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承認欲求は、存在欲求を満たせない。

娘がブラック企業で働いていて、家でしくしくと泣くことが増えたんです。頑張れって言い過ぎることもどうかと思って、この前、娘の背中に一時間くらい手を当ててみたんです。手当てって言葉もありますが、長い時間娘の背中に手を当てていたら、彼女の辛さや苦しさが伝わってきて、話しているだけではわからない感覚を感じることができて、なんだかすごいよかったんです。ずっと手を当てていたら、最後の方、ふわっと自分の手が軽くなる感覚がありました。すると、娘が「お母さん、もう大丈夫だよ」と言いました。

私には息子がいて、息子はいま仕事をしていないのですが、息子の中にも「働かなくちゃいけない」って思いがすごく強くあるみたいで、仕事の面接などには行くのです。でも、いざこれから働くぞってなると、どうしても家を出ることが怖くなってしまって仕事に行くことができず、結局働くことができないということを繰り返していました。この前も同じ出来事が起きて、息子が「お母さんごめん。やっぱり仕事に行けない」と言いました。私は、内心「ああ、またか。これがいつまで続くのだろう」とは思ったのですが、そんなことを言うわけにはいかないので、仕方がないよねと伝えました。ただ、娘の背中に手を当てた経験があったので、息子の背中にも手を当ててみることにしました。すると、話しているだけではわからない息子の悲しみのようなものが伝わってきて、手を当てているこちらの気持ちまでほぐれてきて、苛立ちや不安などと言った感情がゆっくりと溶けていきました。そして「私が生きている間は生活はどうにかなるのだから、それでいいんじゃないかな。私たちの家族はみんなが幸せに生きることが大事なんだから、生きている間は、一緒に幸せに生きていこうよ。いいよ、いいよ、そのままでいいよ」という気持ちが湧き上がってきました。その時にはもう、自分の中から息子を責める気持ちや将来を不安に思う気持ちはすっかりと消えて無くなって、ただ、一緒に幸せでいようねと言う感覚に包まれたことを感じました。

すると、驚いたことに次の日、息子が「お母さん、なんだか俺、もう大丈夫な気がする」と言いました。そして、仕事をすることになったのです。その時に気付きました。息子が働けずにいたのは、もしかしたら自分の中に息子を責める気持ちや苛立ち、冷たい気持ちがあったからなのかもしれないと。私の中からそういった気持ちがなくなった瞬間、息子が、これまでとは全然違う姿を見せてくれたのです。私は超能力とかを信じるタイプの人間ではないのですが、人間の手のひらには、もしかしたらものすごい力があるのかもしれないと思いました。体に少しだけ触れるだけでも、言葉だけではできない何かを、言葉だけでは伝えることのできない力を、伝えられるのかもしれません。手当てってすごいことなんだなと、あの時に凄い強く思いました。

これまで、私はテレビなどで「自分の生活を守るために、親が死んだ後も葬式も出さないでこっそり年金を受け取っていたこどもたちがいる」というニュースを見ても、なんだかひどいことをする人たちがいるんだなという風に感じていました。でも、手当てをしてからというもの、自分の考えがまるっきり変わっていることを感じました。自分が死んだあとも年金を受け取ってこどもたちが生きて行くことができるなら、それでいいんじゃないのかな、どんどんもらっちゃっていいよって思うようになったんです。世間的には間違っていることなのかもしれないけれど、親って、こどもに対してそういう気持ちを抱くものなんじゃないのかなって思ったんです。自分がやっていることが、良くも悪くもこどもたちに影響を与えてしまうのが、親なのだと思います。坂爪さんのブログを読んでいると、毎回、心が軽くなる気がするのです。どうしても世間とのズレを感じてしまう部分が自分にはあって、それで思い悩んだりもするのですが、いいよ、いいよ、自分のままでいいよって言ってもらえているように感じるのです。ああ、自分のことばっかり話してしまって本当にごめんなさい。聞いていただいて、ありがとうございます。

キリスト教の天国は「一人では実現できない」と言われている。なぜなら、キリスト教では人と人とがお互いを受け入れて、お互いに愛し合う時に天国が生まれると考えるからだ。一人ぼっちの天国はありえない。人間の根源的な欲求に「みんなと仲良くやりたい」「一緒に楽しみたい」というものがあると思う。自分は自分のまま、相手は相手のまま、仲良く調和しながら生きていきたいという思いがある。戦争よりも平和を望む気持ちがありながら、それでも戦争を止めることができない。愛し合いたいと思いながら、妬んだり憎んだり、誰かを排除したくなる気持ちが働く。キリスト教では『赦す』という概念が重要視される。赦すことは、上から目線になることとは違う。自分の中にある罪を認めることが、自分を含めた人間を赦すことに繋がる。

承認欲求という言葉がある。自分の存在を認めてもらうために、功績をあげたり誰かの役に立とうとする働きが、多かれ少なかれ私たちの中にはある。しかし、価値と功績は別物だ。価値は人間の存在に宿り、功績は人間の行動に宿る。承認欲求は、行動によって自分の存在を認めてもらおうとする働きのことだ。それを悪いとは思わないが、それだけになると「何もしていない(何もできない)自分には価値がない」ということになる。何かをできる人は必要な存在になるが、何もできない人は不必要な存在ということになる。繰り返しになるが、承認欲求は『行動』を認める働きだ。しかし、それだけでは『存在』を認めるまなざしがなくなる。承認欲求とは別に、私たち人間には存在欲求があると思う。何かをしたから認められるのではなく、何もしていないとしても認められているという感覚が必要だと思う。承認欲求を満たそうとする動きはそこらじゅうに溢れているが、存在欲求を満たそうとする動きを目にすることは少ない。働かざるもの食うべからずという正論や、自己責任などという冷たい言葉は、決して存在欲求を満たすものではない。

誰かが自分のことをちゃんと見てくれている。誰かに自分のことをちゃんと見てもらっている。そういった感覚を抱くことができた時、自分の中にあった承認欲求にも似た不足感はゆっくりと鎮まり、心が落ち着きを取り戻す。誤解を恐れずに言うと、今、日本は存在欲求を満たすまなざしが減っていると思う。心の穴を埋めるための行動は溢れているが、存在そのものを見つめる『まなざし』が減っている。だから、絶え間なき欲求不満や絶え間なき不安感、絶え間なき欠乏感が漂っていて、心も体も疲弊をしている人が多い。冒頭で紹介をした『手当て』のエピソードは、私たちの存在欲求を認める。肌と肌とのふれあいが満たすものは、承認欲求ではなく存在欲求だと思う。存在欲求が満たされたのならば、私たちの中にある承認欲求はゆっくりと姿を消して行き、もっと自由に好き勝手に、楽しく生きられるのではないだろうか。承認欲求を満たすための、おかしな言動も減るのではないだろうか。

頭ばかりが働くと、どうしても私たちは答えを求めてしまう。世間的に「これが正解」とされている生き方を求め、自分を答えに合わせるような生き方をしてしまう。しかし、魂は「自分は自分のままで生きていきたい」と叫んでいる。自分以外の何者かになることで認めてもらうことよりも、醜い部分やダメな部分もひっくるめて、自分のままで生きていきたいと思っている。言うまでもないことだが、神様は不必要な人間を作るほど愚かではない。あらゆるルールは人間のためにあるものであって、人間がルールのためにあるのではない。人間が先。ルールは後。しかし、最近はそれが逆転している。人間が条件を満たすための道具になっていて、人間が大事にされていない。だから、使い捨てにされたり、世界と絆を結ぶことができなくなっている。人間が先。条件は後。私たちは、条件を満たすために生まれた訳ではない。何かができるから生きていていいとか、何かができないから生きていてはダメだとか、ない。生きていると言うことは、生きていていいということだ。

昨日お会いした女性と別れ際に握手をした。私は、できるだけ握手に気持ちを込めるようにしている。強く握ると言うことではなく、この握手が何かしら相手の力になることを願って、力よりも気持ちを込めて握っている。それを受け取ってくれたからなのかはわからないが、手を離した後に女性が「ごめんなさい、もう一回だけ握手をしてもらってもいいですか?」と言った。そう言いながら、彼女の瞳は潤んでいた。一度目よりもさらに強く、私は彼女の手を握った。それ以上に強く、彼女も私の手のひらを握り返した。しばらく無言の時間が流れた後、彼女は「ありがとうございます」と言って顔をあげた。そして、駅に向かって歩き出した。何度も何度もこちらの方を振り返りながら、彼女はゆっくりホームに消えた。はなむけという言葉がある。旅立つ人の門出を祝し、激励の言葉や品々を贈ることを意味する。かつての日本では、道中の無事を祈って、その人が乗る馬の『鼻』を、これから向かう目的地に『向け』てやる習慣があった。存在欲求が満たされた時、人は、少しだけ涙を流した後、顔を上げて向かうべき方向に歩き出すのだと思う。

坂爪圭吾さま

はじめまして。
札幌在住の◯◯◯◯◯◯◯と申します。

数日前、「ホームをレスした話」を読んで衝撃をうけました。

さらに、他の記事を読めば読むほど、
モーレツに、自分の嘘くささに、腹が立ってきました。

目の前で、むき出しで、いのち全開で、
何もかもをそのまま体当たりで本音で生きているあなたの言葉は
刺さります。
シャープすぎます。

心に湧き上がるものに、形を、言葉を与える才能にも嫉妬しました。

ちくしょー---って叫びました(笑)


でも、すごく、すごく清々しい気持ちでした。

私の中に、こんなにも燃えるようないのちを感じたのは久しぶりです。

数日間は、衝撃を受けて頭もぼーっとしていました。

ぜひお会いしたいと思いました。
でも、私はシングルマザーで、札幌までの旅費などを負担するゆとりはなく、
それ以上に、正直に言うと、今は会うのが怖い気持ちもあります。

それに、どういう訳か、このままで終わらせないぞ!という気持ちも起こり、
今、あなたの文章を読んで着火されたものを、どうにかしたい!という衝動の方が大きいのです。

来年に向けて考えていたプランも、いったん白紙にして、
本音の方にグイっと向き合おうという気持ちになっています。


何が言いたいのかわからない内容ですが、

とにかく、坂爪さん、

あなたがいてくれてありがとう!!!

と言いたくてメールをさせていただきました。

坂爪さん、生きていてくれて、同じ時代にいてくれてありがとう!!


読んでいただきありがとうございました。
坂爪さんの幸せをお祈りしております。

おおまかな予定

12月22日(木)東京都恵比寿界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

バッチ来い人類!うおおおおお〜!