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第96弾「エターナル」

ハーイ!みんな元気?あたしけいご。

96曲目はこれ。エターナル。滞在しているホテルに冷房はなく、油断をしていると室温35度のなか脱水症状を起こす。そんなときは『マグマ塩』をなめる。この塩はアルカリ性で、一説によれば「人間は体をアルカリ性に保つ限り病気にならない」とも聞いた。温泉卵みたいな味がするマグマ塩。舐めると「血を舐めている」みたいな気持ちになって、一命を取り止めます。

「エターナル」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

忘れたいことも 忘れたふりして
思い出せる光を 強く握りしめて

通り過ぎていく たくさんの出会いと
きっともう何も言えない 君の物語と

大事なものが いつまでも
そばにあるとは 限らない こと

そんなこともまだ 知らないでいられた
無邪気な 時の 海を 分け合っていた

はじめて君を 見た時のような
震える 胸の 高まりも もう

悲しいくらいに 忘れて しまうことも
この悲しさでいまを生きていけることも

最後の時まで ただ 尊かったことも
思い出せない なにも ・・・・・・

生きているといろいろある。苦しいことも、嬉しいこともある。でも、じゃあ「先月一番楽しかったことは???」って突然聞かれても、意外と答えられない自分がいる。同じように、どれだけ苦しい思いをしても「先月一番苦しかったことは???」とか聞かれると、意外と、答えられない。確かに生きていたはずなのに、その『確かに生きていた』ことを忘れる。忘れることは、ネガティブにも、ポジティブにも働くもの。ただ、どちらかと言えば、悲しいことだと思う。悲しいくらいに忘れてしまうし、悲しいくらいに「いまを生きる」ことしかできない。逆に言えば、この悲しさがあるからこそ、生きていくことができる(とも言える)。という訳で『エターナル』です。

実は、今日、これからバンコクで日本人のひとと会う。そのひとは、あたしがバンコクにいることを知って、急遽、日本から来てくれることになった。あたしは、そのひとに会えることがすごい嬉しくて、大袈裟だけど「バンコクに来てよかった」って思った。日本で会ってもいいのだけれど、邪魔がはいるというか、どうしても『日本の背景』をひきづってしまうというか、何者でもない自分でいることが難しくなる。会社員だとか、主婦だとか、無職だとか、そういう肩書きがついてまわる。物理的に日本から距離を置いて、お互い『一匹の動物』として会えば、また日本とは違う会話ができるような気がする。そういう予感がある。人間と話ができる。その予感が、あたしを嬉しくさせているのだと思う。一人の時間が長かったからこそ、とりわけ。

人間の三大欲求は食欲・性欲・睡眠欲って言われている。これ、どこかの偉いお坊さんが、性欲って『コミュニケーション欲』なんだって言っていた。なんとなくわかる気がする。これだけ大量の人間がいるのに、毎日、誰かしらと会話をしているはずなのに、それじゃあ「しっかりとコミュニケーションを取れているか」って聞かれたら、その実感が強くあるひとって少ないと思う。表面的な話なら、いくらでもできる。でも、自分が本当に話したいこととか、自分が本当に聞きたかったことを、最後まで話せる(聞ける)機会は、滅多にない。こういう時期が長く続くと、自分の本音がわからなくなる。そういうときは「恋人が欲しい」みたいな単純な欲求を抱いたりするけど、実は、恋人が欲しいのではなく「誰かと話をしたい」であったり「こころを通わせたい」であったり「ぬくもりに触れたい」であったり、乱暴な言葉の裏に隠れた、繊細で、それでいて切実な自分の欲求があることを知る。

前に、少し関係のあった女性が、つい最近まで『カミーノ』っていうスペイン巡礼の道を歩いていたことを知った。日本で言うところの『お遍路さん』みたいな感じ。なかなか険しい道のりで、絶対に大変なこともたくさんあったはずなのに、彼女はとても幸せそうな投稿をしていた。あたしは、それを見て「いいな」って思った。彼女はこんな言葉を書いていた。昔は、世界の果てまであたしを連れてってみたいな歌詞が好きだったけど、そういう世界に憧れていたけど、自分の足で来ちゃった(笑)。って。なんか、こういうの、すごいいいなって思った。実際に頑張っているひと、そして、文字通り自分の足でなにかを成し遂げたひとの言葉には、爽やかな風が吹いている。

順風満帆な人生なんて、あり得ないと思う。もし、そう見えるひとが周りにいるのだとしたら、それは「そのひとの一部分しか見ていないだけ」だと思う。誰もが、いろいろありながら、それでも前向きに生きようとしているのだと思う。そう思うと、大袈裟だけど、人類全体に対する「優しいまなざし」みたいなものを、わずかながら抱くことができる。カミーノを歩いたこの女性も、今年のはじめまでは、人生史上もっとも暗い時期を過ごしていたと聞いた。彼女はひとりで、周囲に頼れるひとも誰もいなくて、ひとりきり、ずっと、その長くて暗い時期をどうにか生き抜いてきたのだと聞いた。

だからこそ、幸せそうな彼女の投稿をみて、こっちまで嬉しい気持ちになった。一番最近彼女に会った時に、彼女はこんな言葉を残した。世界がモノクロに見えるときは、ファンタジーが足りない。そういう時は、冒険を足す。って。それで、実際、彼女はその数ヶ月後に、見事な冒険を果たした。誰かに認めてもらうための冒険じゃない、自分が、自分を信頼するための冒険。誰かに幸せにしてもらうための冒険じゃない、自分が、自分を幸せにするための冒険。そういう冒険を果たした彼女は、とっも、輝いて見えました。

きっと、彼女の苦しみの時期も、彼女の輝きを構成する要素のひとつだと思う。それも『とっても大事な要素』のひとつ。空腹こそが最高のスパイスって言葉もあるけど、長い苦しみの時期があるからこそ、そのあとに訪れた喜びを、普通の何倍も何倍もよろこびとすることができる。それは、誰かと比べることなんてできない、絶対的なよろこび。まわりが見たら笑うようなことだって、自分にとってはとんでもなくうれしいことっていうのが、生きているとたくさんある。その『うれしさ』は、苦しみの時期がなければ絶対に味わえなかった、とても尊くて、とても高尚なものだと、あたしは感じる。

マザーテレサは「この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです」みたいなことを言っている。肉体的に空腹の時期が長く続くことは、日本ではあんまりない。でも、精神的に空腹の時期が長く続くことは、結構あるあるだと思う。一見、幸せそうに見えるひとでも、ほんとうのところはわからない。でも、空腹感は、短期的に切り取れば悲しいことだけど、長期的に見れば『最高のよろこび』になり得るものだと思う。だから、諦めちゃいけないのだと思う。生きていれば、また、カミーノの空を見れるかもしれない。生きていれば、また、生きててよかったと思える瞬間に立ち会えるかもしれない。それは、空腹度が高ければ高いほど、大きなよろこびとなって、自分に与えられる贈りものだと思う。マザーテレサは「ひとを批判していたら、愛する時間がなくなります」みたいなことも、言っている。ひとというのは、他人のことだけじゃない、自分のことも含まれる。なにかを信じるということは、決して「そのときを信じて待つ」だけの、受動的なものではない。それは、そのときを信じて「動く」っていう、能動的なこと。世界がモノクロに見えるときは、ファンタジーが足りない。そういう時は、冒険を足す。バンコクに飛ぶような、カミーノを歩くような、会いたいひとに会うような、自分なりの『勇気を出す』ことだと思う。

じゃあ、またね。愛してるわ。バイバイ。

坂爪圭吾 keigosakatsume@gmail.com

【イベント情報】

7月28日(日)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」

音楽活動開始宣言をしてから、およそ4ヶ月が経ちました。音楽初心者が、一年でどこまでいけるかを見てみたい。そのためには、本気でやる必要がある。そう思って、1日1曲を目安に音楽を作ったり、できる限り場数を踏むためにライブ活動(人前で演奏すること)も経験したいと願っています。人前で演奏できる機会を設けてくださる方がいたら、ご連絡いただけましたら最高に嬉しいです。交通手段さえどうにかなれば、あたし、どこまでも行きます。会場も規模も問いません。ひとりでもいれば、あたし、行きます!!

6月30日開催「Agape 定期演奏会」の動画です。


バッチ来い人類!うおおおおお〜!