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正しい日本を語る”話道家”をつくりたい!講談師 神田山緑さん

世界で80人しかいない講談師としてご活躍されている神田山緑(さんりょく)さんにお話を伺いました。山緑さんは自らを講談界の異端児と仰るほど、各方面で精力的にご活躍されています。

プロフィール
出身地 東京都日本橋人形町
経歴 敬愛大学卒業後、トヨタ自動車にて営業マンとして新人賞を受賞。退社後、健康食品会社を立ち上げ、商品説明の話術の勉強に日本話し方センター副所長の山越幸氏に師事。その縁で神田すみれ講談教室に学び、講談の魅力に取りつかれ、平成17年神田すみれに入門、講談師の道を目指す。講談協会理事のお認めを頂き平成30年3月真打昇進。平成25年より講談を教え、今まで5000人に講談を教える。明治乳業「明治ロコテイン」CM出演。BSジャパン「土曜は寅さん」ナレーション担当。FM府中「山緑の講談ちゃんねる」「渋谷のラジオ」等々、テレビ・ラジオでも活躍中。
現在の職業および活動 講談師。明治大学・清泉女子大学・文教大学・東洋大学特別講師。一般社団法人日本話道家協会理事長。中野区観光大使。著書に「講談で身につく ビジネスに役立つ話術の極意」つた書房
座右の銘 敬天愛人

「日本の歴史は講談師がつくった」

記者 まず講談(講談師)とは何か教えていただけますか?

神田山緑さん(以下、敬称略) 講談は日本の三大話芸、講談・落語・浪曲のひとつです。その中でも歴史がもっとも古くて、500年前からあります。元々は「神道講談」と言って、菅原道真や安倍晴明、古事記などの物語を語っていくことがはじまりでして、その後、講談から落語・浪曲といったように分かれていきます。落語は仏教からきているもので、講談は神道からきている。またその時代、講談師には侍として刀の二本差しも許されていました。合戦の歴史や知識をたくさんもっているので、戦国時代の講談師は、軍師として国を動かしていく役割を担っていたんです。多分、今ある歴史のほとんどは講談師がつくっていると言ってもいいでしょう。

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「講談師になるまで」

記者 講談師になられた背景を聴かせてください。

山緑 私は日本橋の人形町っていう義理人情に厚い下町で生まれました。婆ちゃんが旅館をやっていて、母はそこの若女将、父は建設業を経営していました。旅館なので色んな人が出入りをして、家のまわりには落語であったりとか、小唄、端唄、踊りの師匠が身近にいたり、そういった人たちをいつも見ながら育ちました。

大学を卒業してからは、トヨタ自動車の営業としてディーラーに就職し、そこで一年目からトップになるんです。お客さんにもすごく愛されたし、車もよく売れました。でも一年目からそういう風だと人間は調子に乗るじゃないですか。何というか、先輩たちを従えるというか、先輩たちに洗車とかさせて(笑)、髪も金髪だったし、10時くらいに社長出勤したり、それでも車が売れるからOKだったんです。そんなことをしていた結果、営業をさせてもらえなくなり、そしたら車は売れなくなるので、別の店舗に左遷されたり悔しい思いもしました。

それからも色々あったんですが、25歳の時に父の会社を手伝うことになって、その関係で、健康食品会社の社長になったんです。そしたら、そこでも商品は売れたので、また調子に乗ったんですね。その結果、社員が突然みんな辞めていってしまって、ある時、会社に行ったら誰もいなくて、独りぼっちになってしまったんです。誰もいない事務所に電話が鳴って、恥ずかしいというか、悔しいというか、情けなさでいっぱいになりました。その時に自分の人間力の無さを痛感したんです。

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「人間力をつけたい」

山緑 どうしたら人間力がつくのかと思い、本屋に行って、人間力のありそうな人の本を片っ端から読んでいったところに「講談」というキーワードが入ってきたんです。まずそれが最初のきっかけでして、それからご縁があってうちの師匠、神田すみれの講談をはじめて聴きに行ったんです。

ちょうど社員がいなくなって茫然としている時、夏場だったんですが、師匠は、真冬の話(白隠禅師)をしていました。その話を聴いていると、私の頭の中に雪が降ってきて、子どもが泣いている様子だとかも鮮明に浮かんできて、自然と涙が流れてきたんです。これはすごいと思いました。想像だけの世界なのに、今までどん底で悩んでいたことがその時だけ忘れられた。はじめての体験でした。もしかしたら、これをやることによって、人間力がつくんじゃないかって思い、そこから師匠の講談教室に通うようになったのがきっかけなんです。

記者 確かに人間力がある人のお話は引き込まれますよね。

山緑 講談っていうのは面白くて、例えば、うちの師匠は女性なんですけど、女性が話しててもお爺ちゃんになったり、赤ん坊になったり、頭の中の想像だけで、色んな場面をつくって、そこに引き込まれちゃうんです。聴いてる側もそうなるので、やる側も色んな人の人生を体験することができて、これが楽しいんですよ。ヤクザの侠客になったり、相撲とりになったり、侍もやるし、百姓もやるし、赤ん坊もやる。その人に成りきって、その人の人生と一体化するように心で表現していくと、そこに魂が宿って、その話を聴いている人が同じ体験をするんですよ。だから、はじめて師匠の講談を聴いたときも、その話に共感して、何だかわからないけど自然に涙が出てきてしまったんです。

記者 登場人物に完全に成りきってしまうんですね。

山緑 はい。例えば、私は怪談が好きなんですが、怪談というのは怖がらせようと思ったら駄目なんです。よく立体怪談といってお化けが出てくるところで照明を暗くしたり、ドロドロドロって音を出したりするものがあるんですけど、それって、お客さんからすると、怖がらせようという意図が感じられて、逆に滑稽に見えることがあるんです。それよりも普通の照明のまま、音もなく、その世界に連れ込んだ時の方がぜんぜん怖いんですよ。暗さはその人の頭の中の想像の世界で勝手に暗くなっていますからね。番町皿屋敷だったらお菊さん、四谷怪談だったらお岩さんの気持ちになり切ることが結果的に一番怖さを伝えられるんです。

それと怪談には教訓がすごく含まれていて、例えば、女性を大切にしていない男がその話を聴いた時には、そこに共鳴するんですよ。お金儲けだけをしている人は、お金の話に反応して実感したり、親を大切にしていない人は、親の恨みとか、そういった話で怖くなり、これから親を大切にしなきゃっていう教訓になるんです。10人いたとしたら、10人とも怖さが違うってことなんです。

記者 うまくなるために必要なことは?

山緑 講談界には、宝井琴柳先生というすごい名人がいらして「お前、芸というのは普段からの了見だよ」ってことをよく仰います。普段の生活が全て芸に出てくるということで、それがお客さんに伝わるということなんです。お辞儀ひとつにしても、ちゃんと心を込めてやっているのと、そうでないのとでは、ぜんぜん違ってくるということなんです。

記者 舞台の上だけではなく普段の生活から全てが繋がっているということなんですね?

山緑 そうなんです。講談師というのは「前座、二ツ目、真打」と階級が進むんですが、最初の前座の時なんかは「おまえ何もしなくていいからずっと正座してろ」って言われるんです。板の上で5時間くらいずっと正座しながら、そこで先輩の動きをずっと見るところからはじまるんです。お茶を入れたり、着物をたたんだり、着付けをしたり、そういった中にちゃんと気配りが含まれていて、例えばお茶にしても、濃いお茶が好きな人、熱いお茶が好きな人など好みが分かれます。ちゃんと好みにあったお茶を出さないと手を付けてくれないんです。

記者 そういった気配りや心配りを養う期間なんですね?

山緑 我々は、大名の話もするし、家来の話もするし、足軽とかの話もする。足軽の気持ちがわからない人間が、足軽をやってみてもその気持ちは表現できないんです。心が純粋じゃないと、純粋な人の気持ちにはなれないですからね。

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「芸歴12年の最短で真打に昇進」

記者 29歳で講談界に入り、最短で真打に昇進できたのはなぜですか?

山緑 早く前座仕事から解放されたいっていう気持ちが一番の原動力でした。講談界は縦社会なので、前座の時は、もう大変というより普通じゃない世界なんですよ。意見も言えないし、返事も「はい」しか言えず、お前ら人間じゃないっていう教育をずっと叩き込まれるんです。掃除、洗濯、買い出しは当たり前にやりますし、食べ物をいただく時も入門順に先輩から箸をつけていくので一番最後になります。それで、その食べ物は残してはいけないので、そうすると残ったものは一番下に全部回ってきて食べろと言われる。だからその時は10キロくらい太りましたね。時にはトイレで吐きながら、涙を流しながら食べた時もありました。

記者 あえて過酷な経験をする必要があるということなんですね?

山緑 前座仕事には意味があって、当然得るものはたくさんあるのですが、でも残念ながら殆どの人が途中で辞めていってしまうんです。そして、辞めてから講談を恨むようになるんですよ。元々は講談が好きで入ったのにもう講談は聴きに来なくなるんです。私はそれが嫌で、辞めた人たちを何とか支えられないかと思って、それで講談教室をはじめたんです。そして、今は「話道家」という称号をつくって、話道を極める人たちをつくろうと、今年4月に一般社団法人化もしました。

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「講談は日本人のDNAに入っている」

記者 講談教室だけではなく学校などで講師もされていますよね?

山緑 特別講師として色々な学校に行くことはありますが、昔、不登校の子どもたちが集まる学校で外部講師として3年くらい教えていたことがあります。そこは退学になってしまった子どもたちの集まりなので、漢字がまず読めないし、教えてる最中に喧嘩がはじまったりとか(笑)、はじめはヤベェところに来ちゃったなって思ったんです。でもそんな子どもたちが、次第に変わってきて「先生この字なんて読むの?」とか聞きに来るようになったんです。それでルビを全部振ってあげて「ちょっと読んでごらん」というと読み始めて「よくできたねぇ」というと、子どもたちはどんどん変わっていくんです。

ある時、私は、子どもたちを連れてボランティアに行こうと思い、3分バージョンのネタを伝えて、それを老人ホームで発表させたんです。お爺ちゃんお婆ちゃんにとっては「かわいい孫が来てくれたぁ」って喜んでくれるじゃないですか。そこで拍手をいっぱいもらって、クチャクチャになるような笑顔で「よかったよぉ」って言ってもらえて、高校生の彼らが涙を流すんですよね。そういった成功体験をして「認められた、自分は生きてていいんだ」って、目がどんどん輝き出して、そこから「声優になりたい」とか夢を語り出すんですよ。「いいじゃんいいじゃん、声がいいんだからやんなよー、すごくいい声優になるよ」って褒めてあげるとすごく頑張るんです。

外部講師だからこそできることはあるんですが、でも、講談という伝統芸能だからこその力もあると思っています。講談は500年続いているものなので、日本人のDNAに深く入っていて、だからこそ、講談を全く知らない子どもたちの中にもすぐに入るんです。その力の意味合いはすごいものがあるんです。

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「話道家を世界でつくりたい」

記者 これからの夢やビジョンを聴かせてください。

山緑 これからは「正しい日本」を若い人たちが、どんどん発信していかなければならないと思っています。歴史は全部書き換えられてしまっていますからね、中国にしても韓国にしても、台湾ですら最近はその傾向にあります。日本は素晴らしい国です。大和言葉にしてもそこに魂が宿っていて、こんなに美しい国はないと思うんです。

私は、2年前に台湾の人に呼ばれて、八田與一さんという台湾でダムを作った人の講談をやったことがあるんですが、彼らは、日本に対してすごい想いがあるんですよ。だからこれからも講談を使って、こんなに素晴らしい人がいるよっていうのを伝えるのが講談師の役割だと思っています。私は海外の人たちでも話道家をつくっていきたいと思っています。話道家として、朗読する人、ガイドする人、司会する人など、語れる人の幅を広げていきたいんです。

でも一番は、今、戦争体験をした人が高齢化してしまっているので、その人たちから我々が受け継いで、戦争ってのはこんなに悲惨なものなんだよっていうのを伝えていきたいんです。その役割を話道家がしなきゃいけないと思っています。

私は子どもの頃からずっと変な夢をみるんです。世界中の色んな人たちが、みんな笑顔で円になって手を繋いでいる映像です。だから、私がこの世に生まれてきた役割は人を笑顔にすることなんだと思っています。世界各地で話道家が増えれば、間違いなくその夢は実現されると思うんです。

記者 
講談の魅力とともに話道家がどんどん広がり、世界中の人たちが笑顔になればよいですね。本日はありがとうございました。

神田山緑さんに関する情報はこちら
↓↓

◇公式WEBサイト

◇公式怪談サイト(怪談家神田山緑)

◇一般社団法人日本話道家協会 サイト

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【編集後記】
今回、インタビューの記者を担当した、見並、陣内、山田です。山緑さんのお話を伺い、講談には日本の精神と和心が詰まっていると感じました。そして、世界中の人びとを笑顔にさせる可能性を秘めた美しい日本を残してくれた先人に対する恩義と、その精神を受け継ぐ力強い意志を感じました。山緑さん、貴重なお話をありがとうございました。


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