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ホームをレスした話(16)

楽になる道が正解だよ。

ひとつの秘密を語ろうと思う。ある日、インドネシアのバリ島に呼ばれた。この頃、私は、体調がすこぶる悪かった。連日の移動と、他者からの期待。いつの間にかネットアイドルみたいになっていた私は、周囲から「会ってください!会ってください!」と頻繁に連絡が舞い込むようになっていた。

私は、誰とでも楽しく過ごせるタイプの人間ではない。気を遣いすぎて自滅することが多く、露骨に疲労を蓄積していた。が、家なし生活の身としては「これも仕方のないこと。食事を提供してくれたり、宿を提供してくれることに感謝をしなければ」と自らに言い聞かせていた。多分、これがよくなかったのだと思う。溜め込んだ感情は臓器を蝕む。怒りや悲しみを蓄積することで、腎臓や肝臓(と言うかすべての臓器)はボロボロになっていた。

ひととのつながりで生きている。が、同時に「ひととのつながりでボロボロになっている」この悪循環を断ち切らなければ、私は、死ぬ。そう思った。しかし、私には金がない。適切な医療を受ける余裕も、安住の地を獲得する術もない。さて、どうしよう。これは八方塞がりである。と、そんなことを思っていた矢先、バリ島に呼ばれた。そして、非常にありがたいことに「バリ島を満喫してください!」と、三日間分のホテルも確保していただいた。

私は「猛烈にありがとうございます!」と思った。そして、この隙に打開策を見出せなければ死ぬ。そう思った。バリ島に着く。ホテルに着く。自分自身に言い聞かせる。道はある。絶望を選ぶな。冷静になれ。困った時は「先人の知恵を思い出せ!」である。的なことを考えていたら、ふと、戦時中、食糧も水もなにもない絶体絶命の極限状態の最中、自分の尿を飲むことによって生命をつないだ軍人(近藤藤太さん)のエピソードが脳裏をよぎった。

「こ、これは」と「ま、まじか」を同時に思った。アマロリを思い出した。アマロリ(尿療法)が浸透したら医者の9割は仕事を失うと聞いたことがある。それほどの威力が尿にはあるのだと、そういうことを思い出した。が、しかし、である。逸話としては面白いが、自分がやるとなると恐ろし過ぎる。聞くのとやるのは大違いだ。私は「いやいやちょっと待ってくださいよ!」と、誰が見ている訳でもないのに自分の着想にツッコミをいれた。

けいご坊や(私)の逡巡ははじまる。

ここはホテルだ。目の前にコップがある。が、こんなことをしたらいよいよ自分は極まってしまうのではないかとか、周囲から変態扱いされるんじゃないかとか、そう言えば幼き頃にさくらももこの『飲尿をしている私』というエッセイを読んだなとか、あれは面白かったなとか、さくらももこがやっていたならば自分も「さくらももこもやっていたんだよ!」と言い逃れができるなとか、常々「自分が恐れていることをやれ」と言っている自分が恐怖を前に逃亡をしたら言葉が嘘になるじゃないかとか、そういうことを思った。

この時点で、もう、私は元気になっていた。飲むか飲まないかを逡巡しただけだが、体調不良の原因がわかった。そうだ。私に欠けているのは健康ではない。私に欠けているのは「楽しみ」なのだ。言い換えるならば挑戦、自分の心を奮い立たせてくれる何か、眠れる獅子【好奇心】を呼び覚ます何かとの出会い、それが欠けていたからこそ「マンネリ化した日々のなかで」臓器がストレスを溜め込み、ボロボロになったと錯覚をしていただけなのだ。

私は、つらいのではなく「つまらなかった」のだ。

尿療法というエキセントリックな打開策が、私のマンネリ化した日々に「まじか!」という衝撃を与えた。飲んで死ぬか。飲まないで死ぬか。そんな感じの逡巡を、私は怯えながらも楽しんでいた。これがよかったのだと思う。やるかやらないかを迷う時に、金があるかどうかとか、そういうことは関係ない。尿は無料だ。あとはもう「やるか、やらないか」でしかないのだ。

とは言っても勇気がいる。私は、実際にやるよりもまず「尿療法 効果」みたいな感じで検索をした。下調べが重要なのだとヒヨっていた。ら、尿の効能は半端ないことが判明した。目薬にもなるし、化粧水にもなるし、初期のガンが消えた(!)人もいるらしい。無論、これは眉唾かもしれない。が、尿は無料である。無効だったら無効なだけ、失うものはなにもない。私は「ほええ」と思いながらも尿療法を調べ続けていた。ら、一冊の本を見つけた。

タイトルは『いざとなったら尿を飲め』だった。

これが決め手になった。別にこの本を読んだ訳ではないのだけれど、もう、いまが「いざ」だと思った。能書きを垂れていないで「さっさとやれ」ということだ。経験を語れ。これが俺のモットーじゃないか。何事も経験だ。やってみなくちゃわからない。成功してもネタになる。失敗してもネタになる。あとは野となれ山となれ、私は、コップを片手にトイレに向かった。

腹を括って、アマロリ(尿療法)を行う。

尿療法という言葉はストレート過ぎるため、アマロリという言葉に逃げる。最初は死ぬほど逡巡したが、結果的になんだかすごいことになった。まず、飲んだ30分後に猛烈な腹痛に襲われた。アマロリには下剤的な効果(?)がある。それは事前に聞いていた。が、実際に襲撃されると「助けてえ!」となる。が、嵐が過ぎるとあら不思議。なんだか異様な爽快感に包まれた。

アマロリの効能は、ネットで調べればいくらでも出てくる。ここまで読んで興味を持ってしまった方々は、是非、調べてみてほしい。そして「いざ」という時は試してみてほしい(そして坂爪の共犯者になってほしい)。人生は、人体実験みたいなものである。実際に試す必要はないのだけれど、いざという時には「あの手があったか!」と思い出してもらえたら幸いである。

人間は考え方で人生が決まる。でも残念なことに、多くの人は、自分なんてできない、自分なんてそれに値しないと決めてしまうの。自分で自分の能力に制限をかけちゃうのよ。ー 神田昌典「人生の旋律(講談社)」より引用

これは、私がアマロリを行うきっかけとなった、近藤藤太伝「人生の旋律」にある言葉だ。最初に読んだのは二十歳そこそこの頃だったが、いま、読み返してみると「なかなかいい言葉じゃないか」と思う。読書が好きでよかったと思った。あの時に得た知恵が、ふとした瞬間に私を生かすことがある。

とてつもないチャンスがノックしてきたとき、自分には絶対にできない、自分には無理と思うことがあるでしょう?たしかに、それは、今のあなたがやるには難しいことかもしれない。でもね、未来のあなたには、なんてこともないことになるのよ。だからね、未来のあなたを信頼するの。未来のあなたに、どうやって自分がそれができるようになったか、聞いてみるのよ。
人生が新しいステージに行く時には、いくつかの進級テストがある。そのテストのことを多くの人は障害という。障害は避けようと思えば避けられる。だが、避けてしまった場合、進級テストにはパスしないのだから、結局、同じステージに留まることになる。やっかいなのは、テストはたいていの場合、抜き打ちでやってくるということだ。
死をリアルに感じることができなければ、生もまたリアルに感じることができない。不幸をきちんと生きなければ、幸福をきちんと生きることはできない。幸せとは、そうした人生のパラドックスの中から、あなた自身が、自分の物語を引き出すことに他ならないのである。(以上、同著より引用)

余談になるが、いま、私はこの記事を書きながら金銭的な事情で悶絶している。カネに苦しむ時期はしんどい。なにをしても常に頭の中でカネの計算をしてしまう。誠に、金銭関係で苦しむことの多い今生ではあるが、過ぎてみると、苦しみは(その渦中にいるときは生き地獄だが)最高の恩恵になることが多い。やっかいなのは、テストはたいていの場合、抜き打ちでやってくるということ。まさにその通り。今も、昔も、試験の多い日々だなと思う。

アマロリによって再生を果たした私は、一路、ベルギーに向かった。そこでプロのダンサーと出会った。彼は言った。「僕達のパフォーマンスが一番発揮されるのは、肩の力を抜いて、リラックスをしながら楽しんでいる瞬間だよ。次はあれで、その次はあれで、なんて考えてばかりいたら動作が鈍る。頭も体もガチガチになる。いいか、ケイゴ、踊るように生きろ。そして、楽しむことを忘れちゃいけない。いいか、ケイゴ、波になれ(BE WAVE)」

『波になれ(BE WAVE)』

素晴らしい言葉だと思った。流れるように生きるのだ。娑婆の海原、気張っていたら溺死をする。これまでの日々がそうであったように、人生は(自分の力だけで)どうにかするものではなく、宇宙全体の働きによって「どうにかなる」ものなのだと思った。楽になる道が正解だよ。そう思った。こうあるべきという姿に縛られるのではなく、自然な流れが大事なのだと思った。

ら、奇跡が起きた。

(つづけ・・・)

バッチ来い人類!うおおおおお〜!