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フッサールがエポケーすべきは「存在」ではなく「自我」の方だった

 そこに「石がある」と思った事実、より具体的には、そこに何か見えて(あるいは触れることができて)「石がある」と思った事実、その事実認識に関して、

「石がある」という事実認識が間違っている可能性、認識の可疑性を否定できないにせよ、

それは、
見えているもの(あるいは知覚されているもの)=存在しているもの
という認識を否定するものではない。ここを取り違えてはならない。

 ある存在物に関する認識が誤っていることを知るのも、結局は(これも繰り返し説明していることではあるが)別の知覚経験によってである。

 そこに見えているリンゴが実物ではなく、ホログラムだと分かったとして、そこにリンゴがないと究極的に納得するためには、それを触ろうとして実際には何もないことを知る必要がある。あるいはホログラムの電源を切って映像を消してみる、というやり方もあるかもしれない。

・・・つまり、『デカルト的省察』(フッサール著・浜渦辰二訳、岩波書店、2001年)における、

「私は哲学的に反省する者として、もはや世界の経験において自然に存在を信じることをせず」(フッサール、47ページ)、「それを通用させない」(フッサール、47ページ)

という出発点自体、既に間違っているということなのである。”それを通用させない”、エポケーするのは「存在」ではなく「自我」の方なのだ。
 フッサールは次のように説明しているが・・・

あらゆる純粋な体験とあらゆる純粋な思念されたものを含めた、私の純粋な生が、つまり、現象学の特別な広い意味における現象の全体(ウニヴェルスム)が、自分のものとなる。判断停止(エポケー)とは、言わば根本的で普遍的な方法であり、これによって私は自分を自我として、しかも、自分の純粋な意識の生をもった自我として純粋に捉えることになる。

(フッサール、48ページ)

・・・まったく的外れな見解であると言わざるをえない。知覚経験=存在(の有無)と言っても良い一方で、知覚経験=自我ではない。知覚経験そのものは存在の直接の根拠となるが、自我は知覚経験を因果的に結び付けた上で推測されるものである。
 さらに言えばフッサールの言うような純粋な自我というものは推論以上のものにはならず、具体的に根拠づけられることはない(根拠づけられるのはあくまで身体を持った存在する「私」でしかない)。

 フッサールはエポケーの方向性を完全に間違ってしまったのである。



<関連するレポート>
経験とは?経験論とは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf
・・・三谷尚澄著 「マクダウエルはセラーズをどう理解したのか? : 「みえるの語り」の選言主義的解釈をめぐる一考察」『人文科学論集. 人間情報学科編』44、信州大学、2010年、1~20ページ
三谷尚澄著「経験論の再生と二つの超越論哲学 -セラーズとマクダウエルによるカント的直観の受容/変奏をめぐって」『哲学論叢(2011)』38、2011年、45~60ページ
の分析です。「知覚の哲学」に関する議論の前提を問うものです。また三谷氏・セラーズの言う「経験論」とは実質的に何なのかについても述べています。

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