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幼いころの自分に習う。

私は普段、SNSや情報キュレーションアプリを駆使してたくさんの情報を浴びる...ようにしていました。ついこの前までは。

なぜ自分に心境の変化が起きたか。

それは客観的に見たときに、情報を浴びている自分の姿そのものに強く違和感を感じたから。

考えてみてわかったことがあります。

その違和感の正体は何でしょう。

自分が「情報を浴びていた」と思っていた姿、それは「思い込み」であって実際はそれとは異なることを認識しました。

自分がやっていたことは「自分の人生の答えになるようなのものを探そうとしていた」ということ。すなわち、「誰かが人生で導いた解をカンニングして自分の答案に書き込もうとしていた」のです。

無論、カンニングはダメなことだろうが、そんなことより自分自身の人生に対して狡猾である行為をしていたことが許せない。何をしているんだ、自分。

と、なったわけです。


どんなにいい情報であってもそれが自分に適しているかどうかは別問題。

例えば、短時間睡眠法みたいなものの成功例があったとします。確かに耳寄りな情報かもしれない。しかし、その方法が自分にも合うかどうかは別問題であることもまた事実。このようなケースが情報アプリにはゴロゴロ転がっているように思います。

大事なのは情報を選抜する基準を常に「自分自身」に定めておくこと。今回はそれを学んだというか、そもそも意図できていたことなので改めて気を引き締めないといけないなと思ったことでもあります。

そして何より、「何かの問題に対しての解答は見つけるものではなく、自ら導き出すことによってしかその解にたどり着くことはできない」という前提を持っておかないとすぐに情報の洪水に飲み込まれてしまうように思います。「情報の洪水に飲まれた=受動的に過ごしていた」という考えです。

私が答え探しに安易に走ってしまったのは、受け身で過ごしているほうが楽だからでしょう。(この点に関しては日本の場合、教育現場にも問題はあるとは思いますが。)


ただし、情報を率先的に集めに行く行為自体を非難はしていないことに注意したいです。我々の祖先は食糧となる肉や穀物をを自ら狩りにおもむき、もしくは育てたように今はその対象が「情報」に変化しただけでやろうとしてることは変わってないと私は考えています。

大昔だろうが今だろうが、誰かの獲物を口を開けて待っていたって誰もその空腹を満たしてくれるわけがないのにそれに近いことをやっていたのはまことに滑稽です。アホらしい。

んー、口を開けて待っていられる「子ども期」が羨ましい。笑

私は、自分の中にある「子ども」の思考がまだまだ抜けきれていないようです。

ただ、その「子ども」の自分もバカにはできなくて、幼少期に習うこともありました。

よくよく考えてみれば、子供のころは別に情報なんか必死に集めなくたって幸せに過ごせていたじゃないか!と。友達と缶けりしたりポケモンしたり、女の子にモテようとカッコつけたり。

では「大人」になろうとしている今、その頃といったい何がどう違うのでしょうか。

ここが面白いところ。残念ながら、ここに関する私の結論は出ていません。

「幼い頃」に持っていた純粋無垢な気持ちというのは一つ、大事になるポイントかもしれないと思います。情報を狩る前には心がけておきたい部分。

今日の発信された情報をみれば憧れのあの人はこの前「◯◯は▲▲だ!」っていっていたのに今度はそれと逆の立場の発言をしていることがザラにあるように思います。これが時代の流れの速さを象徴しているのかその人のおつむが残念なものなのかはわかりません。

もちろん人でなくても、この記事ではこう書かれているのにあっちの記事ではそれと対立する内容が書かれているということは多くの方が経験があるのではないでしょうか。

何であれ、受動的に生きるよりは、子どもたちのピュアな心でまっすぐに生きている姿の方が私の目には何十倍も輝いてうつるんですよね。





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