見出し画像

第83弾「untitled」

ハーイ!みんな元気?あたしけいご。

83曲目はこれ。untitled。昨日、新横浜の慶州苑で焼肉ランチご馳走になった。調べたら、なんと、菊名駅前にも慶州苑があることを知った。今日、あたしと竹谷さんと保科さんの三人で焼肉ランチ食べた。焼肉ランチ素晴らしいと思った。千円程度でごはんおかわり自由。肉、すごい美味しい。夜に食べると翌日もたれるけど、昼なら、最高。お金持ちになったらまた行く。

「untitled」 作曲 Keigo Sakatsume

今日の曲、歌詞のない曲。このメロディーができたのは、数ヶ月前、イギリスのグラストンベリーという場所にいた時。あの場所は天国みたいで、ジョン・レノンがイマジンを作ったと言われている『チャリスウェル』っていう庭園もある。歌詞、つけたいのだけれどつけられない。だから、このまま公開。聴きながら、もし、メロディーが浮かんだらこっそり教えてください。

ジョン・レノンと言えば、奥田英朗の作品に「ウランバーナの森」って小説がある。多分、あれ、ジョンが主人公。その作品の中で、ジョンは病んで、日本の軽井沢あたりで療養を受けるの。でね、精神科医に、テストみたいなのを受ける。それは、働きアリが出てくるテスト。あるところに、働きアリがいました。アリは、蜜を出すことで、後続のアリたちに「こっちだよ」ってサインを送る。でも、ある時、ひとりの少年が悪戯心を発揮した。アリの行列に、石を置いたの。石を置くと、アリは行列を続けることができなくなる。そのことをわかって、少年は、わざと「石を置く」っていう悪戯をしたの。

それで、精神科医はジョンに尋ねる。ねえ、ジョン。この少年がしたことをどう思う???って。すると、ジョンは答える。「少年はひどいことをしたと思う」と。すると、精神科医は尋ねる。どうしてひどいことだと思うんだい???って。すると、ジョンは答える。「だって、石を置いたらアリはどこにも行けなくなるじゃないか」って。するとね、精神科医はまたさらに尋ねるの。どこかに行く必要なんて、あるのですか???って。でね、ジョンも、さすがに上手に答えることができなくなって、答えに詰まるの(記憶があいまいだけど、こういう感じのエピソードが紹介をされていました)。

でね、精神科医は続ける。「人間にしろ、動物にしろ、生きていくうえでしなければならないことなど実はひとつもないのです。読まなければならない本もなければ、会わなければならない人もいない。食べなければならないものもなければ、行かなければならない学校もない。権利はある。しかし義務はない。してはいけないことがいくつか存在するだけで、しなければならないことは何もないのです。あなたは《かくあるべし》という気持ちが強すぎる」って、そういうことを、ジョンに言うの。あたし、なんだか、この言葉を聞いた時にドキッとした。ああ、あたしに言われているのかも知れないって思った。

あたしは、今、1日1曲を作るっていうことをやっている。曲ができたときは、嬉しくなる。それはとても素晴らしいこと。だけど、その反動で、曲ができない1日は「ああ、自分は無価値な人間だ」とか、割とすぐに思ったりする。人間、生きていればなにもできない時期もあるよね!みたいな感じで、カラッとできたらいいのだろうけれど、なかなかそうはならない。良くも悪くも、自分を追い込む。そして、なにかをしている自分には価値があるけれど、なにもしていない自分には価値がない、というものの見方をする。

これが、いいことなのか悪いことなのか、わからない。ものを作るひとは、ある種の強迫観念によって、作る、作らざるを得なくなる状態に置かれる。そのおかげで、名曲が生まれる。カーペンターズも似ている。彼女の声も、死期が近くほど、声が透明になる。声が澄んでいく。その切なさに、胸が打たれる。あの有名なマリリンモンローも、あれだけの名声を集めておきながら、36歳の若さでおかしな死に方をする。自殺かもしれないって噂もある。どれだけ世間的な知名度を集めても、彼女のインタビューなどには「愛がほしい」という意味の言葉が、とても頻繁に登場する。じゃあ、彼女が幸せだったらよかったのかというと、わからない。天才って、なにかがひとよりも『ある』ひとのことではないと思う。天才って、なにかがひとよりも『ない』ひとのことだと思う。その欠落を埋めるために生み出したものが、多くの人々の共感を集める。自分の命と引き換えに、彼らは作品を生み出す。

健康で長生きをすること。素晴らしいことだと思う。その反面、あたしたちは夭折の天才に熱狂する。カート・コバーンしかり。ブルース・リーしかり。マリリン・モンローしかり。彼(女)らは、健康ではなかったかもしれない。長生きすることが美徳とされる世の中では、背徳的な生き方だったかもしれない。それでもなお、時を越えて人々に愛される魅力を帯び続ける。その不思議。人間って、矛盾する気持ちを抱えた生き物だと思う。生きたいと思うこともあれば、死にたいと思うこともある。細く長くを願いながら、太く短い人生を望む瞬間もある。安定を望みながら、危険な冒険に憧れる。誰かといたいと思いながら、同時に、ひとりでいたいと思ったりもする。

あたしは男で、今日もおいしいご飯を食べた。おいしいご飯を食べることは、とても幸せなこと。でも、大袈裟だけど、生きることって『浅ましい』ことだなって感じることがある。前、随分病んでいた時期、腹が減る自分に腹が立った。心は死にたいと思っている。でも、体は、なにもしていないくせにいっちょまえに腹を空かす。心は死にたいのに、体は生きたがっている。新しい栄養を求めている。この矛盾に、腹が立った。腹なんか減らなければいいのに、って思った。そうすれば、簡単に死ねる方向に向かえるのに。って。そういうときは、食べることが苦痛だった。口を動かすことも面倒で、食べなければいけない状態に、あたしは腹が立ったり、それでも結局食べてしまう自分の姿を見て、ああ、惨めだなあとか感じたりしていた。

いまは体も心も元気で、ごはんもおいしく食べられる。ただ、どこかで、死んだひとのことを思う。死ねば腹は減らない。生きて、こうして腹が減っただのなんだの、旅行に行きたいだのなんだの、布団で眠れることが気持ちいいだのなんだの、言っている自分を浅ましく感じることがある。別に、自分に懲罰的になっているって訳ではないの。ただ、生きていることの『浅ましさ』に、なんだか自分の程度の低さを思い知る、みたいに感じる瞬間がある。でね、今日も、そんな気持ちになりながらカフェでコーヒーを飲んでいた。そして、コーヒーを飲みながら「女の人を、こういう気持ちにさせたらいけないな」って思った。なぜだからしらないけれど、そう、思ったのよ。

あたし、前に、家のない生活をしていた。テントで寝たり、初対面の人々の家に泊まったり。こんなあたしを見て「いいなー。楽しそう。あたしもやってみたい」って話す女の人と、結構出会った。変な言い方だけど、女の人は、こんな生き方はしない方がいいと思った。体の違いって、あると思う。常に外で暮らす生活は、男の自分には合っている。でも、女の体は、そういう風にはできていない。生理が止まったり、潤いがなくなったりすると思う。生きることに『浅ましさ』を感じることも、なんだか似ている気がしたの。男が、そう思うことは、OK。でも、女の人を、そういう気持ちにさせたらいけないな、そのために男はいるのかもしれないな、って、そういうことを思った。

具体例を出せずに申し訳ないのだけれど、あたしは男で、女の人に助けられて生きているっていう感覚がすごいある。彼女たちは、多分、無条件の愛を本能的に知っている。たとえば、女性から、お金をもらったとする。でも、そのとき、あたしは「お金をもらったんじゃない」という気持ちになる。あたしがもらったのは、彼女たちの、命なんだ。そう言う風に感じる。うまく言えないけど、女の人たちは、男の人たちが躊躇してしまうようなとき、たやすく、自分の命を投げ出す。それによって、男は、生きることができている。そして、そのことを、あたしはすぐに忘れる。そして、たまにそのことを思い出したときに、申し訳ない気持ちになりながら「ありがとうございます」とか、思ったりする。それで、別になんのお返しもできるわけではないけれど、せめてもの報いに、一輪のおはなを抱えてそのひとに会ったりする。

感謝って言葉。大事な言葉だと思う。でも、本当の意味で感謝をすることなんて人間にはできないと思う。自分が与えられてきたものの大きさを知る時、とてもじゃないけれど、そのすべてに『お返し』をすることなんてできない。どれだけ言葉を重ねても、どれだけ多くの贈り物をしても、完璧なお返しなんて絶対にできない。感謝って言葉は、自分が、いかに感謝できない(与えられ続けている・許され続けている)存在なのかということを実感させるために、ある言葉だと思う。そして、思う。じゃあ、どのように生きることが恩返しになるのか。どのように生きることが報いることになるのか。って。思い出ばなしになっちゃうけれど、昔、所持金1万円しかなかったひとが、あたしを生かすために、そのままあたしに1万円を渡して、それから消息が途絶えたひとがいるの。そのひと、あたしに1万円を渡すとき、すごい晴れやかな顔をしていた。自己犠牲的な表情を浮かべることは一切なく、ものすごい晴れやかで、見ているこちらが泣きそうになるくらい、凛とした表情をしていた。でね、そのあとに、実はそのひとはすごい額の借金を抱えていたってことを知ったの。自分が生きるだけでも大変なのに、それなのに、(当時苦しい状態に置かれていた)あたしを助けるために、そのひとは有り金をすべて差し出した。これを差し出したら、生きていけなくなる。それを差し出している。そして、消えた。あたしは、そういうものによって生かされているのだって考えると、なんだか、いたたまれない気持ちになる。

なんだか、しみったれた話になってしまった。言いたいことがあるって話ではなくて、ただ、あなたに聞いてもらいたくなって、こんな話を書いてしまいました。話は変わるけれども、6月29日(土)は、我らがベーシスト・保科亮太さん31歳の誕生日です。ほんとう、彼を見ていると「よく生きた!よく(その人格を維持したまま)生きてこれた!」って思う。ピュアな人格に触れると、なんだか、すごいうれしくなる。純度を保ったまま生きているひとを見ると、ああ、この世の奇跡だって思う。この世の奇跡が、今週土曜日&日曜日に、ごちゃまぜの家に集結します。お時間のあるかたは、是非、遊びにいらしてください。あなたに会えることを、楽しみにしています。

じゃあ、またね。愛してるわ。バイバイ。

坂爪圭吾 keigosakatsume@gmail.com

【イベント情報】

6月29日(土)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」

※※※ 急遽、二日連続開催することになりました! ※※※

6月30日(日)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」

音楽活動開始宣言をしてから、およそ4ヶ月が経ちました。音楽初心者が、一年でどこまでいけるかを見てみたい。そのためには、本気でやる必要がある。そう思って、1日1曲を目安に音楽を作ったり、できる限り場数を踏むためにライブ活動(人前で演奏すること)も経験したいと願っています。もし、人前で演奏できる機会を設けてくださる方がいたら、ご連絡いただけたら最高にうれしいです。交通手段さえどうにかなれば、あたし、どこまでも行きます。会場も規模も問いません。ひとりでもいれば、あたし、行きます!!


バッチ来い人類!うおおおおお〜!