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歌舞伎の楽しみ 〜大道具の特殊な演出〜

「走り込み」

例えば「忠臣蔵・四段目」判官切腹の場
正面の襖が開くと塩冶判官が立っています。判官の後ろには白い壁のような背景が見えます。

この白い壁のようなものを「走り込み」といいます。
白い背景に黒い衣装の判官の姿がくっきりと浮かび上がっています。
周囲には余分な装飾もなく、観客は純粋に役者の身体の持ち味、位、格、芸のあるなしを見ることができます。
歌舞伎の芸で特に大事なのは「出」と「引っ込み」ですが、この「出」を強く印象づけるのが「走り込み」で、「出」の第一印象で勝負が決まる、いわばテストペーパーでもあります。

もう一つの例。
「熊谷陣屋」で物語を終えた熊谷が「軍次はおらぬか、軍次、軍次」と部下の堤軍次を呼びながら正面の襖に入ります。この時も襖の開いたところは「走り込み」です。熊谷はその前で後ろ姿のまま一旦静止してその後襖は閉まります。

熊谷が静止するのは、そのことによって熊谷の役の格を示すことになるのです。同じ襖に入っても、脇役や端役は一旦止まらず、襖が閉まる前に歩き出します。
「走り込み」は、御殿、陣屋、大名屋敷には必ずあってそれは襖に限らず障子のこともあります。
これを「壁」と見られがちですが、実は、壁ではないのです。先ほど書いたように、「走り込み」は、役者の姿のテストペーパーで、現実的なものでなく、抽象的なものなんです。
その証拠に、「忠臣蔵」の「走り込み」はのちに襖を開けると「千畳敷」になり、「熊谷陣屋」のそれは一ノ谷の遠景になります。


これは、いわば、装置(大道具)の「引抜き」と考えてもいいです。
「引抜き」は、歌舞伎の舞踊でよく見られる舞台上で一瞬のうちに衣裳を変える手法で、その人物の性格がガラリと変わることを意味しています。
つまり、「走り込み」から遠景への変化は、引抜きが登場人物の性格を変えるように、その場の世界の性格の変化を意味しているのです。
「忠臣蔵」でいえば、由良之助が判官の敵を討つ本心を初めてみんなに明かすことで、ここで由良之助が本性を表す場面であり、「熊谷陣屋」では、それまで、熊谷の女房相模や旧主の藤の方との私的な場面が、義経の登場によって、首実検という公的な場面に変わったことを意味します。

もう一つ「白緑(びゃくろく)」についてお話しします。
「白緑」とは、二重舞台と平舞台の間に置いてある小さな箱、「踏み台」「階段」をいいます。高さは21センチ、幅は大体120〜180センチで、なぜ「白緑」と言うかは分かりません。

「菅原伝授手習鑑・寺子屋」での「白緑」

時代物でも世話物でも、その屋体はその形がほぼ決まっています。二重屋体と平舞台に分かれていて、その真ん中に「白緑」があります。
「寺子屋」「すし屋」はもとより、「弁天小僧」の浜松屋、「髪結新三」の白子屋などの商家にもあります。
 なぜでしょうか?
まず二重屋体と平舞台を繋ぐ通路と考えられます。登場人物は誰でもこの「白緑」を通って二重と平舞台を行き来します。

「白緑」は「尺高(所作高)」では使いません。「常足」だけで使い、それより高い「高足」「中足」になると、何段かの階段になります。
「熊谷陣屋」や「廿四孝」では白木梯子、「太功記十段目」や「毛谷村」などの装置は俗に「入れ歯」と言う木の土留めのついた階段です。

これが館のうちになると、「白緑」は横に長くなって黒塗りになります。

ところで、舞台上で一段と高い屋体「二重」とは何でしょうか?
これは、例えば、二重の上に座る人間と、平舞台に座る人物は、身分、世代が違うのです。つまり、置かれている世界が違うと言うことです。

「義経千本桜・すし屋」の場合を見てみましょう。
最初、すし屋の主人弥左衛門夫婦は二重の上にいて、息子の権太、娘のお里、下男の弥助は平舞台で演技をしています。親子という世代と主従の身分の差がはっきりしています。ところが一転、弥助が三位中将維盛とわかると、今度は弥助が二重に座り、弥左衛門は平舞台下手に座ります。ここで身分が逆転したことになるのです。

それと同時に、客席から見て、一階席は傾斜も少なく、こうして立体的に舞台を作れば見やすくなり、歌舞伎の特徴でもある「絵」になるのです。「絵面」ということを大事にする演劇的表現がそこの現れるのです。

このように見てきますと、「白緑」は単なる通路でなく、二重と平舞台をを繋ぐ大事な接点であることがわかります。そうすれば、何気なく「白緑」や「階段」を上り下りする役者の姿が一幅の絵になり、その役者の芸の味わいが出てきます。それを知れば階段にも多くの「しどころ、見せ所」がることに気付きます。ーー

「阿古屋」の白洲梯子」、ここで阿古屋はこれ見よがしに衣裳を観客に披露します



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