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ホームをレスした話(8)

重く考えるな。軽く生きろ。

人間、生きているとどうしても「自分と似たような境遇の、自分と似たような人々」ばかりと過ごすことになる。小さな世界でまとまってしまう。が、家なし生活はその垣根をぶち壊した。普段だったら出会わない人々、会社員だけではなく風俗関係や極道関係の方々、あるいは、表面的には普通に見えるようでも「蓋をあけてみたら結構やばい」人々との出会いに恵まれた。

日に日に批判も増えた。お前みたいな生き方はクソだとか、ただのひもじゃないかとか、散々なことを言われた。が、批判も一理あると思った。「お前はただのひもだ」と言われた時、イエス、確かにその通りだと思った。が、特定の女性から養ってもらう男性をひもと呼ぶのならば、私は、不特定多数の人間から養ってもらっている感覚が強くあったために、この現象を『(物理学の超ひも理論をパクって)超ひも理論2.0』と名付けることにした。

ブログ読者は増えたものの、広告などは貼っていなかったのでブログによる収益は皆無だった。出会う方々から「どうやって生きているのですか?」と頻繁に問われた。が、自分自身、なぜ生きていられるのか不明だった。定期的な収入はない。が、不定期な「もらいもの」はある。私は、もらいものだけで生きる日々を過ごしていた。故に、ひもと言われても仕方がなかった。

なぜ、広告を貼らない(定期的な収入を求めない)のか。それは「みんなと同じが嫌だったから」という、極めて子供染みた理由による。広告収入で生きる人間は大勢いる。だから、自分も同じことをする必要はないと思った。私は、できることならば「前例のない生き方」をしたいと思っていた。誰かがやっていることではなく、まだ、誰もやっていないことをやりたかった。

所持金が限りなく0になることは何回もあった。が、人生は不思議なもので「所持金が0に近づくほど、舞い込む奇跡の割合も増える」ことを掴んだ。逆に言えば、自分がなにかをもっている間は、奇跡が舞い込むことは滅多になかった。奇跡は余白に舞い込むものであり、余白を持たないものに奇跡は訪れないのだと偏った解釈をした私は、積極的に「0」になろうとした。

だからなのか、定期的な収入は「逆に死ぬ」と思った。不安定こそ我が命。諸行無常こそが世の常であり、安定(=固定)することは『死』だと思った。書いているとすごいよくわかる。私は、多分、阿呆なのだと思う。基本的にギャグで生きているので、超ひも理論とかもっともらしい(?)ことを言いながら、根本的には「ただ、言いたかっただけ」の愚者なのだと思う。

が、超ひも理論2.0的な生き方は、貴重な学びをもたらした。ひとつはセフティネットに対する考え方の変化。かつての私は、安定した職業に就くことや、銀行に大量の金銭を溜め込むことがセフティネットだと思っていた。が、やがて、私は「自分にもしものことがあったときに、助けてくれるひとがどれだけいるか」の方が、実は重要なんじゃないかと思うようになった。

地獄とは、過酷な状況に陥ることではなく、過酷さの中で「自分を助けてくれる人が一人もいない」状況を指すのではないだろうか。そう思った。日本では、多分、他人に迷惑をかけてはいけないという刷り込みがすごい。だからこそ、基本的に「なんでも自分ひとりの力でやらなければいけない」と、あらゆるものを背負わされる。そのことで潰れてしまう人間は少なくない。

誤解されると困るが、私は「誰もが私のように家のない(他人に迷惑をかけることを主体とする)生活を送るべきだ」などとは微塵も思わない。このような生き方にはリスクがあるし、誰もが前向きなエネルギーを獲得できるとは思わない。人間には向き不向きがある。偉大なる平凡という言葉もある。

ただ、私が主張をしたいことは「自分のことは何もかも自分でやる必要があるのか」ということであり、単純に、お互いに助け合える部分は助け合った方が、暮らしやすい世の中になるのではないのかということである。他人に迷惑をかけてはいけないのではなく、どれだけ楽しい迷惑をかけられるかという軸も、同一平面上に存在してもいいのではないか、ということである。

余談が過ぎた。洞窟を飛び出したけいご坊やの冒険は続いた。

ある日、新潟市旧巻町で開催された「ほたるまつり」のお手伝いに駆り出された。会場には緑豊かな大地が広がり、東屋や木製のベンチがいくつも置かれていた。非常にのどかな雰囲気の公園だなあと思っていたら、実は、この東屋も木製のベンチもすべて「この日のために、鈴木さん(仮名)という男性がすべてを手作りをした」ということを聞き、私は、何者!?と思った。

この時、私の中で「鈴木さんの話を聞かなければいけない」という強烈なセンサーが発動した。これはもう直感としか言えなかった。ただただ、凄そうな予感がした。そう思った我々は、鈴木さんを探し求めた。ら、一瞬で見つかった。鈴木さん、この東屋や椅子は全部あなたがつくったのですか。我々は問う。鈴木さんは、おだやかな表情を浮かべながら「そうだよ」と話す。

名言1・自分の家は30万円位でできたよ。

「東屋も椅子もここにあるほとんどのものは全部自分で作ったんだよ。今、自分が住んでいる家も自分で作ったんだよ。大工なんてやったことはないよ。ただ、自分で作りたいと思ったから作ったんだよ。家は全部で30万円位で出来たよ。電気も全部自分でひいたよ。電球も全部LEDを使ったら、普通の家庭の10%くらいしか電力を使わない家になったんだよ。LEDは高いとかみんな言うけど、1年間も住めば元が取れる計算だったんだよ。実際にやってみて、ああ、本当にその通りだったなあってことがわかったんだよ。」

名言2・クレーンも自分で作ったよ。8万円でできたんだよ。

「家をつくるための木は、全部もらったんだよ。木を切る仕事を手伝ったときに、余った木をたくさんもらったから材料は全部無料だったよ。家を建てるためにはクレーンが必要だったんだけど、調べてみるとクレーンは一日借りると4万5000円もするってことがわかったんだよ。だから、クレーンも自分でつくったよ。自分でやったら8万円で出来たんだよ。だから、クレーンを2日借りるよりも安く使えることになったんだよ。家をつくるのに1年半くらいかかったんだけど、自分でクレーンを作ったおかげで、自分の好きな時に好きな時間だけ作業ができるようになったんだよ。クレーンは解体すれば鉄くずになるから、作業が終わったら自分で解体して外に出しておいたんだよ。借りたクレーンは解体できないから、自分で作って良かったよ。今度は別荘をつくりたいと思っているよ。そう、土地もこの前見つけたんだよ。」

名言3・できるからやったんじゃなくて、やってみたらできたんだよ。

「DIYに使う工具も自分でつくったよ。DIYの道具をDIYしたんだよ。ドリルも自分で作ったよ。買うよりも自分で作った方がずっと安くできたよ。今使っているバッテリーも、お店で買うと12万円くらいするんだけど、自分でつくってみたら3万円で出来たよ。そうそう、ここにある流し台も(注・この日はほたるまつりが開催されていたために、屋台の人たちが使う流し台が用意されていた)、この前解体した家から持って来たんだよ。僕は家を解体することもできるんだよ。解体なんてやったことはなかったよ。でも、やってみたら出来たんだよ。自分ひとりの体があれば、大きな家も解体できるってことがわかったんだよ。この流し台は壊した家からそのまま持って来たんだけど、これで、これからはどこにでも流し台を置けるようになったよ。」

名言4・隣の角田山に1日で11回登ったこともあるよ。

「今は1日15時間くらい働いているよ。でも、仕事と遊びの区別はないんだよ。何をやっているときも楽しいんだよ。今日は祭りだから東屋をつくったり椅子を作ったりしていたよ。畑仕事もやるよ。30種類くらいの野菜を自分で作っているよ。何でも頼まれることはやるようにしていたら、今では朝から晩までやることが出来てしまって忙しくなってしまったよ。時間がある時は山にも登るのが好きなんだよ。昔は、隣の角田山に一年間で450回くらい登っていたよ。1日で11回登ったこともあったんだよ。日本アルプスも走って登ったよ。なんでそんなことをしていたのかって?トレーニングだよ。」

名言5・9割の人が、えー、というようなことをやるんだよ。

「僕は今は68歳なんだけど、定年を迎えるまではゴミ清掃員の仕事をしていたんだよ。その頃はこの集落でも一番お金がない人だったんだけど、定年になってから自分でなんでもやるようになって、そこから人生が大きく変わったんだよ。働いていたときの給料の4割くらいしか年金はもらえないんだけど、今が一番お金があるよ。9割の人が、えー、というようなことをやるんだよ。そこに金脈があるんだよ。何でも自分でやるとお金を使うことがないから、お金は全部大好きな車に使っているよ。仕事をしていた時は車は2台しか乗り換えたことがなかったんだけど、定年してからは8台乗り換えているよ。今は、新潟でもほとんど乗っている人のいないベンツのSクラスという車に乗っているよ。時間がある時は一日1000キロくらい走ることもあるよ。この前は、新潟県から静岡県を一日で往復したりしてきたんだよ。」

名言6・音楽を聴いていると楽しくなってワクワクしてくるんだ。

「テレビは全然見ないよ。テレビを見ている時間がもったいないんだよ。最近は音楽が好きなんだよ。今はロックが大好きで、聞いているとワクワクしてくるんだよ。うん、この年でロックが好きな人は珍しいかもしれないねえ。日本の音楽よりも海外の音楽を聞くよ。ラテンとかサンバとかも聞くよ。音楽を聞いていると本当に嬉しくなってワクワクしてくるんだよ。今は、毎日が本当に楽しくて、生きていることが嬉しいんだ。若い人と話をするのも大好きだよ。若い人と話していると、自分も一緒に若返れるような気がするんだよ。気持ちだけなら、ね、若い人には負けないよ。今でもたくさん働くし、行動だってすぐにするし、若い人にも負けない元気はあるよ。」

名言7・寝る直前まで靴を履いているよ。

「僕が作った家は、山小屋みたいな家なんだよ。山小屋はね、泊まりたいひとを追い出すことはできないんだよ。だって、満杯だからってひとを外に追い出してしまったら、そのひとは寒さで死んでしまうからね。だからね、どれだけギュウギュウ詰めになってもね、来たひとみんなで布団を分け合って眠るんだよ。今でも毎日忙しいよ。寝る直前まで靴を履いているよ。やりたいことがたくさんあるから、一日があっという間に終わるんだよ。何かを頼まれたら、面倒なことを、よろこびながら、楽しみながらやることだよ。」

名言8・自分にはなかなか、なんてことはないんだよ、やらないかやっちゃうかなんだよ。

「口で言うだけじゃダメで、何でも実際にやってみたほうがいいと思っているよ。なんだって実際にやらないと身につかないことがあると思うんだよ。誰かにお願いされたことは、全部やるようにしているよ。何も断らない。ひとつも断らないんだよ。この前読んだ本にも同じことが書いてあって、自分と同じ考え方の人がいるんだなあって思ったよ。どんなお願いごとでも全部聞いて、それからどうやってそれをやるのかを考えるんだよ。どうやったらひとりでできるか考えて、あ、これならいけそうだなって思ったらそれをやってみるんだよ。とてもじゃないけれど難しいなあと思った時は、誰かの力を借りるんだよ。自分にはなかなか(できない)なんて考えちゃダメだよ。なかなかなんてことはないんだよ。やらないかやっちゃうかなんだよ。」

名言9・ありがとうって言ってもらうために、お金は使うものだと思ったんだ。

「僕が7歳のときに僕の父親は死んでしまって、母親は4人の子供を突然ひとりで養わなければならなくなってしまったんだ。お金も全然なかったんだよ。もしも、何もない中で4人の子供を育てなくちゃならなくなったら、あなただったらできますか?あの頃は本当に大変だった。だけど、母親はみんなの力を借りながら、どうにか4人の子供を育てることができたんだよ。母親からもらった影響はとても大きかったよ。お金は自分のために使うんじゃなくて、誰かのために使ったほうがいいんだってことがわかったんだよ。この前も、近所の人の屋根を舗装したんだよ。今まで舗装なんてやったことはなかったんだけど、その人は困っていたから、それなら僕がやるよと言って、僕がお金を出して屋根を舗装したんだよ。やってみたらできたんだよ。ありがとうって言ってもらうためにお金は使うものだと思ったんだよ。」

名言10・心配することはなにもないんだよ。

「何だって?師匠になってください?あはははは。この前も、そう言って若い人たちが家に来たよ。いつでも遊びに来てもいいよ。泊まっていってもいいよ。僕みたいな生き方は珍しいかもしれないけれど、今は本当に毎日が楽しいよ。僕の家はね、ライフラインが全部止まってもへっちゃらなんだよ。発電機もあるし、畑もあるから半年分の食糧もあるよ。薪ストーブで煮炊きもできるし、田舎だから湧き水もあるし、太陽光でお風呂も入れるんだよ。マスコミとかは、これが危ないとか、あれが危ないとか、いろいろなことを言うけれど、間に受けてしまったら『これをせんばなんね、あれもしねばなんね(新潟弁で「これもしないと、あれもしないと」)』ってなっちゃうよ。でも、僕の家は大丈夫だから、心配することはなにもないんだよ。」

鈴木さんの話を聞きながら、私は、何度も爆笑をしてしまい、そして何度か泣きそうになってしまった。悲しい時だけではなく、嬉しい時にも涙はあふれるものだとこの時に思った。私は、鈴木さんと出会えたことが嬉しくてたまらなかった。会話の途中、鈴木さんは何度も「生きていることが楽しいんだよ」と口にした。爛々と輝くその瞳は、言葉の真実を物語っていた。

素晴らしい出会いは人生を肯定する。鈴木さんとの出会いを通じて、私は「自分は自分でいいのだ」と言ってもらえたような、そんな感覚を覚えた。誰もが当たり前にできることが自分にはできないとか、自分はダメな人間なんじゃないだろうかとか、そんな風に感じる瞬間は辛い。が、素晴らしい人物との出会いは、お前はお前でいいのだ(永遠にそのままで行け)と言う肯定の喜びを与えてくれる。そのことが、たまらなく嬉しかったのだと思う。

本当は誰だって何だって出来るんだよ。穏やかに話す鈴木さんの声が、何度も、何度も、繰り返し頭の中で鳴り響いていた。自分が何をした訳でもないのに、不思議と、自分にも力があるのではないだろうかと、自分にも何かができるのではないだろうかと、そう、自分を信じたい気持ちが湧き出した。

自由な人は自由を発散し、平和な人は平和を発散する。多分、人を動かすものは正しさよりも「楽しさ」だ。楽しそうに生きる鈴木さんに触れた時、私の心は大きく振れた。嬉しい時、人は自然に笑顔になる。楽しい時、人は自然に笑顔になる。自分の中の「自然」に従って生きる時、人は、おのずから最高のパフォーマンスを発揮するように作られているのではないだろうか。

それならば、私は「圧倒的肯定力」を大事にしていこう。批判や暴露をするためにエネルギーを使うのではなく、できることならば「世界を肯定する方向に」自分の力を使っていこう。大事なことは、自分を、自分の人生を肯定する姿勢だ。否定の先に未来はない。肯定の先に未来はある。そう思った。

ら、奇跡が起きた。

(つづけ・・・)

バッチ来い人類!うおおおおお〜!