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ホームをレスした話(12)

お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

私のブログタイトルは「いばや通信」というもので、私は、過去にいばやという名前の会社を経営していた。いばやとは「やばい」を逆から読んだだけのもので、金になるとかならないとかは一旦置いておいて「自分たちがやばいと思うことをやろう!」というコンセプトだけで設立された会社だった。

いばやには幾つかの仮説があった。

ひとつは「宇宙の摂理として、新しいことをやっている人間は死なない」というもの。ひとつは「自分たちがやばいと思うことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人たちが現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる」というもの。ひとつは「未来にとって必要なことをやっていれば、それを見ているひとたちが『こいつらを餓死させてはいけない!』ということになって、きっと助けてくれるだろう。しかし、未来にとってまるで必要のないことをやっていれば、私たちは餓死するだろう」というもの。などなど。

なぜいばやをはじめたのか。これは少々説明を要する。いばやをはじめるまで、私は、自分で料理教室を主宰していた。なぜ料理教室を主宰していたのか。これもまた少々説明を要する。順を追って、説明をしてみたいと思う。

25歳の頃、私は、躁鬱病と統合失調症と椎間板ヘルニアのトリプルパンチで、半年間の寝たきり生活を過ごしていた。いろいろありすぎる人生に打ちひしがれ、もう、生きていくことは無理だと感じていた。実家の新潟で療養をしていたのだけれど、毎日、毎日、死にたいなあと思って過ごしていた。

精神科の通院費はべらぼうに高い。一回の通院で五千円程度かかった。親の庇護のもとに生きていたので、毎回こんなにお金がかかっては「生きているだけで迷惑になる」と感じた私は、通院を辞めた。元来、私には貧乏性的なところがある。薬を飲んでも辛い。薬を飲まなくても辛い。それならば、薬を飲まないで辛い(金のかからない)道を選ぼうと思い、通院を辞めた。

精神科医からは「あなたの症状は重い。完治まで三年かかる。ゆっくりなおしていきましょう」と言われていた。私は、反抗する気力もなかったので「そんなものか」と思っていた。が、まず、最初に、椎間板ヘルニアがなおった。精神状態はズタボロの最悪だったけれど、とにかく、自由に動くことだけはできるようになった(それまでは、常に腰の激痛にもだえていた)。

ちょうど良いタイミングで、父親の誕生日がきた。私は「なにか買ってやりたいが、自分には金がない」と思い、近所のリサイクルショップに足を運んだ。ここならば、金のない自分にも、なにか買えるものがあるかもしれないと思った。ら、当時、爆裂に流行っていたビリーズブートキャンプというエクササイズのDVDが、破格の500円で売られていることを発見した。

私は「そう言えば、親父も運動不足だって言っていたなあ」と思ってこれを買った。家に帰り、父親と一緒にDVDを見た。が、これは、とてもじゃないけれど父親の年代が行える運動量をはるかに越えていた。父親は「けいご、すまん、これは無理だ」と言う。私は「うん、そうだね」と答える。健気な息子によるささやかな贈り物は、悲しいことに不発で終わった。

繰り返しになるけれど、私は貧乏性な人間だ。500円と言えど、もとをとりたくなった。私は「親父がやらないなら、俺がやろう」と思い、死んだ魚の目をしたまま、ビリーズブートキャンプに入隊をした。ら、半端ない運動量に滝のような汗が流れた。が、この汗が気持ちよかった。気持ちいいと思う感覚があまりにも久しぶりのことで、私は「なんだかいいかも」と強く思った。ので、私は、ビリーズブートキャンプを毎日やるようになっていた。

この瞬間、貧乏性が精神病を打ち負かした。

この時期、私は、ストレスによる連日の過食で激太りをしていた。体重は58キロから83キロまで増え、ブラックマヨネーズの小杉みたいだねと言われていた。が、ビリーズブートキャンプをやることで、三ヶ月で15キロ落ちた。医者から「完治まで三年かかる」と言われた精神病も、半年でなおった。別に、ビリーズブートキャンプをはじめた理由は「痩せるため」でも「精神病をなおすため」でもなかった。ただ、貧乏性だったが故にもとをとりたいと思ってはじめたビリーが、結果的に(想定外の形で)功を奏した。

痩せはじめると面白いもので、私は食事を意識するようになった。これまでの日々、カロリーなんて意識したことはなかった。私はパンが好きだ。が、パンはカロリーが高いと知った。これは困った。これからもパンを食べたい。が、パンを食べると太る。どうしよう。そう思って「パン 痩せる」的なことをネットで検索したら、私は、世にも素晴らしいパンを発見した。

それは豆腐ベーグルだった。小麦粉の代わりに、豆腐を使うことでカロリーも減って身体にもヘルシー!という、そんな豆腐ベーグルの存在を生まれてはじめて知った。こちとら療養中の我が身である。金はないけど時間ならある。早速、豆腐ベーグルを自作してみることにした。クックパッドでレシピを調べ、必要な材料を揃え、調理開始。これまでパンなんて作ったことはなかった。が、レシピ通りにやってみたら、意外と簡単にパンを作れた。

料理中は「無心になる」ことができた。この感覚は最強だった。療養中は、どうしたってネガティブなことばかりを考えてしまう。が、料理中は瞑想状態に置かれていた。無心になれた。嫌なことを考えないでいられた。しかも、最終的に「料理ができる」というのもよかった。家事という分野で、家族の役に立てることもうれしかった。一石十鳥くらいの効果を感じていた。

私は「やってみたらできた!」という感覚がうれしくて、これは、みんなでやったらより一層面白くなるのではないだろうかと思った。ので、新潟の友達に声をかけて「みんなで豆腐ベーグルを作る会」を開催した。ら、初回にも関わらず驚くほどの参加者が(口コミなどを通じて)足を運んでくれた。

みんなで行う料理は楽しかった。無事にイベントを終え、私は参加者のみなさまに「今日はありがとうございました」と告げた。ら、参加者の女性が「こちらこそありがとうございました!すごい楽しかったです!次はなにをやるのですか?」と尋ねてくれた。私は、次のことなんて考えていなかった。初回で終わると思っていた。ので、この言葉には狼狽をしてしまった。

次を楽しみにしてくれるひとが現れるとは。私は、戸惑いながらもよろこびを禁じ得なかった。そして「よし、次もやろう」と思った。このような感じで、まったくの料理未経験者による料理教室(というよりも調理実習のようなもの)の人生ははじまった。意外や意外、この料理教室は徐々に評判を高め、新潟から東京、東京から全国、やがては台湾などの海外諸国からも「料理教室をやってください!」などと、お呼びがかかるようになっていた。

半年間の寝たきり生活をしていた時期は最悪だった。が、この時期がなければ「料理教室を主宰する」的な流れが舞い込むこともなかった。まったく、人生はどうなるものかわかったもんじゃないと思っていた。が、やがて、料理教室をやってる自分に対して「本当にこれでいいのか?」と思うようになった。俺は、このまま、一生を「料理のひと」として終わるのだろうか。

イベントを主催していると、どうしても「お客様満足」みたいなことを考える。みんな楽しんでいるだろうかとか、みんな本当はどう思っているのだろうかとか、そういうことばかりを考えてしまう。お客さんが100楽しんでくれて、はじめて自分も80楽しむことができる。しかし、お客さんが40程度しか楽しんでくれていないように見えるときは、自分が感じる楽しさは0になる。場合によってはマイナスになる(こともある)。要するに、私は、いつの間にか「他人軸」の日々を生きていた。そのことに気づいた瞬間、ああ、これはやばいと思った。これじゃどこにもいけないと思った。

そこで、私は「お客様満足なんてクソだ!」的なことを言い始めるようになった。自分が楽しませたいのは、他の誰でもない、自分自身だということを思った。お客様満足ではなく『自己満足』こそが大事だと思った。自分が100楽しむことができるならば、意外と、周囲も80くらい楽しんでくれるだろう。楽しさは伝染する。その中心は自分であること。自分から生まれ出る楽しさに賭けたいのだと、私は、そういうことを思うようになっていた。

そこで誕生したのが「いばや」だった。

やばいをひっくり返しただけの「いばや」という名前には、いろいろなものをひっくり返したいという思いがあった。他人軸で生きる自分を「自分軸」の方向に、いまの社会でよしとされている価値観の「真逆」をやることで、社会に揺さぶりをかけるような、否、社会なんてどうでもいいから「何よりも自分自身を揺さぶる」こと、そういう試みをやりたいのだと思っていた。

同時期、似た思いを抱えていたアーティストのMAYUCHAPAWONICA(高校の同級生)と共に、2013年の8月にいばやは結成された。自分たちがやばいと思うことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人たちが現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる。これらの仮説と共に、我々は「ギャグ半分、ガチ半分」で、いばやを結成した。

ら、早速奇跡が起きた。

当初はいばやを会社組織にするつもりはなかった。が、我々の話を聞いた阿部という友人が「いいね」と言った。彼は「俺も、いまの時代にはバカが必要だと思うんだ」と言いながら、おもむろに、厚手の封筒を差し出した。私は、おののきながら封筒を開けた。ら、そこには50万円が入っていた。震える私を前に、阿部さんは「これを自由に使ってくれ」と笑顔で言った。

自分たちがやばいと思うことをやっていれば、それを面白がってくれるやばい人たちが現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる。この仮説が、結成1日目にして早速実証された。我々に「いいね」と賭けてくれる人間が登場した。我々は、一通りおののいた後に「これも神の思し召し…」ということで、このお金を使って(こんな会社がひとつくらいあってもいいよね、と思いながら)いばやを会社組織にすることにした。

それからというもの、我々は「これはやばい!」と感じたものを不定期で実験する日々を過ごしていた。やがて、坂爪圭吾は「家のない生活はやばい!」と思い、こちらの方面にエネルギーを注ぐようになった。家なし1年目で国内を流転し、家なし2年目は国外を流転するようになった。その間も、常にいばやの仮説【未来にとって必要なことをやっていれば、それを見ているひとたちが「こいつらを餓死させてはいけない!」ということになって、必ず助けてくれるはず。でも、未来にとってまるで必要でもないことをやっていれば、私たちは野垂れ死ぬだろう】は、胸の中で轟いていた。

これがいばやの誕生秘話(?)になる。

当時、私は、周囲からは「家のない生活をするなんてすごいですね!」と言われていた。が、私は「すごいのは自分ではなく、自分を生かしてくれるものの存在だ」と思うようになっていた。当たり前の話だけれど、家なし生活を可能にしているものは、私の勇気ではなく、私の覚悟ではなく、私を泊めてくれるものの存在であり、私に食事を与えくれるものの存在だと思った。

すごいのは、私ではなく「私を生かしてくれる人」だと思った。

多分、私は、家のない日々を過ごすなかで二つの覚悟を決めたのだと思う。ひとつは「ひとりでもいい」という覚悟。理解者がいなくても、仲間と呼べるひとがいなくても、それでも尚、自分が信じた道を生きると決めた覚悟。ひとつは「死んでもいい」という覚悟。自分が信じた道を進む中で、仮に、この生き方が通用をしなくてやがて死んでしまう時がきても、それはそれで仕方のないことなのだと、生にしがみつきたくなる自分を引き剥がす覚悟。

この二つの覚悟は、私に、不思議な感覚を与えた。ひとりでもいいと覚悟を決めてからの方が、私は「ひとりではない」と強く思うようになった。死んでもいいと覚悟を決めてからの方が、私は「生きている実感」を強く覚えるようになった。家のない日々を通じて、私は、人生の逆説を感じるようになっていた。

家も金も仕事もない。それでもなお、自分が生存することができていることの不思議。これは、自分に「生きろ」と言ってくれる周囲の力に依るものだと、そういうことを感じていた。普通、生きるためには『交換』が必要になる。しかし、何も持たない私には「等価交換として支払える」ものがない。普通、支払えるものがない人間は、なにも手にすることはできないはずだ。

しかし、何ももたない自分にも、様々なものが与えられる日々が続いていた。この現象はなんだ。地球上には、交換だけではない、なにか別の摂理があるのかもしれない。私は、そんなことを感じていた。それは、無理矢理言葉にするのならば「交換ではなく循環」の摂理。なにかと引き換えになにかを得るのではなく、自分はただ、自分のままで生きる。その、自分のままで生きる自分を見て、周囲の人が「お前は生きろ」となにかを与えてくれる、交換とは違う別の摂理にしたがって、自分は生きているように感じていた。

これは、大袈裟な言葉で言えば「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と言われているような、そんな感覚を与えた。いまの生き方を成立させるためにもっとも必要になるもの、それは『純度』だと感じていた。自分が少しでも濁ったら、おそらく、この循環は(あっという間に)途絶えるのだろう。そして、大きな輪を離れた自分は、餓死をすることになるのだろう。

いまの生き方がどこまで通用するのかはわからない。ただ、どこまでいけるのかを見てみたい。この思いが、自分を前に進ませていた。ダメになるなら、ダメになるまでのこと。その瞬間まで、自分はどこまでいけるのかを見てみたい。いまの生き方の先に広がる風景を見てみたい。自分の純度を守り通したい。できることならば、自分を透明にしてみたい。自分を透明にした先に、広がる風景を見てみたい。この思いが、自分を前に進ませていた。

ら、奇跡が起きた。

(つづけ・・・)

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