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歌舞伎の楽しみ 〜茶屋場、廓場〜


忠臣蔵7段目 祇園一力茶屋の場

歌舞伎で「喧嘩場」といえば「忠臣蔵・三段目」の塩谷判官刃傷の場、「茶屋場」といえば、これも「忠臣蔵・七段目」です。
この七段目の一力茶屋の場から「茶屋場」という言葉が生まれてきました。
大石内蔵助が祇園の一力茶屋で遊んだという実説に基づいた場面ですが、歌舞伎の本質が本来は、遊郭の男女の色模様を描く演劇だったという伝説によっています。
歌舞伎が「廓の遊女買を主題に成り立っている」ことはご存知の通りです。
歌舞伎の持つ遊びの精神は、男が女を買う、その遊びの男女のゲームの中にあったもので、歌舞伎の持つ遊び、色っぽさ、ナンセンスな笑い、それらがすべてここから成り立っているのです。

歌舞伎のルーツは「出雲の阿国から始まっています。

出雲阿国

男装の阿国が傾城買に行くことに歌舞伎の原点があります。
その流れから、初期の元禄歌舞伎には「傾城買狂言」が席巻しておりました。そこには「やつし事」に代表される上方和事の演目が多くみられます。
当時、近松門左衛門が書いた歌舞伎の演目の代表的なものには「傾城仏の原」や「傾城壬生大念仏」などがあります。
近松門左衛門は浄瑠璃作家でしたが、ある時には歌舞伎の作家としてもその台本を書いています。それらはすべて当時の名優坂田藤十郎のためでした。
藤十郎は、延宝六(1678)年、「夕霧名残の正月」で藤屋伊左衛門を演じて大当たり、以後18回彼はこの役を演じていたと言います。    (耳塵集)
もっとも、いま上演されている回数の多い伊左衛門は「廓文章」という演目の一幕の主人公ですが、これは近松門左衛門の人形浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」を書き替えたものです。

「廓文章」の藤屋伊左衛門

藤十郎の芸風に心酔した近松門左衛門は、その後も「傾城仏の原」、「傾城壬生大念仏」など、その時代を代表する傑作を藤十郎のために書いています。

しかし我々は、「茶屋場」、「廓場」という演目でまず頭に浮かぶのは、江戸歌舞伎の代表的な演目の、歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」でしょう。

助六の舞台は江戸吉原です。
柝がチョンチョンと二つ入ると、「夜桜や〜」の下座が始まり、幕が開きます。
もう、この雰囲気だけで江戸の遊郭吉原が暗示され、観客はそれに浸ります。
幕が開くと、そこは吉原三浦屋の格子先です。朱塗りの格子の向こうには、旧来の舞台なら遊女たちが張見世という客引きのために並んでいますが、今は口上の役者の登場です。
「助六」という芝居の筋は実に単純、廓に大勢の人(男)が入り込んできて女を奪い合う、そのうちに助六が、実は曽我五郎と分かって、恋敵でもあり、曽我兄弟の仇討ちに必要な重宝の友切丸という刀を持っている「髭の意休」を殺す、それだけです。 それを約三時間かけて演じます。
それは、このドラマが、吉原というトポスを舞台にした「群集劇」であるからなのです。
江戸時代から明治の九代目團十郎の頃まで、この演目が上演されると、
吉原から、助六の身に付ける紫の鉢巻、蛇の目傘、黒の紋付き衣装、下駄、印籠が贈られ、花魁、芸者、太鼓持はじめ、吉原中が団体で観劇しました。
劇場周辺の芝居町では、小屋の周辺に桜を植え劇場の中にも花道、桟敷に桜、提灯で飾ったといいます。芝居茶屋でも吉原の引手茶屋と同じ暖簾、提灯、行灯をつけて吉原に変身しておりました。

花道の助六の出端

江戸時代、遊郭と芝居は「悪所場」と言われていました。「悪場所」ではありません。
 悪場所 〜単に悪いところと言う意味で、特定された場所ではない
 悪所場 〜単に悪い場所ではない。遊郭と芝居、悪所が一つに集まった世界と
     して一般社会から自立対抗して自己を主張するトポス(場所)という意
     味をいう
江戸の悪所場は、新吉原、木挽町、堺町、葺屋町の江戸三座で、幕府公認の遊郭と芝居でした。

悪所場であった理由は、実は、遊郭と芝居は「双子の兄弟」ともいわれていました。 その理由は
①  遊郭も芝居も共に人間の身体を売る場所でした。
 新吉原は単なるセックス市場ではありません。ここは「文化サロン」でした。
 女と寝ないで帰る客はいくらも居たし、初回(初めて女と出会う)の客は女と
 寝ません。売春の街であることに変わりはありませんが、ここから浮世絵、狂
 歌、音曲などの流行が生まれたサロンでした。
 一方芝居も観客は役者の身体を鑑賞、めでさわっている(視姦)、その上、当時
 の役者は「役者買い」の客には身体を売っていたという事実もありました。
②  歌舞伎の初期は「傾城買い」の演目が大きいウエイトを占めていました。
 特に上方では、歌舞伎初期には「傾城買い」の演目が多く上演されていまし
 た。「傾城買い」の演目は、遊郭に客が来て女と関係するまでを描いたもので
 す。
実は、助六もその伝統をひいているのです。

「助六」の芝居の面白さは、廓に住む人、廓に関わって生活する人、の姿を描い
ています。そこには廓の雑踏、廓の時間、廓の生活、人生が描かれています。
  金棒引きが出る。  揚巻の行列(花魁道中)がくる。 白玉の行列が来る。
  助六が来る。  くあんぺら門兵衛が来る。  朝顔仙平が来る。
  福山の担ぎが来る。  白酒売りが来る。  国侍や通人が来る。
  深編笠の満江が来る。  意休が来る、、、、。
人々は舞台へ来て、去ってゆく。
それが「助六」という芝居の本質です。紅殻格子の三浦屋の表がかり、夜桜、
そこに人々は集まり、散り、散ってはまた集まる。
ここは「雑踏」です。この芝居の主役は助六でも揚巻でもありません。
江戸吉原の「廓」です。
この芝居は、幕開きの華やかさ、明るさから少しづつ夜が更けてゆくそれに従ってあたりの景色もいかにも寂しく、人の心に染み渡る風情が感じられます。三浦屋格子先のたったひと場で、吉原の一日の生活の哀感を描き、そこに生きる人たちの人生を、気質を描いているのです。

それでもやっぱり、助六、揚巻、、、。
「この五丁町へ足をふんごむ野郎めら、まず俺の名を手のひらに三べん書いて舐めろ、一生女郎に振られるということがねえ、、」
こういった自己紹介する男、嫌味のはずだが、助六くらい皆に好かれる男は居ない。女だけではないのです。男にも好かれてるのです。
表向きの筋は、揚巻をめぐる間夫の助六と客の意休との達引ですが、中味は曽我五郎である助六が、実は、平家の残党伊賀平内左衛門である意休の持つ刀こそが
源氏の重宝の友切丸と目をつけて、なんとか手に入れようと喧嘩を売っては刀を抜かせるという苦心談でもあるのです。

筋の真髄は「荒事と和事」のドッキングした助六の姿にあります。
①   次々いろんな人物が登場する人間模様。「お前は何者だ」と問われ、「遠くは
 八王子の炭焼き爺から、近くは山谷の古遣手、梅干しババアに至るまで知らぬ
 者はない」と粋がって見せる饒舌の快感
②   その喧嘩沙汰、意休を挑発、一転、通りすがりの通行人に股潜りをさせる
③   助六、実は、曽我五郎の母満江が登場、意見の紙衣を着せる。 荒事の荒ぶる魂
 をたぎらせる助六を「紙衣」という和事のシンボルで包む母の戒め

助六という芝居の醍醐味は「悪態の饗宴」にもあります。
助六が登場する前、意休が「あれは巾着切りだ」と悪口を言うと、すかさず揚巻は敢然と、恋する男のために啖呵を切って傾城の張りと意気地を見せます。
 「お前と助六さんとは雪と墨ほども違う」とか「同じ海でも客と間夫とでは硯の海と鳴門の海ほど深さが違う」、また「間夫がなければ女郎は闇」など、溜飲のさがる言葉の洪水を浴びせます。
これが「悪態の初音」です。

助六が江戸なら、「吉田屋」は大坂です。
「吉田屋」は大坂新町の廓の格子先とその座敷を描き、男が女を買う実態を描いています。ここでは助六の廓の雑踏ではなく、まさに、男女の密室の恋の達引です。
助六の超現実的な感覚とはまるっきり違います。

夕霧

古風な舞台演出が、初期の「和事」の典型的な演技、演出をと伝える舞台として
貴重なものです。

「京鹿子娘道成寺」のまり歌には、全国の「廓づくし」があります。
  吉原、島原、伏見、大坂、室の津、下の関、丸山、、、

昔の古い演目には、大抵一日の芝居のうち、「廓場」と言うものがあったらしいといわれております。


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