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愛の爆竹を鳴らせよ。

著名なロックバンドのボーカルがライブ中に倒れ、五時間足らずで息を引き取った。脳幹出血だった。ロックンローラーとしてこれ以上ない大往生だと思うのだが、周囲のリアクションは「悲しい」「言葉にならない」「若過ぎる」など、湿っぽい。誤解を恐れずに言うと、お前ら全員馬鹿なのかと思う。若過ぎるってなんだ。五十七歳だぞ。十分生きたよ。大往生じゃねえか。お前らちゃんと音楽聞いてたのかよ。消費してるだけじゃねえか。甘えんなよ。安らかになんてねえよ。悲しむことでしか愛を表現できないなんてダサ過ぎる。鳴らせよ。爆竹を鳴らせよ。泣くなとか悲しむなとかそんなことは言っていない。泣き叫びながら爆竹を鳴らせよ。自分たちのライブで彼らの曲をカバーしたり、他者の死を利用していい人アピールをしている暇があったら、愛の爆竹を鳴らせよと思った。

そのバンドを愛してそのバンドの音楽だけを流す飲食店をやっていた男性が「彼を失った悲しみは俺から笑顔を奪ったので、店を閉める」と発表した。気持ちはわかるが、お前は一体何を悲しんでいるのだと思った。死んだ人間が「もう少し生きたかった」と悲しむならわかるが、なぜ、お前が悲しむ。私が死人だったら、天国から「お前が泣くな」と思うだろう。泣きたいのはこっちだ。なのに、なぜお前が泣く。お前は生きろ。店を閉めるな、バカ。続けることだろ。生きている奴が死んでどうする。今こそ店の真価を発揮する時なのに、閉めてどうする。日本人の死に対する反応は悲しみで統一されている。それが、私には腑に落ちない。悲しむことでしか愛を表現できないなんてダサ過ぎる。

ある人は言った。彼が死んだ時、たくさんの人が泣いた。俺たちも、彼ほどではないにせよ、自分が死んだ後にたくさんの人が泣いてくれるような生き方をしようね、と。私は「気持ち悪いことを言うな」と思った。甲子園球児が「お客さんが感動してくれる試合をできるように頑張ります」と言っちゃうくらい、気持ち悪い。涙は結果であって目的じゃない。目的は生きることだ。生きた結果の涙だ。涙を目的とした人間は気持ち悪い。気持ち悪い人間が多過ぎる。ある人は言った。失くした後に大事さがわかると。私は「分かり切ったことを言うな」と思った。そんなこと、最初から分かり切っていたことじゃないか。当たり前に絶対死ぬのに、お前は馬鹿か。馬鹿なのか。なぜ、いともたやすく湿る。浸り過ぎ国家日本に言いたい。湿るな。失くした後に大事さが分かるとか言うな。生きている間に大事さを噛み締めろ。いなくなったことは問題じゃない。いたことが問題なのだ。簡単に人の生き死にをジャッジしてくれるな。百歳まで生きて老衰で死ぬことだけがいい死に方で、それ以外は若過ぎるとは死者に失礼だ。死者を冒涜している。大往生だと言ってやれ。

あらゆる死は大往生だと思う。早過ぎても、若過ぎても、大往生に変わりはない。それなのに「悲しい」「言葉にならない」「若過ぎる」などの反応しかできない人間は、往生際が悪い。常に「誰かに自分を幸せにしてもらおう」と思い過ぎていて、いたことよりもいなくなったことばかりを見て、してもらったことよりもしてもらえなくなったことばかりを見て、悲しみに浸る。死者を悼む振りをして、自分の悲しみに浸る。自己憐憫に浸る。結果、浸り過ぎ国家が完成する。死に触れた時、私たちは「不謹慎にならないように自重をする」みたいな様式しか持たない。文化的に貧しい。死生観が貧しい。死をあやふやにすると、生もあやふやになる。そしてまた、別の誰かが死んだ時に「悲しい」「言葉にならない」「若過ぎる」などと言って消費して、翌日には全部なかったことになる。生きることも死ぬことも消費の対象になってしまっていて、ロックバンドもがっかりの結果になっている。私はそこが腑に落ちない。生き物としての手応えがない。全員馬鹿に見える。この国のロッカーは絶滅しちまったのかと思う。

ある人に言われた。人間には0から1を生み出すのが得意な人と、1を100に育てるのが得意な人がいますが、坂爪さんは圧倒的に前者ですよね、と。私は、決めつけられるのが嫌いなので「どちらでもない」と言った。俺はゼロイチでもイチヒャクでもない、ヒャクゼロの人間だ。築き上げられた100を一回全部焼け野が原にして、更地にする。お花畑で蝶々が飛んでいる世界も楽園だが、焼け野が原も楽園だ。どうでもいいことが本当の意味でどうでもよくなった時、人は自由を得る。人は解放を得る。焼け野が原の自由ってものがあるんだよと、危険思想に近いことを発言した。当たり前に絶対死ぬから、ジタバタするなよ。不謹慎でいいんだよ。不謹慎だからいいんだよ。不謹慎ってことは、本当ってことだ。早逝のロッカーは、昔は「非難GO-GO」というバンドをやっていた。そんな人間が死んだのだ。大往生に決まっている。俺もお前も大往生。これから大阪に行く。

坂爪さん、こんばんは♪



今日ははじめてお目にかかれて、ライブに行かれて本当によかったです!
いや……もうめっちゃよかったです!大満足です!!



始まる前にもお話しさせていただけて(名前を覚えていてくださって、感激してました)、普段のにこやかでお茶目な一面が垣間見れて、またそのあり方がその場を柔らかく和やかにしていました。


そういうところがリアルに関わりをもつ時に見えてくる醍醐味ですね。



実際にお会いしてみると、しなやかな軸で支えられた、柔らかく繊細ながらも縄文的奔放感が小気味よかったです(^^)
凄まじく生き抜いてこられた中から滲み出る、澄み渡った存在感がこれほど鮮烈な方には、そうそう出逢えるものではありません。



その方が音楽をやるのですから、音楽はいい意味で単なる表現のツールに過ぎないのだと心底思えました。



だからこそTHE PRESENTSは、普段伝えたいことや感じていることをそのまま曲として表現されている印象で、生き方としてブレのない一貫性を感じていました。



特に印象深かったのはハーモニカの入っている曲で、坂爪さんの全てを包み込むような艶っぽさが乗った声の振動で空間が満たされ、惚れ惚れしてしまいました。
声はやはりその方の放つ波動そのものですね。


この世の数々の酸いも甘いも身に刻まれ、ギリギリ乗り越えてこられたことで備わった全てを包括するエネルギーに、ただただ身を任せ感動に打ち震えていました。



自分のパートがおやすみの時の表情からは、ひとりで過ごされているときに、こんな表情をされているのではないか…とじっと観ていました。


深いところにグッと何か喰い込むような切ないものが込み上げ、こころが震えました。
ある種のこの世界で誰もが持っている孤独の深部に触れたのかもしれません。



ベースやドラムの方が放つ柔らかい居心地のよさは、坂爪さんと似通っていました。この空間はこの3名ではじめて成り立つのですね。


THE PRESENTSはこのメンバーでしかできないと言われていた意味が理解できたような氣がしました。



結果的に、1万円は決して高い金額ではなかったです。


一見高額だからこそ、奏者聴き手が共に真剣にこの場にコミットできて、2度とないこの瞬間を全力で体感し共有しようという意識でいられたように振り返っています。


それはよりゆたかな充実感にも繋がったように思います。



声にギターにハーモニカに、すべて坂爪さんの本質のエッセンスが放たれていました。
そんな姿に深いところで感銘を受け、終わりにはただ存在してくださっていることに感謝が込み上げました。



まずは坂爪さんをはじめ、貴重な会を設けてくださったバンドのみなさんに、次に貴重な会に申し込めた自分に(笑)、心からの感謝を贈ります。
ほんとうに素晴らしい一日でした。



またいつか、お目にかかれる機会をつくりたいです♪



今日の日を、ほんとうにありがとうございました!!



追伸:

家にあるもので見繕ったお土産を受け取っていただけて、とてもうれしかったです。
召し上がっていただけること、使っていただけること、どなたかのお土産にもなるのかな?を想像すると、なんだかしあわせなきもちになってます!

おおまかな予定

11月3日(金)大阪府大阪市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

バッチ来い人類!うおおおおお〜!