差別というものを考えてみる。
これは全て個人的な考え方にすぎません。という断りを入れておいて。
差別というものを考えてみる。
差別心というものは誰の心にもあって、これは生まれてきたときから備わっている。差別心があること自体を否定することは誰にもできないと思っています。
おそらく、差別心と向上心はほとんど同じものであって、表裏一体なのではないかと考えています。ひとつの正円を横線で割り、上の半円を向上心、下の半円を差別心と呼んで差し支えないのだと。
ある人を見て「ああなりたい」と思う気持ちと「ああはなりたくない」と思う気持ちは、ほぼ同一のものだし、芸を見て「とても良い」と感じるのと「くだらない」と感じるのも、表裏一体なのだろうと。わたしたちは「とても良い」と感じたものには「憧れ」を抱き、「くだらない」と感じたものを「見下し」ている。そう言ったら、誰にだって心当たりがあるのではないでしょうか。
だから、差別心を持たずに生まれてきた人間はいなくて、それは人間の本能として備わっているものである、と、ここでは定義させていただいて、次に進みます。
そして、ここからが大切なところ。
人間と動物を隔てているのものは、知性であり、理性である。これは、多くの人が賛同してくれるのではないかと思います。
わたしたちの祖先が動物だったころから、人間に至る過程のなかで、様々な本能を手なずけてきたはず。どうやって手なずけてきたかは計り知れませんが、おそらくは、ときに抗い、戦い、葛藤し、ときに助け合い、規律をつくり、監視してきたのではないでしょうか。
そうすることで、他の動物よりも優位に立ち、社会がつくられ、文明がつくられていったのでしょう。
わたしたちは、本能よりも、理性や知性に重きをおくことで、人間に進歩することができた、と言っても過言ではないと思います。
ということは、本能を自由にさせ、手なずける努力を怠ることは、動物に立ち返る行為だと言えるかもしれない。
つまり、差別心がわたしたちの本能であるならば、その本能をあるがままにするということは、人間であることを諦めようとしているのと、ほぼ同義だと言っていい。そう思っています。
どちらを選択するのかということ。
差別心があるのは自然なことで、それは誰も否定できません。わたしのなかにもあり、あなたのなかにもある。
知らず知らずのうちに、誰かを差別してしまった経験があるかもしれない。人から差別だと指摘されて、驚いてしまった経験があるかもしれない。それは差別だと何度注意されても、まったく理解できないという経験があるかもしれない。
それは仕方がないんです。差別心は本能だから。
重要なのはそれを認めたあとで、開き直るのか、手なずけるのか、どちらを選択するのか、ということだと思う。
少し誘導するような表現になってしまうけれども、開き直るということは動物に近づこうとする行為で、手なずけるということは人間であろうとする行為と言えるのではないでしょうか。
わたしたち人間は、理性や知性を駆使して社会をつくり、ここまでの文明を育てることができたのだから、その社会を構成するひとりひとりが、差別心を手なずけることはできると思うのです。
少なくとも、手なずけようと努力することはできると思うのです。
自分の差別心に気付いたとき。きっと否定したくなります。
自分の差別心を人に指摘されたとき。やっぱり否定したくなります。
それは、差別心を持っている人間が、悪いヤツだと思い込んでいるからです。
とんでもない。差別心を持っているのは普通のことです。すべての人間に、本能としてセットされているものなのです。そう考えたら、否定なんてする必要ないじゃないですか。
あとは、見つけてしまった差別心を手なずけるだけです。
簡単な作業じゃないですけどね。勉強したり、意見を聞いたりしながら、自分の心と向き合う時間が必要です。深く深く思考して、自分の心から、見たくもない汚いものを取り出して、光を当てなくちゃいけないかもしれない。
でも、その作業こそが、動物と人間を分かつ行為なんだと思います。
ということで、最後に。
わたしも、自分の差別心に気づくたびに、落ち込みます。無自覚なまま、誰かを傷つけてしまったことが多々あります。なんでこんな些細なことでイヤそうな顔をするんだろうと首をひねったこともあります。気がついたら人が離れていって、どうやら嫌われているらしいことを後で知ったり、そんなこともあります。
そして、その反対もすべてあります。
ここに書いたのは、他人に求めるものではなくて、自分自身に求めるものです。
自分にできることは、自分に対してだけですから。自分ではない誰かに、差別心を手なずけるよう求めたところで、その人が本当に実行するかどうかはわかりません。
でも自分自身が人間であろうと努力するだけで、近くにいる人はなにかを感じるのではないでしょうか。
人類は本能を上手に手なずけることができたからこそ、いま文明があって、私はMacでnoteを書き、あなたに読んでもらうことができています。だからきっと、人類は、差別心と上手につきあうことができるだろうと、思っています。
もしシェアしたいと思ってくださる方がいたら、とても嬉しいです。
電子書籍の表紙制作費などに充てさせていただきます(・∀・)