見出し画像

独我論というよりも「私は知っていること以外は知らない」という当たり前のことを言っているだけなのでは?

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析、10章「独我論」の分析はこれで終わりです。やっと11章へ・・・

過去の記事は以下のマガジンでどうぞ。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note

引用部分は説明がないものに関しては、すべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)からのものです。

********************

 私は、以下のレポート(の21ページ)において野矢氏の言われる「存在論的経験」とは単なる”過去の経験”にすぎないことを指摘した。

論理空間とは何なのか ~野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第8章「論理はア・プリオリである」の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report41.pdf

 ならば、

切り出されてくる対象は、私がどのような存在論的経験をしているかによる。つまり、対象を切り出す元手となるような、いかなる事実に私は晒されてきたのか、それに応じて対象領域が定まる。

(野矢、216ページ)

・・・という説明は、現在の知識はすべて過去の経験に基づくものなのか、という(まるでヒュームらが問うていたような)問題に関するものなのだと言える。
 「切り出されてくる対象は、私がどのような存在論的経験をしているかによる」という判断は、(先に述べたように)“事実”として現れた対象がまず先にあって(「切り出された」のかどうかも事後的な判断にすぎない)、それが自らの過去の経験(の記憶)の影響を受けているのかどうかという事後的な因果推論の問題だからだ。強く確信を持てる場合もあれば(これは前に見たことがあると判断できるような場合)、断定して良いか悩む場面もあるだろう。上記の野矢氏の見解は確固とした事実として(私たちの具体的経験として)現れるとは限らないのである。
 たとえば、今まで見知らない物体を見つけ、それを「物体A」と名付けることもできよう。それが過去の経験とどう繋がりを持っているのか、それ一度きりの経験からどう(因果的推論の)結論を出せというのであろうか? (もちろん推測はできるが、あくまで推測である。)
 これまでにない痛みを感じ、それを「痛みX」と名付けてもよいし、これまでに感じたことのない不思議な気持ちを「気持ちY」と名付けても良い。名前は好きにつければ良いのであるが・・・これらの論理空間が広がっていく経験(野矢氏の言われる「存在論的経験」)に関して、過去の経験との関連づけなど推論以上のものにはならない。
 いずれにせよ、野矢氏の言われる「切り出されてくる対象」というものが過去の経験といかに関与しているかなど、完全に把握できるものではないのである。そして存在論的経験も対象(つまり事実)の現れに他ならない。

 さらに野矢氏は「存在論は語りえない」(野矢、218ページ)ということについて、以下のように説明されている。

第一に、「これらは存在する」と語ることはできない。語りうるのは対象の配列たる事態のみである。たとえば「ウィトゲンシュタインは哲学者である」と語ることはできる。しかし、「ウィトゲンシュタインは存在する」と語ることはできない。というのもこれはトートロジーではないにもかかわらず、偽ではありえないからである。命題が有意味であるためには、名が表す対象が存在しなければならない。それゆえ、「ウィトゲンシュタインは存在する」のような表現の場合、その有意味性の条件と真理性の条件が一致してしまうのである。「ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士である」は有意味であり、偽であるが、「ウィトゲンシュタインは存在する」は有意味かつ偽ということはありえない。もしウィトゲンシュタインが存在しないならば、「ウィトゲンシュタインは存在する」は偽ではなく、ナンセンスとなるしたがって、真偽両極をもちえないがゆえに、「ウィトゲンシュタインは存在する」のような表現は正規の命題ではないとされねばならない。

(野矢、218~219ページ)

・・・どうにもおかしな話である。

① 「ウィトゲンシュタインは存在する」という命題は、現実世界においては真であるが、“もしウィトゲンシュタインが存在しない世界があったら”という物語、あるいはそういった想像の世界を構築すれば、その論理空間において偽となる。そもそも論理空間は一つではない。
② 「ウィトゲンシュタインは存在する」という言語表現が有意味であるということは、ウィトゲンシュタインという人が(別に犬でも良いのだが)実際にいた(あるいは「いる」でも良い)、つまり「ウィトゲンシュタイン」という名前に対応する対象(物)が実際にあったということに他ならない。つまり名が表す対象が実際に存在するということなのである。
③ 「ウィトゲンシュタインが存在しない」がナンセンスというのであれば、「ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士である」も同様にナンセンスとなるはずである。なぜならそのような事実はどこにもなかったからである。
ウィトゲンシュタインが宇宙飛行士である物語を想像することが可能なように、ウィトゲンシュタインが存在しない世界の物語を想像することも可能である。「ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士である」が有意味な命題であるというのであれば、「ウィトゲンシュタインが存在しない」も同様に有意味な命題であると言えるのである。

 思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。

(野矢、218ページ)

「思考」という言葉を使うから話がややこしくなるのである。問題は言語が有意味かどうかなのである。語ることはできる。問題はその語ったことが有意味かどうかなのだ。私たちは「ウィトゲンシュタインは存在する」とも「ウィトゲンシュタインが存在しない」とも語ることができる。そしてその言語表現の意味となる事実・事態を指し示したり想像したり描いたりすることができるのである。そしてそれは「ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士である」であろうと「ウィトゲンシュタインは哲学者である」であろうと同じである。

 私自身の存在論は、私がさまざまなことを語りだすことにおいて、その語りの前提として示されてくるだろう。すなわち、それは語られず示されうるものにほかならない。

(野矢、220ページ)

・・・これは「存在論」云々の話ではない。言語表現の意味としての対象が”語られず示されうるもの”なのである。そもそも「存在論」とは何なのであろうか・・・?
 そして、野矢氏の言われるように、

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」のであれば、とりあえずここから「私の世界の限界=世界の限界」ということは言える。
 しかし、これではまだ「世界は私の世界である」という独我論の主張は出てこないのである。

(野矢、222ページ)

 実質的にウィトゲンシュタインは「知っていることは知っているが知らないことは知らない」と言っているだけで、ここでわざわざ独我論を持ち出す必要などどこにもない。野矢氏の言われるように、「私の世界は現実のこの世界のほんのささやかな一部分でしかない」(野矢氏、222ページ)からである。また野矢氏は論理空間の「変容を促す力」が「他者」(野矢、316ページ)なのだとされている。これも非常にまっとうな(おそらく)誰もが同意できる意見なのではなかろうか(もちろん先に私が説明したように、他者が関与しない論理空間の変容・拡大もあるが)。

『論考』は私に未知の事実が存在することを認める。・・・(中略)・・・だがそれでも、世界が私の理解可能なもの、語りうるものであるならば、世界の存在論は私の存在論と一致していなければならない。それゆえ、世界は私の世界なのである。
『論考』が独我論を正しいと主張しうるのは、このようにして「世界」を思考可能なもの、「語りうるもの」に局限したからにほかならない。

(野矢、225ページ)

 これも「知っていることは知っているが知らないことは知らない」以上のことは言っていないように思える。新しい経験というものはこれまでどんどん現れてきた。新しい経験を与えてくれそうな事象というものは周囲にたくさんある。会ったことのない人たちもたくさんいることは否定できない事実である。

論理空間は操作と生(私の生)によって決定される

(野矢、226ページ)

厳密に言えば、「私の生」により“存在論的経験”(とは言うものの、単に“これまでの経験”のことなのであるが)が決定されるというよりも(これは事後的な因果分析による事実認識)、それら経験が生じていることが「私の生」の根拠・確証となっている。具体的経験がまず先にある。繰り返すが「私」「私の生」というものはそこから導かれるものであって、(特に超越的な意味で)具体的経験の前提として「私」「私の生」があるのではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?