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面白くない人。

僕は人に対して真に好きか嫌いかという感情はよっぽどなことがない限りはおこらない。

一方で、よく引き起こされる情動もある。それは、「面白い・面白くない」という評価だ。「面白い」と思った場合には本当に語彙力を疑いたくなるくらい「面白い」というシールをなんどもなんども張ってしまう。僕自身は「面白い」しか言わない面白くない人間になってしまうのである。笑

なぜそうなってしまうのかというと、最初は自分でも何が「面白い」と思うのかよくわからないからだ。その「面白い」というシールのほとんどは僕の「直感」がつくり出してしまうから、僕はその何枚も何枚も発行してしまったシールの1つ1つに「Why?」を投げかけ、そのときにとったメモを頼りに「その理由」を言葉に落とし込む。するとほら、その人にしか持っていない特質、価値観、批判、反面教師材料、社会課題などなどたくさん出てくるではないか、と。この瞬間、やっとその「面白い」というモヤモヤをスッキリと受け入れられるのだ。

残念ながら「面白くない」と思ってしまった場合、僕はそのシールを貼り付けることさえ面倒臭がってしまう。それよりも、絶対他に「面白い」と思える部分があるはずだから、その人の面白い部分を探すことに一生懸命になる。

ただ、その努力さえ無謀と思わせる人も一定数いる。僕が「面白くない」というシールを最終的に貼り付けてしまう人。さて、どんな人だろうか。これは簡単。自分のことしか考えていない人。「エゴイスト」だ。

エゴイストとわかってしまった折には、僕の興味センサーは一切機能しなくなる。なぜならシンプルに「面白くない」から。理由になっていないか。そもそもなぜ「面白くない」のかをいちいち考えるまでもない。僕が「面白い」と思えるのは人間社会への貢献に通じるであろう内容であることが前提条件。その点、エゴイストの化学反応なんてたかが知れている。まだ誰かの誕生日のお祝いにでも使うクラッカーの方がマシだろう。

日常の話でもそうである。人のことを考えて動いている人と自分のことしか考えていない人の区別は行動・言動・表情・身なりといった部分である程度判断ができてしまう。例えば、僕は飲食店のバイトがら、オーダーをされるお客様の言葉遣いの特徴を必然的に観察することになる。こちらへの気遣いをされる方。朗らかな雰囲気だし、商品をお渡しした時には丁寧にお礼をいってくださる。

一方で、対照的な人は言葉遣いが荒々しく、険しい顔をされていることが多いように思う。商品を渡してもそのポーカーフェイスに変化が生じる様子もなく、パッと受け取ってさっさと店を出てしまう。どこまでも無機質なのだ。

なぜ、利己主義者が面白くないと思うのか。自分のことを客観視できていない時点でもう説明はつくが、要するに教養が不足していることがわかるからだ。簡潔に言えば、わたし達は日々生きている身でもあるし、「生かされている身」でもある。生きている身というのはデフォルトだ。

一方「生かされている身」であることを自覚するには「他者の存在」が自分の世界のどこかにきちんと位置づけされている必要があると考えられる。親、友人、企業、自治体、政府、社会といったように、誰かの社会貢献があるから自分が今この瞬間に送ることができる生活があるという見方は、そういう自覚からしか生まれないと僕は思う。その視点をもつためには、特に歴史的な視点もそうだろうし、世の中のことを理解する力という支えが必要ではないだろうか。

と考えた時、やっぱり問われるのは「勉強量」というか、どれだけの教養を今まで身につけてこられたのかが大事になってくるように思うのだ。

ひとは誰かに支えられながら、生きていく存在である。

これは自然の摂理だと僕はとらえている。である以上は、僕自身も、あなた自身も誰かの支えになってあげないとフェアじゃない。それこそ、誰かにはなくて、自分にしかない「武器」の生かしどころの話ではないだろうか。

その「武器」こそ、僕の「面白い」センサーの大好物。世の中には「面白いひと」がたくさんいてほしいし、増えれば増えるほど、この社会はどんどん良くなっていくだろうから。


無機質はもう、十分だ。飽きる。



終わり。

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