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”概念分析”は幻想

戸田山和久著『哲学入門』(ちくま新書、2014年)分析の続きです。
これまでの内容は以下のマガジンで見ることができます。

科学哲学批判|カピ哲!|note

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 戸田山氏は、次のように主張した上で概念分析を伴う分析哲学を批判されている。

哲学はことがらそのものを探求する(べきだ)
 ただし、このように哲学の仕事を描写できるのは、哲学が〇〇の概念ではなく〇〇そのものを探求していると言える限りにおいてだ。たとえば岩石学は、石の概念ではなく石そのものを研究する。

(戸田山、125ページ)

 概念分析(そして分析哲学)の手法について戸田山氏の説明を見てみよう。

ここで言われている「概念分析」とは、われわれが普段使っている概念の内容を分析して、できればその概念の必要十分条件を定式化する作業のことだ。

(戸田山、118ページ)

この概念分析を主な方法として営まれる哲学の流派は「分析哲学」と呼ばれている。

(戸田山、118ページ)
 

 分析哲学という「言葉と言葉との関係」に執着する手法を批判し、言葉に対応する”実物”あるいは”現実として生じている現象”を見つけていこう、という考えなのである。実質的に戸田山氏の言われていることはこういうことになる。
 そもそも言葉と言葉との関係が成立するということは、それぞれの言葉が指し示す対象物・事象との間に実際に具体的関係が成立しているということでもあるのだ。
 つまり戸田山氏は「意味という言葉」の意味としての対象物を探るという手法をとろうとしているのである。つまり実質的に「意味」とは言葉が指し示す対応物であることを認めてしまっているのだと言えよう。
 実際、概念分析の手法を「われわれがココロに抱いている概念とは別に、概念それ自体がある」とする「プラトニズム」(戸田山、123ページ)だとして批判している。
 ”概念それ自体”、”概念そのもの”というものはない。ならば言葉の意味とはやはりその言葉が指し示す対象物・事象でしかありえない。
 ・・・その上で、「意味」という言葉の対象物を探そうとしても「意味そのもの」の実体を見つけることなどできないのである。「概念それ自体」が見つからないのと同じである。
 ここで実体物と実体物の様子・状況とを区別する必要があろう。
 何度も(私がこれまでに)説明してきたことであるが、「言葉の意味」とは言葉に対応する具体的事物である。言葉とその具体的事物とが関連づけられたとき、ある具体的事物を言語で表現したとき、その具体的事物がその言葉の「意味」となるのである。「機能」については前章で説明したとおりである。

哲学は概念分析だけをしているわけではない。概念分析や概念の定義をするにしても、それは理論構築のなかにヒトコマとして埋め込まれている。そして、理論の良さは別に評価される。
 つまり、哲学は「哲学的理論」をわれわれの直観によって検証しているわけではない。どっちがより包括的でたくさんのことを説明できるか、どちらが他の理論と整合的か、どっちがより唯物論的か(これは私の独自基準ね)、どっちの帰結がより実り豊かか、といった基準で理論は検証される。理論をつくるときに概念分析や直観は役に立つかもしれないが、つくった後のこうした一連の理論展開には直観の出る幕はあまりない

(戸田山、123~124ページ)

・・・これが本当に規準となろうか? 「包括的でたくさんのことを説明できる」としてもそれが嘘だったら? そもそも「実り豊かか」とはどういうことなのだろうか?
 戸田山氏は「どっちがより唯物論的か」と述べられているが、実質的には「どっちがより事実と合致しているか」「ことがらそのもの」と合致しているかということなのではないのか? そもそも「ことがらそのもの」を探求するとはそういうことではないのか?
 つまり「直観」ではなく「事実」かどうかなのである。
 分析哲学・概念分析の問題点は、単に客観性の問題とも言えない(戸田山、121~123ページ:実験哲学に関して)。哲学だけではなく科学も究極的には個人的経験の積み重ねでしかない。質問票を配り人々の見解を調査するにしても、それらひとつひとつのデータはそれぞれの人の個人的見解である。科学実験も個人の視覚・聴覚などに依存しており、それらを何度も繰り返し行う上で客観性を確立していくのである。客観性とは(一般的に言う)主観の積み重ねにより成立するものなのである。
 むしろ問題点は、本当に事実と合致しているかも不明な論理への過度の信頼なのではなかろうか。

先ほど例に挙げた知識概念の分析では、知識を「正当化された真なる信念」とする定義が取り出されて、しばらく定説の地位を占めていた。もちろんここで探求がストップするわけではなく、今度は「正当化」概念(つまり「証拠がある」という概念)の分析が始まるし、この分析に反例はないかという吟味が始まる。反例をつくるためにしばしば「思考実験」が行われる。

(戸田山、120ページ)

・・・反例が見つかればその理論が覆される、という考えはまさに”0か100か思考”のように思える(あるいは二値原理的?)。例えばモノが「存在している」根拠は何かという問題において、私たちは日常的に「触れることができる」「見えている」など自らの感覚を根拠としている。今見えていないものでも「そこに行けば見えるだろう」「そこに行けば触れることができるだろう」といった信頼に基づいて存在を確信している。
 分析哲学者たちは、この”当たり前”の事実を、「私たちは錯覚することがある」という反例的事実のみで否定してしまうのである。しかし日常生活において私たちは、「こういう場合は錯覚する可能性がある」という経験則をもって個別に判断している。錯覚する場合はどんなときかは、過去の(自らの)具体的経験や他人(本やテレビかもしれない)から教えてもらった情報などにより知ったりするであろう。しかも、それらの経験則も究極的には個人個人の感覚(よく見たら違ったものだったとか、実際に計測したら違う長さと思っていたが同じ長さの線分だったとか)により確かめられるものなのであるが。

※「知覚の哲学」に関して私は以下のレポートを書いています。参考までに。
ヒューム『人性論』分析:「存在」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf
経験とは?経験論とは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf

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