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「心的作用の本性」や「人間本性の諸原理の解明」をする前提として、言葉の意味の成立(言葉と対象となる事物との繋がり合い)がある。抽象観念の成立を原理的に説明しようとすると循環論理(循環論法)に陥ってしまう。

 抽象観念の意味の成立の”原因”や”原理”を問おうとするとき、つまり事象と事象との因果関係とを構築するとき、それらの事象、そしてその事象を指す言葉との繋がり合いが既に前提されている。
 ヒュームの言う“抽象観念”の成立、より具体的には様々な個別的観念と特定の名辞との関係が構築された上で、ある名辞により指し示されている事物と、別の名辞により指し示されている別の事物との関係を見て取れるようになる。事象Aと事象Bとが恒常的相伴にあることが見て取れるのである。
 つまりこういうことである。ヒュームが、抽象観念が成立する原理を問おうとするとき、既に成立している抽象観念との関係構築によりそれを説明してしまうという事態が起きてしまっているのだ。要するに”循環論法”である。

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言葉の意味としての対象の指示、そして同一性に関して、ヒュームの『人間本性論』の関係部分を見直しているのですが・・・

これに関係して、デリダ『声と現象』における、フッサールの現前性に対する批判について、デリダが抱いている違和感に対する(私の)少しの共感と、デリダによる批判が的外れ(批判のポイントが間違っている)であることをしっかり指摘しておきたいなぁ、と思っています。

時間がかかるかもしれませんが・・・関連する本をじっくり読んでいるところです。

同様の問題に関して、ウィトゲンシュタインの『探求』に関してもそのうち論じていきたいです。


<関連するレポート>

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「同一性」に関するものです。ヒュームは同一性も「知覚」であると説明しているにもかかわらず、一方で「万物は流転する」のような哲学的常識に縛られ、印象は常に変化・消失し、同じものは現れないという"思い込み"を取り払えないまま同一性について説明しようとして袋小路に入り込んでいるように思えます。
 しかし、私たちが「同じだ」と思うのは、ただ"端的に"そう思うのであって、「違う」「変化した」と"端的に"思うのと同じことなのです。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「関係」に関する分析です。経験が(経験則としての)知識として成立する際に「関係」というものは避けて通れません。経験どうしの「関係」とはいかなるものなのか、「関係」を経験論として説明するとはどういうことなのか、ヒュームの見解を批判的に検証することで明らかにしています。



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