「関係をもちつつも友達」とか普通にあるよね?と思ってしまって入りこむことができなかった。男女のあるあるは面白いし私も好きなのだけど(女は上書き保存、男は名前を付けて保存、は正しいと思ってます)、出発点でコケてしまったので十分に楽しむことができなかった。きちんと入りこんでいれば後半の逆転も腹よじれるほど笑っただろうと思う。

まとめ

ぺこぱが「アングルを極限にまで広くとったツッコミ」を発明したとすれば、ウエストランドは「狭いままで尖らせて戦う方法」を発見したようだ。私の角度からは、一番面白いことを一番上手く為し遂げたコンビが優勝したということで、とても良い大会だったと思う。
ここまで読んでくれたあなたも、この文章のアングルを面白く思ってくれたなら幸いである。

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