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第56弾「アイスクリーム」

ハーイ!みんな元気?あたしけいご。

56曲目はこれ。アイスクリーム。突然だけど、あなた、さみしいなあとか、孤独だなあとか、思うこと、ある???ポジティブなことって会話にあがってきやすいけど、ネガティブとされていることって、なかなか、会話にあがってこない。だから、苦しいときとか、悲しいときほど、ああ、こんな気持ちになるのは自分だけなのかな、とか、考えちゃうこと、なあい???

「アイスクリーム」 作詞・作曲 坂爪圭吾

アイスクリーム好きだったね 怒ると黙るタイプだったね
いつもは鈍臭いくせして しゃべるとやけに早口なんだね

綺麗なケシキとか 見るとさ 君のことを 思い出すのだ
言い忘れたことがあるのに それなのに こんなんなっちゃって

おーいえ おーいえ おーいえ
骨だけになっても かわいいね

あの子はなにも 成長しない なにが起きても 後悔しない
だれにもなにも 相談しない 愛想笑いを 浮かべることもない

俺が こんなんなっちゃっても 笑うばかりで なにも言わない
ただ いつも そばにいるだけ なにもしないを してくれてたね

おーいえ おーいえ おーいえ
思い出になっても かわいいね

アイスクリーム好きだったね 怒ると黙るタイプだったね
いつもは鈍臭いくせして しゃべるとやけに早口なんだね

綺麗なケシキとか 見てもさ 君のことを 思い出すから
やりたいことは どんどんやろう なりたいものに どんどんなろう

おーいえ おーいえ おーいえ
アイスクリーム 溶けちゃうから

あたし、数日前まで、めちゃめちゃさみしさに襲われていた。大げさだけど、頭がおかしくなりそうなほど、さみしくなることが、あたしには定期的にあります。鬱病とは、ちょっと違う気がする。だって、あたしは、この現象を『健全なこと』だと感じるから。ただ、健全だとは思えていても、やはり、さみしいという感情は、しんどい。誰かに話をしたくなっても、誰かに話を聞いてもらいたくなっても、なかなか、どういう風に話を切り出していいからわからないから、伝える自信がないから、結果、ひとりで耐え抜く形になる。そして、さみしさや、苦しさを、抜け出すことができてはじめて、誰かに「こんなことがあったんだよ」って、過去形で話すことができる。

それでね、そのときは大阪にいたんだけど、夜の街をひとりで歩いて、なんだかいたたまれなくなって、さみしい食い(さみしくてどか食いをすること)とかするために、中華料理屋さんにはいったの。お店は、いろんなひとたちでごった返していた。ひとりで来ていたのは、あたし、だけ。それから麻婆丼と坦々麺を注文して、品物が届くまで、紙とペンを取り出して自分の気持ちをメモしていた。そこには「これだけのひとがいるのに、なんで、こんなにもひとりなんだ」とか、書いちゃうくらいには、孤独を感じていた。

不思議よね。日本だけでも1億人いるのに、こんなにたくさんのひとがいるのに、孤独は存在する。かと言って、じゃあ、誰かと一緒にご飯を食べたいのかと言うと、それもよくわからない。あたしのさみしさの理由は、決して、ひとりでいるからじゃない。友達がいないからでもないし、やりたいことがわからないからでもない。過去の記憶に遡って「自分がさみしいのは、親から愛されなかったからだ」とか言う人もいるけど、それも、違う。無理やり原因をこじつけるなら、あたしが感じるさみしさの原因は、大げさだけど『生まれてきたこと』に、あると思うの。だから、あたしは、このさみしさをどうすることもできない。そして、どうすることもできないまま、そのままで生きていくことに、それなりの手応えを感じている。そういう感じ。

頭がおかしくなりそうなくらい、さみしいとき、あたしは紙に気持ちを書きなぐる。無様な自分の感情を、そのまま、ノートに吐き出す。この前は「拠り所が欲しい。安らげる場所が欲しい」って書いたり、「さみしいときはどうすればいい」とか「ひとりはつらい。ひとりはこわい」とか「誰かに話を聞いてもらいたい。自分を肯定してもらいたい」とか「さみしいのは、弱いからなのか。かわいそうな男なのか」とか、そういうことを、どんどん書いた。書きながら、不思議と、自分が、自分のさみしさに寄り添うことができるような感覚を覚えて、気持ちは少しずつ落ち着いた。そして、おかしくならないで済んで、どうにかこうにかやり過ごすことができたって感じです。

10代の頃、あたしにとって、本音とは「話せば話すほど、孤独になるもの」でした。よく、本音で話せばわかりあえるみたいなことが言われるけど、あれ、嘘だと思うの。あたしの場合、本音を話すほど、孤立したの。たとえば、死にたいと思うことがある、みたいなことを話すとするでしょ???大概、こういう話をすると「そんなこと言わないで!」みたいな感じで、話を続けること自体にストップがかかる。で、結局、あたしは「また、わかってもらえなかった」みたいな思いを、蓄積させる。あの頃は言葉をもたなかったけど、死にたいというとき、それは「いますぐビルから飛び降りたい」ってことを言いたいんじゃなくて、死にたいと思うこの気持ちについて、誰かと話をしてみたい、ということが、言いたかったのだと思う。でもね、言葉をうまく使えないから、結果、本音を話すほどに、あたしは孤立しました。

ここが、別れ道。

わかってもらえないという体験を重ねると、やがて、自分の思いをひっこめるようになる。「この人には、ここまでなら伝わるだろうな」みたいな感じで、相手に合わせて話題を選ぶ。だから、決して、自分が本当に話したいことの全部を、話すことはなくなっていく。でもね、あたし、思うのよ。わかってもらえないという思いの裏側には、常に「わかってほしい」という思いが、ある。これを諦めることは、生きることを諦めることと、同じ。これを諦めることは、自分を殺してしまうことと、同じ。本音とは、話せば伝わるから話すものではなく、それを話さなければ『自分が死んでしまう』から、話すべきものだと、あたしは思う。だから、伝わろうが、伝わらなかろうが、あたしは、できる限り自分の本音を話したいと思う。たとえ、そのことで、自分が傷つくことになろうが、相手が傷つくことになろうが、それさえも『愛』という言葉で乱暴にくくれるくらい、しっかり、伝えたいと思う。

ブログにも書いたけど、苦楽を共にすることが、絆を深める一番の方法だと思うの。これは、誰かとの関係だけじゃない。自分との関係も、同じだと思う。自分に楽しい思いをさせたいのは、わかる。でも、それと同じくらい、自分が体験した「厳しさ」とか「苦しさ」も、必ず、糧になる。自分がなにかをさみしいと感じるなら、必ず、この世界に「同じことを同じようにさみしいと感じる人間」がいるはずだって、あたし、謎に信じている。だから、このことを思い出せるとき、自分のさみしさも『無駄にはならない』って、思うことができる。逆に言えば、そう思うことで、色々なことを乗り越えてきた。自分はひとりではない。そう思うことが、あたしに、力をくれた。

変な言い方になるけど、あたし、元気なときより、さみしいとき、苦しいときに『いいものを作り出せる』気がするのよ。だからね、さみしいのは嫌だけど、通過儀礼みたいなものというか、仕方がないのだと思う。このさみしさは、多分、死ぬまで続く。だから、さみしさと友達になるしかない。友達になるなんて甘っちょろい言葉では表現しきれないくらい、色々な気持ちになるけど、でも、トータルで、あたしは『さみしさが好き』なのだと思う。なんだか、ここに、自分のふるさとがあるような、そういう気持ちがするの。これは、多分、夕日を『好き』だと思う気持ちと、似ている。好きの中には「切ない」とか「苦しい」とか「郷愁」とか、色々な感情が混ざり合っている。そのトータルを『好き』という言葉で、表現しているのだと思う。

生きていると、コミュニケーションを諦めそうになる瞬間が、たくさんある。ああ、こいつには、何を話しても無駄だ、きっと自分の気持ちは伝わらない、みたいなことを感じて、自分の思いをひっこめてしまうことがある。でもね、あたし、思うのよ。生きていると、誰かに迷惑をかけたくないとか、傷つきたくないとか、いろいろな防衛本能が働くけど、でも、この防衛本能を越えていかない限り、永遠に『さみしいまま』の部分が、残り続けると思うの。さみしいだけなら、まだ、まし。でもね、さみしさのこわいところは、放置をしていると『虚無感』になることだと、あたしは、思うのよ。

あたし、さみしさは、好き。でも、あたし、虚しさは、嫌い。だからね、さみしいとき、そのさみしさを全身で感じている限り、あたしは虚しくならない。さみしさを通じて、誰かとのつながりを感じたり、こうして「何かを書く」ことによって、あたしは、虚しさに抵抗をする。いま、ここに、こういう気持ちで生きている人間がいること。そういう、ささやかな存在証明が、あたしが、あたしでいることを、かろうじて繋ぎ止めている。本音を話す理由は、決して、本音を話せば伝えることができるからじゃない。伝わることもあるし、伝わらないこともある。ただ、本音を話さない時期が長く続くと、自分の思いをひっこめてしまう時期が長く続くと、自分自身が死んでしまう日が、来る。あたしは、これが、一番、こわい。だから、無様でも、醜くても、ここに「こういう状態の人間がいる」ってことを、あたしは書く。

あたし、思うのよ。みんな優しいから、迷惑をかけたくないとか、誰かの負担になりたくないとか、傷つきたくない(傷つけたくない)という思いが働いて、自分の本音を引っ込めてしまうことがある。ここまでの範囲なら断られても傷つかないとか、この人にはここまでなら甘えられるなとか、そう言う風に考えて動くこともあるけど、でも、それだけじゃあ『心の一部は常にさみしいまま』だと、あたしは思うの。だからね、あたしは、提案したい。誰かの負担にならないように生きるのではなく、勇気を出して、負担になればいいじゃない。思い切り、甘えてみればいいじゃない。って。あたしは、いま、こうして書き出すことによって、読者であるあなたに『甘えている』のだと、思う。あたしは弱い人間で、書くと言う行為がなければ、世界と繋がる手段を持つことができなかった。でも、書くと言う行為があったおかげで、こうして、世界と(どうにかこうにか)繋がることが、できています。

強さとはなんだろう。弱さとはなんだろう。あたし、自分の弱さがいやでいやでしょうがなくなることも多いけど、でも、弱さって『希望』だと思うのよ。弱さとは『強くなりたいと思う希望』だと思うの。でね、強さって、なんでも自分ひとりでできるようになること、では、ないと思う。真逆よ。強さとは、つながりを生み出す力だと思う。弱いからこそ、人間は、人間を、必要とすることができる。つながるための、弱さなのよ。わかる???これ???いま、あたし、すっごい大事な話をしていること、わかる???

あたしは弱い人間で、だから、世界とつながることができる。同じように、きっと、あなたのなかにも弱い部分があると思う。でも、それは、決して世界と壁をつくるための弱さではなく、自分を責めるための弱さでもなく、その弱さは『誰かとつながるため』の弱さであり、『世界とつながるため』の弱さなのよ。だから、自分の弱さを、投げ出してしまうのではなく、しっかりと大事にしてあげること。死にたくなるほどしんどい時期もあると思うけど、そんなときは、あたしのことを思い出してほしい。ここにも、死にそうになりながら、それでも『生きてやるぜ』と前を向こうとしている人間がいることを、思い出してもらえたらうれしいです。そして、あたしは、勝手に願う。一緒に、生きて、いきましょう。そして、どこかで、会いましょう。

じゃあ、またね。愛してるわ。バイバイ。

坂爪圭吾 keigosakatsume@gmail.com

【イベント情報】

5月26日(日)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」

6月2日(日)15時~17時@千葉県千葉市「N-HOTEL」

非常にありがたいことに、イベント出演のお誘いをいただきました。当日は、みなさまとお話をしながら数曲披露させていただくような、そんな感じで進みます。是非、生けいごちゃんの波動をリアルで感じてください。この前、過去に数回お会いした女性から「坂爪さんと会うと、必ずそのあとにいいことがあるから、私の中では『坂爪大明神』ということになってます!」くらいのことは、言われているのよ。とかなんとか、こういうことを書くと宗教っぽいから、やばいわね。まあ、いいや。だって、ホントなんだもん。

みんな、遊びに来てねー!ぴょえー!


バッチ来い人類!うおおおおお〜!