見出し画像

第65弾「かくれんぼ」

ハーイ!みんな元気?あたしけいご。

65曲目はこれ。かくれんぼ。今朝、LUNA SEAの動画を見て「かっけー!」ってなって、よし、俺もLUNA SEAみたいな曲を作ろう!やるぞー!と思って、蓋を開けてみたらコレよ。なに、コレ。『かくれんぼ』ってなによ。でも、騙されたと思って聞いてちょーだい。LUNA SEAからはどんどん遠ざかっているけれど、まあまあ、いい感じの曲というか、背景が、綺麗。

「かくれんぼ」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

顔色ばっか 伺っていたら
俺の顔色が 悪くなっちまった

もう やかんも 熱くないぜ wow
もう カレーも 辛くないぜ wow

人の視線(め)ばっか 気にしていたら
俺の視線が 消えて なくなっちまった

もう 笑えることも ないぜ wow
もう 涙を流すことも ないぜ wow

俺をどこに置き忘れてきた 出てこいよ
自分を 取り繕うのも もう いいかい

愛想ばっか 振り撒いていたら
俺の中に棲む リトルガール 暴れ出した

もう 一人も 怖くないぜ … 嘘つきが
もう 誤解も 怖くないぜ … 強がるな

君はどこで何している 俺を 見つけてよ
心まで 捨て去るのは ああ まあだだよ

俺をどこに置き忘れてきた 出てこいよ
自分を 取り繕うのも もう いいかい

君はどこで何している 俺を 見つけてよ
心まで 捨て去るのは ああ まあだだよ

昨日、今日、二夜連続で「一夜限りのAgape(アガペー)ライブ」を開催しました。海で。東京とか、香川から来てくれた人とかもいて、行動力にびっくり。素晴らしいと思う。夕日を見るためだけに、来てくれたのよ。夕日は、ご覧のような感じでした。この写真は、昨日。今日は、雷がすごかった。遠くの佐渡島が雷で赤く燃えていて、なんか、魔界みたいになってた。が、それも非常に乙でした。参加者の女性が「なんだかすごい豊かな時間ですね」って言ってくれたこと、すごい、うれしかった。お金をかけずに、こんな豊かな時間を過ごせるんですね、って。あたし、嬉しくなって「(お金をかけずに豊かな時間を過ごすことは)得意分野です!」って、敬礼した。

千葉県でライブをさせてもらった時に、主催者のN様から、カホン(座って叩く太鼓)をもらいました。早速、ここで、大活躍。あたしたちのバンド『Agape』は、なんだかRPGゲームみたい。最初はあたしひとりで曲を作って、保科さんがベースでリズムをつけてくれる。そこに、五月から竹谷さんがギター(ギター歴現在三週間!)で参加してくれて、今回、カホンで徹さんが参加してくれた。徹さん、もう、最高。徹さんを、いかにしてアガペーのドラム(というかリズム体)に巻き込むことができるのか、が、今後の課題。徹さんがはいったら、ウルトラ、アガペーは進化をするのだと思う。

N様のことは、前回のブログ記事でもご紹介をさせていただきました。歌も最高だけど、N様、MCも最高だったの。でね、そのあと、N様が店主を務める「14番目の月」っていう名前のスナックで、色々、話をした。印象に残る話が20個くらいあったのだけど、そのうちのひとつ、ユリ・ゲラーの話があります。彼は超能力でスプーンとかを曲げるひとなんだけどね、お客さんみんなが「スプーンは曲がる!」って超能力を好意的に捉えているひとだと、スプーンも、簡単に曲がるんだって。でも、お客さんが「スプーンなんて曲がるわけないだろ」とか「そんなものはインチキに決まっている」とか、場に対して否定的なエネルギーが集まると、超能力も失敗をすることが多いんだって。そういう話を聞いて、なんか、わかるなあって思ったのよ。

自分に対して好意的な人が周囲にたくさんいると、安心して、自分の才能を爆発させることができる。変な遠慮もしないでいいし、のびのびと、自分を表現することができる。本当、その通りだなって、思う。この話を聞きながら、あたし「ホームとアウェイ」について、考えました。人間、多分、ホームもアウェイも、どっちも必要なのだと思う。でも、いまって、その境界線が曖昧になっている気がしたの。ホームって、普通、実家であったり友達であったり、自分が馴染んでいる環境だと思うのね。ホームがあるから、そこでエネルギーを充電して、アウェイで戦う気力を得ることができる。ということは、頭では、わかる。でも、いまって、明確なホームとか、明確なアウェイを実感する機会って、なかなかないのかも、って、個人的に思うのよ。

たとえば、あたしの実家は新潟だけど、ホーム感があるかというと、ない。別に、家族との仲は、いい。でも、家にいると、元気を蓄えているというより「怠けてダメになる」という感覚の方が、強い。で、あたしは、海に行く。そこでようやく、ああ、ここが自分の居場所だ、みたいなホーム感を得る。なにがあっても、最悪、自分はここに来れば大丈夫だ、と思える感覚がホーム感だと思う。そこで得た力(あたしの場合なら音楽)を、外の世界で、自分を表現する武器として生かしていきたい、みたいな気持ちになる。

でもね、うまく言えないけど、生きていてもホーム感を確認できる機会って、なかなかないのよ。これ、多分、あたしだけじゃないと思う。本来、ホーム感を感じるべき場所で、なかなかホーム感を感じられない。だから、アウェイで戦う気力を、蓄えることができない。ホームにいながら、アウェイ感を感じたりする。だから、結果、常にカラダが緊張状態に置かれてしまって、本当の意味で「やすらぐ」ということが、できない。きっと、そういう風に感じるひとって、少なくないような気がする。そういうことを思った。

あたし、考えても仕方のないことを考えることが好きで、今日は「どこまでが自分なのかな」って、考えていた。例えば、いまのあたしは五体満足だけど、仮に、自分の右腕が事故でなくなったとするでしょ???でも、右腕をなくした自分が、自分とは別人なのかというと、そんなことはない。右腕をなくしても、あたしは、あたしのまま。足をなくしても、耳をなくしても、きっと、あたしはあたしのままなんだと、思う。では、なにが、あたしを『あたし』にしているのだろう。カラダなのだろうか。でも、カラダの一部をなくしても、あたしはあたしのままならば、カラダではないのだろうか。

とかね。

あとは「自分っていうのは皮膚に包まれた範囲まで、ではなく、自分から半径三メートルくらいまでは自分であるような気がする」とかも、思うの。例えば、あたしは人間のエネルギーみたいなものを敏感に感じちゃうから、同じ空間に「あ、このひとはちょっと苦手だな」とか感じるひとがいると、露骨に元気を失うの。きっと、これは、そのひとのエネルギーが、そのひとの体を超えて伝わってくるからなのだと思う。まぜこぜになっちゃうのよ。自分のエネルギーと、相手のエネルギーが、空間全体でまぜこぜになっちゃって、弱者であるあたしは、すぐに弱る。結果、生きることをしんどく思う。逆もしかりで、いい感じのひとと出会うと、露骨に元気になったりもする。

とかね。

そう言えば「髪の毛が長い人はインスピレーションを得やすい」って説、あるじゃない???だから、インディアンは男も長髪にしていたっていうじゃない。これ、あたし、思うの。髪の毛が長いと、結果的に『自分の表面積が増える』から、飛び交う情報なりエネルギーをキャッチしやすくなるのよ。だから、良くも悪くも、インスピレーションが高まるとでも言えばいいのか。あたし、数ヶ月前まで長髪だったから、短髪になったいま、昔よりも諸々シンプルになっている気が、するのよ。短髪だとね、話が早いの。それはシャンプーの手間が省ける、とか、物理的なあれもあるけど、それだけじゃなく、目に見えない範囲でも「手間が省ける」というものがあると思う。

とかね。

余談ついでももっと話すと、さっき「腕をなくしても自分は自分のまま」とか書いておきながら、いや、実は結構変わるんじゃないのか、とかも思うの。病気を経験したひととか、似た感覚、あると思う。自分は自分のままだけど、なにか、確実に変わった部分を感じるという体験。生きながらにして、生まれ変わるような、露骨な表現をすれば「自分を断捨離する」ような、そういう感覚。右腕をなくしたことは、痛い。確かに痛いのだけど、同時に「清々しい」とか「いままで悩んでいたことに、悩まなくてよくなる」みたいな、それは、視力を失うことで「いままで以上に見えるようになる」ことと、似ている気がするの。これ、同じ人間のようで、ある意味、別人になったとも言える、と、思わない???これ、どうなんだろう、ねえ???

何が言いたいのかというと、結局、こうだと思っていることの多くは、意外と「そうではないかもしれない」ってことに、支えられているということ。これが自分だと思っていた部分も、よく見ると、まったく意味不明だったり、まったくわけのわからないものだったり、まったくそうではなかったことも、多い。社会生活を営む上で、あたしたちは「わかったつもり」になって生きることが多いけど、でも、実際はわからないことだらけなのよね。地球。宇宙。銀河。地球がまわっているとか、その上であたしたちは暮らしているとか、冷静に考えてみると、もう、意味がわからなすぎることだもん。

だから、だからっていうのも変だけど、あたしは「考えることが、人間を、自由にする」って思うの。そんな風に思うから、考えても仕方のないことを、ああだこうだと考えるのだと思う。なにかを考えるとき、あたしたちは、自分たちがどんな社会的な肩書きかとか、最近はこんなことを悩んでいるとか、そういう現実的な問題を、全部、忘れることができる。なにかを考えている時間って、夢中になるというか、没我になるというか、自分が消えてなくなるのよね。自由という言葉は、いろいろな風に言われるけど、あたしにとって自由って「自分が消えている状態」だと、感じることが多い。自分が消えて、対象そのものに没入することができているとき、あたしは、自由になる。自由になるという自覚さえ超えて、自由になることができます。

じゃあ、またね。愛してるわ。バイバイ。

坂爪圭吾 keigosakatsume@gmail.com

【イベント情報】

6月9日(日)17時~20時頃@大阪市北新地「Candy」

6月30日(日)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」

非常にありがたいことにライブ出演のオファーをいただいたわ。うれしい。とってもうれしい。内容としては、みなさまとお話を楽しみながら、途中、四、五曲をお披露目させていただく感じになります。生けいごちゃんから放たれているエネルギーはそれなりのものがあるから、それに触れるだけでも参加の価値があると思うわ。あと、もし、こんなあたしと「イベントを開催したい!」なんて思ってくださる方がいたら、是非、お気軽にお声をかけてちょーだい。交通手段さえどうにかなれば、あたし、何処までも行くわよ。

みんな、遊びに来てねー!ぴょえー!

これは、この前の千葉の動画!リハーサルの風景!


バッチ来い人類!うおおおおお〜!