ホモ・デウス考察~意識には本当に価値がないのか

前記事「ホモ・デウスのまとめ」では自分なりの要約を書きましたが、続いて感想や見解、そして著者の最後の投げかけに対する回答を述べることを試みてみようと思います。

「物語る自己」の暴走

「物語る自己」=虚構のはたらきによって、個人は個人であると認識(錯覚)しています。そして自由主義は、それを肯定しより強固にすること、個人のすべての経験には価値があると等しく意味を与えることに、そのイデオロギーの根幹があります。

インターネットによって、情報の発信が民主化されてしばらく経ちました。それで明らかになってきたことは、大多数の人にはわざわざ発信すべきことなどないということでした。

自由に何でも言っていいということになると、生産性のない批判が横行します。Amazonの本のレビュー欄は、内容を理解できるリテラシーを持ち合わせていない人や、そもそも内容に関係なく著者を攻撃したい人によって★1がつけられますが、システム上は当然平等に扱われ、星の数が集計され、正当な評価になってしまいます。

自分はほとんどテレビを見ないのですが、たまたま休みの日に昼間のワイドショーを久しぶりに見て、気が狂いそうになりました。これはいわゆる「公開処刑」の代替品というか、他人に石を投げてスッキリ!させることで大衆にガス抜きさせるという機能を、現代風にソフィスティケートしたものに他ならないと思います。

そして、それと同じことがSNSでは起きています。発言の一部だけを切り取って主張を歪めるいわゆる「ストローマン論法」が自覚的あるいは無自覚的に多用され、twitterのリプライやYoutubeのチャット欄はさながら地獄のような様相を呈しています。

そしてこの議論の低レベル化は、この国ではもはや国会にまで逆輸入されていて、国家レベルで思考停止が促進されています。発信するだけで、人はある程度自分を表現したいという欲求を満足させることができる、と宇野常寛氏は言います。そうして条件反射的に、つぶやいたり自分の感情に似た発言をリツイートすることで一種の快楽を得ていると。
しかし自由主義においては、すべての人の感情や経験や発言には等しく価値があるのですから、どんなクソリプでも尊重すべきですし、どんなひどい政治家がひどい政治を行っても大衆の支持を得ているのですから尊重されるべきなのです。

それ以外にも、ネトウヨやモンスターペアレンツ、幼児化した大人の蔓延など、人間至上主義の行き過ぎによる「近代の病」とでもいうような惨状が、現在の社会ではないかと思います。

暴走の果てにあるもの

「ホモ・デウス」では「データ教」が「人間至上主義」の代わりになり得る新宗教として紹介されていました。人間の経験そのものには意味がなく、データとしてシェアできるという点にのみ、他の動物の経験との差がある。データを「自由」にし、人間よりも優れたアルゴリズムに評価や判断を委ねることで、社会はよりよい方向に向かうと信じている人たちが実際にいて、確かにそういう可能性はある、と。

本書では具体的な事例として、社会主義国家と自由主義国家のパン供給における相違点が挙げられていました。
社会主義国家では、パンの生産と供給は統制されていて優秀な人材がそれを担っているが、いつも長い行列ができてしまう。一方自由主義国家では行列などできないが、それを統制している担当者などいない。それはパンの生産と供給に関わるデータが自由なので、市場の見えざる手により最適化されているからだ、というものでした。

ユヴァル・ノア・ハラリは以下のような問いかけで「ホモ・デウス」を締めくくっています。

1 生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
2 知能と意識のどちらの方が価値があるのか?
3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるか?

人間は複数のアルゴリズムの集合体であるということは、科学的には間違いないと思います。著者はヴィパッサナー瞑想を熱心にやっているそうなので、人間の心の働きを科学的に、かつ直感的に理解した上で論を展開していると思われます。人間の意識が、感覚器によって外部から情報を得、それを分析し解釈して統合していく無意識のプロセスの集合体であり、観察の訓練によってある程度意識的に認識しコントロールできるということは、もうずっと前にブッダが解明した通りです。

SNSの発言内容を、その人の過去の発言や、その他様々なデータも合わせて分析することによって、耳を傾けるべきものかそうでないかフィルタをかけてくれるアルゴリズムを開発するというのは、あり得る話でしょう。
実際twitterのクソリプも、発言者のプロフィールや過去の発言を追うことでクソ度合いがより明らかになるので、それを自動化するだけです。
その文脈では、宇野常寛氏が提唱している「遅いインターネット計画」も、インターネットに関わる人の「速度」によってフィルタをかけようとする運動だと解釈することができます。

人間がその意味や価値を捨て去り、AIなどのより優れたアルゴリズムに評価や判断を委ねるというのは、東浩紀の「一般意志2.0」に通じるものがありますが、それは意識よりも知能の方に価値があると認めることに相当するでしょう。

SNSや国会の議論のレベルの低さやテレビの醜悪さ、近代の病の原因は、近代そのもの、つまり「人間至上主義」「自由主義」にあるので、これを破壊するしか根本的な解決方法はありません。
その解決方法の一つとして、人類がごく一部のホモ・デウスというエリート層と、その他の無用者階層に「生物学的に」分かれる未来が本書では提示されています。それは人間の意識よりも、人間以外を含む知能の方に価値があるという未来です。
果たしてそれ以外の解決策はないのでしょうか?

意識には本当に価値がないのか?

「ホモ・デウス」には以下のような記述もあります。

人間至上主義の革命が起こると、近代の西洋文化は卓越した精神状態に対する信心や関心を失い、平均的な人間の平凡な経験を神聖視するようになった。
(中略)
サピエンスもコウモリも恐竜も、40億年に及ぶ地球上の進化史の中で一度も経験したことのない、果てしなく多様な精神状態が、おそらく存在するだろう。なぜなら、私たちにはそれに必要な器官がないからだ。ところが将来は、強力な薬物や遺伝子工学、電子ヘルメット、直接的なブレイン・コンピューター・インターフェイスが、そうした大陸への航路を切り拓いてくれるかもしれない。コロンブスやマゼランが新しい島々や未知の大陸を探検するために水平線の彼方へと航海していったのとちょうど同じように、私たちもいつの日か、心という惑星の反対側へ向かって大海へ乗り出すかもしれない。(第10章より)

テレンス・マッケナという学者が、人間が急速に進化したのは、狩猟採集生活を送る過程でたまたまある種の幻覚性物質を摂取するようになったからだという説を唱えています。これは、わずか数万年の間にホモ・サピエンスが「認知革命」という進化を遂げた説明として矛盾がないと思います。そして、変性意識の研究というのは、様々な要因により現在はあまり行われていないのが現代という時代です。

AIが囲碁の世界チャンピオンに勝つなど、知能がどんどん進化する一方で、私たちの意識というのは退化している一方なのかもしれません。そう考えると逆に、まだまだ足掻く余地があるのかもしれません。本当にアルゴリズムに過ぎないとしても、知能に軍配を上げるのは、まだ早いのではないかという気もします。

とはいえ「意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき」というのは、もう目前に迫っているに違いないでしょう。

そこに「魂」は宿っているか

ここで私の職業に関する話をすると、私は企業のESG経営の推進を支援するコンサルティングをしており、具体的には企業の「環境長期ビジョン」などの立案をすることによって、財務指標には表れない非財務指標を向上させるとともに、環境や社会に対する取り組みを経営に統合することで、企業理念に基づいた事業活動を強化し、本業をアップデートすることを手掛けています。

この「非財務指標を向上させる」仕事を、例えばシンクタンクや外資系のコンサルはデータ分析に基づいた機械的なアプローチで行います。要するに「貴社はこの分野の取り組みが遅れているから、これをすればこれだけ外部評価が上昇する」と、対処療法的にビジネスライクな解決策を提示するのです。
一方、マーケティングや広告代理店系の会社は、取り組みの中身そのものにはあまり注力せず、ステークホルダーとのコミュニケーションに重きを置きます。要するに、PRするものがスカスカだろうが何だろうが、とにかく内容があるという前提で「よく見せよう」とするアプローチです。

もちろん、このようなアプローチにも長所はあるのだと思いますが、おそらくAIがこの仕事をできるようになったら、人間よりも効率的に行うことが出来るでしょう。そして、肝心の中身がないために失敗したという例をよく聞きます。(中身というのは、例えばビジョンが明確であり、かつ企業理念や本業のアップデートに紐づいている、というようなことです)

何が言いたいかというと、手前味噌で恐縮ですが、いかに優れたアルゴリズムがあろうと「魂」の入っていないものはやはり弱いと思うのです。

タマシイという曖昧な言葉も、人間至上主義が肯定する妄想の一つに過ぎないのでしょうが、結局のところ、経営やビジョン実現のための施策に関わるのが生身の人間である以上「魂」と呼ばれるようなものが重要なのは、確かだと思われるのです。

虚構をアップデートせよ

ホモ・サピエンスは社会的な動物であり、一人一人は弱く浅ましい存在ですが、集団としては地球最強の動物です。その特徴としては、「客観的な現実」「主観的な現実」に加え「共同主観的な現実」を生きているということです。前の二つはチンパンジーも同様ですが「共同主観的な現実」は虚構をつくり信じることのできるホモ・サピエンスに特有のものです。

例えば「貨幣」がそれに該当しますが、国家という規模ではなく、自分の周りのコミュニティの範囲において「貨幣」のような虚構をつくり、根付かせようという試みは、どれほどの人が試みていて、そのスキルはそれほどのものでしょうか?

いわゆるサブカルの時代は、もう終わってしまったと言われます。そしてフィクションの物語に取り代わったものは、googleやFacebookであると。しかしそれらが提供するアルゴリズムもまた虚構、共同主観的な現実であるという点では共通しているのではないでしょうか。

まとめ

最先端のテクノロジーに身を委ねることは、決して悪いことでも思考停止でもなく、むしろ大きなメリットがあると思いますが、より優れたアルゴリズムに「上位互換」という形で人間が取り込まれてしまうこととは、また別の道も残されている気がします。

例えばそれは宇野常寛氏の「遅いインターネット計画」のような社会運動を通じ、人間のアルゴリズムをアップデートして、優れた知能のアルゴリズムに取り込まれないようにする、支配・被支配の関係ではなくうまく共存するというようなことではないでしょうか。




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