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ホームをレスした話(15)

センスのある損をする奴が新しい。

家なし生活を続ける中で、一点、極めて重要な発見をした。様々な人々のご自宅にお邪魔する日々を過ごしていた(これは結構稀有な体験だったと思う)のだけれど、あ、なんだかこのひとはいい感じだなと思うひとのご家庭には、必ずと言っていいほど『花』が飾られていることに気が付いた。

空間に花が一輪あるだけでも、一気に潤いが生まれる。この違いは大きい。花を愛でるためには余裕が必要だ。よく、ひとは「花を買う余裕はない」と言う。が、私は「逆だ!」と思った。花を買う余裕がないのではなく、花を買わないから余裕が生まれないのだ。多分、これは真理だ。そう思った私は、以降、隙を見つけては出会う人々に問答無用で花を贈るようになった。

これは人類全体(特に男性!)に強く薦めたい。花を買うとか、花を贈るという行為には「なんだかいい感じアトモスフィア」が降臨する。最強の平和活動だと思う。花を贈るのに理由は要らない。よく、男性は「どんな顔をして(どんな言葉を添えて)花をあげたらいいのかわからない」と言う。が、理由は要らない。ただ「はい、これ」と言って渡せばいい。受け取った側も、理由など問わない。経験則上、無垢な笑顔で「おはなをもらうなんて久しぶり!」と、よろこびをあらわにしてくださる(ことが圧倒的に多い)。

くどいくらいに薦めたい。理由を問われたら「なんとなく」で充分だと思う。変に花束を選ぶより、一点勝負の一輪挿しでいいと思う。迷ったら向日葵かガーベラを選べばいい。一輪百円から二百円程度で、見栄えは最高だ。花を買うと、誰かに会うことが通常の数倍楽しみになる。数百円でこんなにも素晴らしい贈り物を買えるこの世界を、なんだか素晴らしいなと思える。

豊かな家には花がある。

これは極めて重要な発見だと思う。何度でも言いたい。口を酸っぱくして言いたい。花の素晴らしさを話したいがためにこの自伝風物語を書きはじめたと言っても過言ではない。花を贈る際、名刺サイズの手書きのメッセージカードを添えることを薦めたい。手書きのあるなしは大きい。文字はヘタクソでいい。小さく「i wish you love」などと書いたらおしゃれだ。が、あまりにも気取りすぎると変になるので、添える言葉はシンプルでいい。あくまでも主役は花だ。自分をよく見せるために花を利用するのではなく、あくまでも「花っていいよね!」という、カラッとした共有感が大事なのだと思う。

カラッとした共有感、で思い出すエピソードがある。

ある日、いばや界隈で「センスのある損をする奴が新しい」という言葉が流行した。センスのある損とはなにか。例えば、私を家に泊めるということ、食事を奢るということ、及び、交通費を負担してまで召喚するということは、損得勘定で言ったら損になる。が、一般的に見たら損だと思われることを、損とは知ってか知らずなのか、嬉々としてやってくださる人間がいる。

おはなを配るのも似ている。配れば配るだけ赤字になる。が、損をしているはずの自分の方が「なんだかいい感じになっちゃう」機会は多い。感覚的な言い方になるが、いま、いいお金の使い方ができているなと思う。普通、人間、誰だって生きている限り『得』をしたいと思う。が、誰もが得を求めるものだから、得ロードは大渋滞を起こしている。故に、得をしたいと思っていてもなかなか得をできる機会は少ない。その点、損ロードはガラガラだ。

かと言って、ただ、闇雲に損をすればいいという話でもない。そこで「センスのある損」ということになる。問われているのはセンスだ。いばや界隈では「最初はみんなダサかった」ことをファッションに通じて思い出した。みんな、昔は、クソダサい服装を平気でしていた。何度も、何度も、何度も、無様な失敗を重ねることで「自分に似合う服装」を獲得する。損も同じだ。

損界(損の世界)においては、みんなまじでクソダサいのがいま。だがしかし、ここで、いばやが損界の最先端を走ることで、たとえば『この損はいい感じだった!』とか『この損はまったくやる必要のない損だった!』みたいな感じで、徐々に損のセンスを高めあえたら面白そうだねという話をした。

ら、奇跡が起きた。

ある日、福島県在住の男性から連絡が届いた。そこには「僕も何かセンスのある損に関してできることはないかなと考えていたのですが、自分の車を坂爪さんに自由に乗っていただくのはどうかなと思いました。それで日本全国を巡られてもいいですし、好きなだけ乗り回していただいて結構です。僕が乗るよりも、坂爪さんに乗っていただいた方が《結果的にとんでもないわっしょい状態になる》んじゃないのかなって思ったのです」と書かれていた。

そして、メールの最後には「クルマは、リンク先の黒いゴキブリみたいなやつです」と書かれていた。私は「黒いゴキブリ??はて、なんだろう??」と思ってリンクを開いた。ら、アゴがはずれた。男性が言うゴキブリとは、なんと、ポルシェという高級ブランドのスピードスターという車種だった。

私は「ポ、ポ、ポルシェ!」と思った。社会的底面を滑走する私に、突如、ポルシェが与えられた。私は、現実を受け入れることができなかった。10話目に書いた、ゴールドコーストで豪華クルーザーが与えられた瞬間の衝撃と似ていた。豚に真珠。ホームレスにポルシェ。なんということだろう。

私は、この衝撃を自分ひとりでは消化することができなかった。ので、いばや界隈の方々に「ポルシェが来た!ねえ、俺、どうすればいい???」とメールを送った。ら、いばや界隈の方々も「まじか!」と一緒に激震してくれた。この瞬間、私は思った。真の意味でセンスのある損は、当事者だけではなく、周囲の人間のテンションも同時に『アゲる』力があるのだと思った。

福島県の男性は言う。

楽なクルマじゃないですが、楽しいクルマだと思います。僕は、このクルマが大好きなんです。坂爪さんに乗り回していただくことで、なにかおもしろいことが起きれば、もっと楽しいことになるのかな、って思ったのです。

私は「神か」と思った。そして思った。自分が素晴らしいと思うものを、自分ひとりで独占するのではなく、周囲と分かち合おうとする心意気。それが素晴らしいのだと思った。これこそが『センスのある損』だと思った。なんて粋な発想だろう。なんて粋な心意気だろう。そうだ、私は、こうした人間の心意気に触れたくて、このような生き方(?)をしていたのだと思った。

そして、私は「所有はダサい。共有はヤバい」と思った。正直、誰かがポルシェを買ったところで、周囲の人間からすれば「あっそ」程度で終了する。このご時世、高級な家や高級な車を買って「どうだ、俺はすごいだろう!」と自慢をしたところで、周囲からは「あのひと、バカなんじゃない?」などと軽蔑をされるだけだ。金の使い方を知らないバカだと思われて終わる。

が、所有ではなく「共有の態度」を示した途端、周囲の見方はガラッと変わる。所有を自慢されると誰だって敵愾心を抱く。が、そうではなく「自分は本当にこの車が好きで、この車の素晴らしさをみんなにも知ってもらいたい。だから、自分が使ってない間はみんなにも自由に使ってもらいたい」的な感じで共有の態度を示された途端、なんだ、このひとめちゃくちゃいいひとだぞ!という感じになる(ならないだろうか。私は、結構、なります)。

私は、正直、車に興味はなかった。しかし、突然「ポルシェに乗ってもいいですよ」というオファーが舞い込んだ瞬間、私は「うおー!タダで乗れるなら乗りたい!ポルシェ最高!」と思った。多分、これをミーハーと言うのだと思う。所有をしたいとは思わないけれど、体験できるものなら体験をしてみたいと思うものは、多分、誰にでも(ひとつくらいは)あるように思う。

我々は、福島県を目指した。ポルシェの男性と合流をする。

結論から言うと、その後、我々がポルシェを使うことはなかった。理由は諸々あるが、車があまりにも高級で使い倒すのに忍びなかったこと、移動生活が続くために車に乗る時間がなかったこと、車は無料でも駐車料金やガソリン代金がバカにはならないと判断したこと、車に乗ると運動不足になるために「今世は足だな。0円だし」と思ったこと、などが大きな要因だった。

ホームレスがポルシェを乗り回していたら面白いだろうなとは思った。が、ホームレスがポルシェを断るのも、それはそれで面白いなと思った。そして「不思議だな」と思った。誰もが憧れるようなものが与えられようとしているのに、それを断る自分がいる。豪華クルーザーしかり。ポルシェしかり。私は、もう、何が贅沢なのかがわからなくなった。ポルシェをもつことが贅沢なのか。それとも、実は、何も持たないことが一番の贅沢なのだろうか。

ポルシェは素晴らしい乗り物だった。こんなものに毎日乗れたら楽しいだろうなと思った。が、同時に「たまに乗れたらそれでいいや」と思う自分もいた。「この贅沢に慣れてはいけない」と思う自分もいた。正直に言うと、車は別に無用だなとも思った。色々なことを感じた。色々なことを感じたけれど、今世は「無いに賭ける」道を選んだ自分だ。当面は、なにも無いまま生きてみよう。このまま、無一物のままで、どこまでいけるか試してみよう。

そう思った。

人生は何が起こるかわからない。普通、なかなかポルシェに乗る機会は(大富豪か大富豪の愛人でもなければ)ないと思う。が、しがないホームレスに高級車が与えられる、そんな世界は愉快だなと思った。誤解されると困るが、私は「どうだ、俺はすごいだろう!」と自慢をしたい訳ではない。そうではなく、生きていれば、時折、予測不可能な出来事が生じるこの世界の素晴らしさ、面白さを、みなさまとも共有できたらうれしいと思っている。

センスのある損とはなにか。謎だ。ただ、自分が「家のない生活」を選んだことは、損業界において、もしかしたら結構いい感じのチョイスができていたのではないだろうかと(手前味噌だけど)思った。同時に、おはなを配るという活動も、間違いなく、私の人生を豊かにしてくれるもののひとつになった。得をする道ではなく、進んで損をする道を選ぶことが、結果として「自分の日々を豊かにしてくれる」という、人生の逆説を強く感じていた。

これは余談になるけれど、私は『わたり文庫』という循環型の図書館をやっている。私は本が好きだ。だから、家があった頃は本棚に大好きな本を収集していた。が、ある日、ふと思った。ここにある本は、自分が所有をしている限り自分しか読むことはできない。が、もし、自分がこの本を素晴らしいと思うのならば、独り占めにしておくのは何かが違う。素晴らしいと思うものこそ、所有ではなく共有をするべきなのではないだろうか、と、そう思ってからは「ええい、ままよ!」とすべてを投げ出すようになった。自分が大事だと思うものこそ、所有をするのではなく、共有をするようになった。

これらの活動は賛否両論を生んだ。愚かだと罵倒する人もいれば、素晴らしいと絶賛する人もいた。バカだと言う人もいれば、天才だと言う人もいた。私は、もう、なんとでも言えと思った。誰かに何かを言われても、(もちろん、最初は自分自身ももったいないかもと思うことはあったけれど)自分の心が感じる爽快感は本物だった。ああ、俺の中にも、気前の良さがあったのだ。きっぷの良さがあったのだ。そう思える瞬間の中には、大袈裟だけれど自分に対する信頼を取り戻すことできるような、そんな清々しさがあった。

私の存在を見つけてくれた、ある女性がこんな言葉をくれた。

毎回面白すぎて驚いて思考停止します。(中略)坂爪さんを見ていると、何も持たないことが、全てを持っていることを体験する切符のようにも思えます。本当のことなんてなんだか分からないけど、やっぱり面白いです。

何も持たないことが、全てを持っていることを体験する切符のようにも思えます。と。素晴らしい表現だと思った。言われている自分が感動した。家のない生活をしていると、周囲の人々から「すごいですね!」とか「勇気がありますね!」ということを頻繁に言われる。が、私は、そんな感じの言葉を言われてもいまいちピンと来なかった。確かに、家のない生活をしている自分はすごい人間なのかもしれないけれど、こんな自分を「生かすためになにかをしてくれるひとたち」の方が、よっぽどすごいだろうと思っていた。

冷静に考えて見て欲しい。ホームレスに食事をご馳走したり、ホームレスを家に泊めたり、ホームレスに旅費を出したり、ホームレスに豪華クルーザーを与えたりポルシェを与えたりしようとしてくれる人間がこの世の中にはいる。これって、結構やばいことではないだろうか。この星には、意外と、自分が思っている以上に「優しいやばさにあふれている人たちがいる」ということを、これらの出来事は、如実に物語っているとは言えないだろうか。

すごいのは自分ではなく、自分を生かしてくれる人々である。そして、彼らの「センスのある損」が、当事者だけではなく、それに触れた人々の心までホットにする。世界の温度を少しだけあげる。殺伐とした世の中を「捨てたもんじゃないな」と思わせてくれるパワーになる。これは、なんとも言えず素敵な連鎖ではないだろうか。素敵な連鎖を生み出すこと、それこそが『共有』の醍醐味であり、これこそが『循環』の醍醐味なのではないだろうか。

だからこそ、なにかをやるときは「みんなが幸せになる方向に舵を取る」ことが大事なのだと思った。自分のモノを、自分の体験を、自分のためだけに使うのではなく、みんなが幸せになる方向に舵を取ることで、よろこびは何倍にもなる。無論、毎回うまくいくわけではない。が、それをやっていなければ絶対に遭遇できなかった『素晴らしい瞬間』が、人生には確実にある。

ここにひとつの人生訓が生まれた。道に迷う時は、自分が「損」になる道を選ぶこと。さすれば、道は開ける。誰だって、生きている限り得をしたいと考える。が、宇宙は「マイナスでもいい」と開き直った人間に強さを与える。そう思った私は、もう、こうした『人生の逆説』に賭ける道を選んだ。

ら、奇跡が起きた。

(つづけ・・・)

バッチ来い人類!うおおおおお〜!